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2020.02.28

由、知德者鮮矣。(『論語』衞靈公篇)

 「子曰、由、知德者鮮矣。(子曰はく、由〔いう〕よ、德を知る者は鮮〔すくな〕し。〔『論語』衞靈公篇〕)という、二千五百年前の孔子の嘆きは過去のものではない。「德は得なり。」という、音通による言い換えで「德」を説明するのが定石(じょうせき)だが、貨幣経済の浸透とともに徳は「有徳人(うとくにん)」の「徳」になってしまった。即物的なものの方が万事話が通じやすい、という意味でも、「徳」と「金」は相似の部分があるが、もう一度、手垢のついた銭を洗い直して、「有徳人」たらんとするのでなく、もとあったはずの(あるべきものだったはずの)徳を見直す必要があるのではないか。

  歳を重ねても、文章というものはあまり変わらない。昔から読みにくい文を書く人である。ライトノベルに慣れ親しんで育った世代には、古文と漢文の混淆した化け物が歩いているように見えるに違いない。易しい文章でも、達意の文にする名手はいる。羨しいと思うが、余分な部分を割り切って伝えられないところに、どうしても性格が出てしまう。このブログのようなものも、書き続けていくうちには善い意味で分かりやすいものにならないとも限らないが、あまり変わらないで終わるような予感もする。若い人たちの文章は、概してきっぱりと明朗快活でさわやかだが、立ち止まることはあまりしないと思われる懸念もあり、路傍に立ち止まって眺め直すのは、ヒマな年寄りの役割とも考えられる。

 国語の教員だったせいか、時事的話題に触れるのも「言葉」から入っていくことが多い。この度のウィルス騒ぎに付随して、いろいろなパニックに、あるいは巻き込まれ、あるいは立ち止まらされ、いろいろなことを考えさせられた。ほんの少しだけ、明るい話題もあったが、それはそれで新たに考えさせられる種にもなった。こう書くだけで「上から目線」のような嫌味、またはダサイ「土味」のようなものが漂ってきそうで、だったら止めればいいようなものだが、ブログは自分にとっては「日記」であり、腹の中のガスのごとく、庭の穴にでも吹き込まなければ、自然に溜ってしまうものだ。また、書かなければその先へ行かれないということもある。どうせ誰も読まないものだろうから、少なくとも政治屋のプロパガンダとは対蹠的な位置にあるものだと信じて書き続ける。少なくとも「このままでは社会が崩壊してしまう」などといった、「為(ため)にする」、バイ菌のような痕跡だけは残しておきたくない。

 日本から中国に送られた支援物資に書かれていた「山川異域、風月同天」の出典は『唐大和上東征伝』だということで、さらに「寄諸佛子、共結來縁」と続くようだ。「諸」は長屋王が贈った千の袈裟で、「縁(えり)の上の繍(ぬいとり)」としてこの四句があったという。「山川域(いき)を異(こと)にすれども、風月天を同(とも)にす(同じうす)。諸(これ)を佛子(ぶつし)に寄す。共に來縁を結ばん。」というメッセージと共に、左右に繍した袈裟を大陸の大徳、衆僧に贈った。作者は長屋王自身か、その意を体した者であるらしい。シチュエーションも古代と同様で、タイムリーな文言である。これがあちらのSNSで流れ、日本人は「」のある国民だという高い評価になったらしい。他にも、「豈曰無衣、与子同裳」(豈に衣無しと曰はんや。子と裳を同にせん。〔詩経〕)、「青山一道同雲雨、明月何曾是兩郷」(青山道を一(いつ)にし雲雨を同にす。明月何ぞ曾(かつ)て是れ郷を兩(ふたつ)にせん。〔王昌齡「送柴侍御」〕)などの文句が、救援物資の箱には書かれていたそうである。(読み下しは少し違っているかもしれない。)いずれも「みんな一緒」のメッセージを明確に伝えている。これらが1月下旬から2月前半(11日)の出来事であり、下旬(23日)には武漢からの返礼として、中国人女性が渋谷で1,000枚のマスクを配布したと報じられていた。SNSの力で、それぞれの動機はどうあれ、互いの理解が少しでも深まるなら、とても良いことだ。私はこんなところで「徳」という言葉に出合おうとは思いもかけなかった。この言葉が現代において流通していることに、妙な驚きを感じた。

 この「徳のある国民」が「金持ちの国民」という意味でないことは明らかである。昨日、ここまでで書きさして今日のネットニュースを見ると、九州に観光にやって来た中国人が1月末にパンデミックの予想を聞き、故郷に寄付するべく家族や知り合いの日本人とともに近辺のマスクを買い漁り、本国で称えられたという報道もあった。これも「徳」の一つになり得るとしたら、言葉は残ってもその内実は昔のまま(昔求められていたまま)の意味を保持しているとは必ずしも言えないことになろうか。言葉がその形だけでも残っていれば、全く意味が消えて了うことはないにしても、これは言葉が辿(たど)る普通の形であると云って済ませておくわけにも行かない。

 現在『論語』を入力途中なのでどうしても「日記」はこの作品の話に戻ってしまうが、孔子が子路に向かって語った言葉に「由、知德者鮮矣。(由(いう)よ、德を知る者は鮮(すくな)し。〔衞靈公篇〕)というのがある。孔子は弟子によって、その教えの伝え方を変えたというが、子路には概してきつめの語調で、詠嘆的に会話する場面が目立つ。この句はそれだけで単発的に言われたものと捉えると、よく分からないところがある。まあ、そんなものか、と以前の自分も通過してしまったに違いない。しかし、今回数十年ぶりに、全文入力という形で読み返してみると、各篇の構成にはかなり考えられた形跡が認められる。これの前章は、知恵第一の子貢に向かって孔子が放った「非(多識)也。予一以貫之。」(〔吾は〕多く識るものに非ず。予(われ)は一(いつ)以て〔之を〕貫く。)という、有名な「一貫」の章である。その一なるものとは曾子が喝破(かっぱ)した「夫子之道、忠恕而已矣。(夫子(ふうし)の道は、忠恕(ちゆうじよ)のみ。〔里仁篇〕)であるといわれている。孔子の言葉は、概して弟子の自足している部分を鋭く衝く、という性質のものが多い。「忠恕」が「多識」と対偶関係に置かれているものとすれば、「知德者鮮矣」と声強く発したこの時の孔子は、どのようなことを考えていたのだろう、と思って直後に続く章を見るとこうあった。「無爲而治者、其舜也與。夫何爲哉。恭己正南面而已矣。(無爲(むゐ)にして治(をさ)まる者は、其(そ)れ舜(しゆん)なるか。夫(そ)れ何をか爲せしや。己(おのれ)を恭(つゞま)やかにして正し、南面(なんめん)せしのみ。〔衞靈公篇〕)子路は行動の人である。これはこの弟子に向けて、孔子自身を語ったものではないか。舜は人材登庸に秀で、堯の禅譲を承継した。孔子がその行迹を総括した「恭己正南面」に、意味があるのだ。こう見てくれば、「忠恕」の人が努めたことは「己を恭やかにする」ことだった。これは伝えが他にも見られ、子貢もまた孔子を「温良恭儉讓」(學而篇)の人としている。

 この「衛霊公編」は名言集のように修辞に満ちたものが多い編だが、これは修辞ではない。見立てを舜に置いたためにこの編に組み入れられたかと思われるようなものである。だいいち子路には修辞の類はあまり通じなかったのではなかろうか。これは直言と見てよいのである。子路ならば、あるいはマスクを数万枚持ち帰ることを英雄視したかもしれない。100万枚以上送致した日本の「有徳の人」にも、多少の同情を示したやも知れぬ。「徳」は言葉一般のたどる常道に洩れず、風化しやすい言葉の一つである。下手な定義を下すくらいなら、「知る者は鮮し。」とだけ言っておいた方が良い。それは「己を恭やかにする」ことのいかに困難であるかを示す。舜のような人が国政の座にあったら、国民は安心していられたろう。腹鼓を打って、ストリート芸に興じていられたことだろう。そういう人にこそ南面してもらいたいものである。いかにそれが鮮い存在であるかを知って、生民としてはせめても「恭敬倹譲」の「徳」を求める人があったことを忘れないように努めなければならない。マスクや消毒剤を日々探し回り、ありがたいことに当座の安心は得られつつある。もっともらしいことを書き並べていても、一生民の目はまだトイレットペーパーを血眼に探すまでには至っていないとはいえ、地べたから離れることがなかなか難しい。『論語』はありがたいことに人生のあるべき骨骼を教示してくれている。自分に偉そうなご託を並べる資格は無い。ただ、「德」の意義について微かな発見があったので、忘れてしまわないうちに書き留めておきたいと思ったのである。これが一つである。 (2.29)

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