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<title>Taiju&#039;s Notebook: vol. 3 ブログ</title>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2021/08/103131/">
<title>おっぽこソフトウェア</title>
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<description>&#160;　久方ぶりにVBAで自分用の貯金箱フォームを作ってみた。自分用なので、ウェブから適当な画像をダウンロードして簡単なフォームを作り、入金場所ごとに小計が出るようにした。単純至極な仕様なのですぐにでもできそうなものだったが、フォームから立ち上げるのは数年ぶりのことというわけでほとんどすべてのやり方を忘れかけていたことに気づき、けっきょく半日がかりの作業だったが、いちおうアイデア段階からひとまず満足できるように作るまでその日のうちにできたので、いいお浚いになった。毎回、新しい何かのアイデアを加えないといられず、今回は画像をクリックすると入金・加算・表示の動作を行うとともに、マウスカーソルをコインの形状にして入金動作が視覚的に明暸になるようにしてみた。大抵のヒントはウェブから拾えるので、ほぼ当初のイメージ通りに仕上がったときにはやはり嬉しかった。ただ、 計算が合うまでの流れがなかなかできず、足し算で意外に苦労するはめになったのは、やはり小遣い帳以上に出られない自分の経済生活をそのまま反映しているようで微苦笑ものだった。ちなみにマイナスの数字も入れられるので、出金もできる。こうなると貯金箱なのかどうか、だいぶ怪しくなってくる。 　ようやく足し算がつつがなくできるようになる以前に、画像フォームによる操作の斬新さを訴えたくて、製作途中で家人にディスプレイしてみたが、「どこかで見たような画像だね。」とか、「なんでハンバーグなの？」とか、質問はソフトの訴求ポイントとはほとんどすれ違うばかり、そのうえ計算をやってみせると残高が倍々ゲームで増えていくので、そんな都合のいい貯金箱があったら1つ欲しいものだ、というコメントで終わった。さすがに自分でも「計算、ダメだよな。」と弁護したが、一言、「おっぽこソフトだなあ。」と片付けられた。初めて聞いた言葉なので、「なに、それ？」というと、「言わない？」と逆に聞き返された。千葉の方言らしいが、「へっぽこ」とか「ダメダメ」のような意味らしい。ウェブの房州弁には登録されていないようだから、言い間違いであるかもしれない。「都心出身の己は聞いたことねえなあ。」と言うと、「豊島区のどこが都心だよ。」とやり返された。自分が生まれたのは東京の場末の三業地の近くである。池袋の丸物まで徒歩圏内だったが、場末に違いない。東京でも「怖ろしい」を「おっかねえ」などというのは甲州弁と重複するようだが、生れた街を離れて多摩の外れで学生時代を過ごした自分には「おっかない」への違和感はそういえば無かった。その日のうちにおっぽこなアルゴリズムはなんとか修正できたが、今年導入したブラウザのBraveと日本語入力ソフトのAtokとの相性の悪さは甚だしい。入力でまずつっかえ、漢字変換でほぼフリーズ状態になり、数回に一度はブラウザごと消してしまう。これほどひどくはなくとも、これまで使っていたKinzaやOperaなどでも似たような現象は何度もあった。毎日の不愉快はブラウザ上での日本語変換から始まるといってもよい状況である。Atokとは長い付き合いだが、こう不便ではたまには堪忍袋の緒も切れかかる。Google日本語入力にまた戻そうかしら、あれも変換はそれなりだし。他に注目できるIMEはないものか。昔はKatanaとかVJE（&#946;、&#947;）など、いくつもFEPがあったのになあ。Atokもさることながら、Windowsとも、このままいつまで付き合っていかなくてはならないのかな。苛々はどんどん拡散して、日本語にネイティブに対応するOSが無いことへの嘆きに收斂していくのだ。HDDからSSDになり、USBからThunderboltに移って行ったって、日本語入力で使いものにならなければ、そこまでの話ではないか。Tronとか、ずっと前になんとか革命とか鳴り物入りで吹聴していたのがあったが、もともと庶民には縁の無いところから前評判が始まり、工作機械用として同じく縁の無いところへ去ってしまったらしい。ノルウェーの学生がOSを作ったというようなニュースが「日本発」で聞かれるのは近い未来にあるだろうか。それにしても、出どころは某国立大学であるよりは、一介の学生というような感じだったら、どんなにか小気味よいことであろう。いつまでおっぽこITに追従していかなくてはならないのだろうか。 　足下を眺め直す作業が、戦後の日本の歴史についても必要であるのかもしれない。自分がその中で生きてきた時代について。</description>
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<dc:date>2021-08-26T09:50:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin162994390728834000" class="cms-content-parts-sin162994390728841600"><p>&#160;　久方ぶりにVBAで自分用の貯金箱フォームを作ってみた。<img src="https://taiju.cloud-line.com/images/coinbox.png" alt="貯金箱ソフトの画像" width="330" height="189" align="right" />自分用なので、ウェブから適当な画像をダウンロードして簡単なフォームを作り、入金場所ごとに小計が出るようにした。単純至極な仕様なのですぐにでもできそうなものだったが、フォームから立ち上げるのは数年ぶりのことというわけでほとんどすべてのやり方を忘れかけていたことに気づき、けっきょく半日がかりの作業だったが、いちおうアイデア段階からひとまず満足できるように作るまでその日のうちにできたので、いいお浚いになった。毎回、新しい何かのアイデアを加えないといられず、今回は画像をクリックすると入金・加算・表示の動作を行うとともに、マウスカーソルをコインの形状にして入金動作が視覚的に明暸になるようにしてみた。大抵のヒントはウェブから拾えるので、ほぼ当初のイメージ通りに仕上がったときにはやはり嬉しかった。ただ、<br /> 計算が合うまでの流れがなかなかできず、足し算で意外に苦労するはめになったのは、やはり小遣い帳以上に出られない自分の経済生活をそのまま反映しているようで微苦笑ものだった。ちなみにマイナスの数字も入れられるので、出金もできる。こうなると貯金箱なのかどうか、だいぶ怪しくなってくる。</p> <p>　ようやく足し算がつつがなくできるようになる以前に、画像フォームによる操作の斬新さを訴えたくて、製作途中で家人にディスプレイしてみたが、「どこかで見たような画像だね。」とか、「なんでハンバーグなの？」とか、質問はソフトの訴求ポイントとはほとんどすれ違うばかり、そのうえ計算をやってみせると残高が倍々ゲームで増えていくので、そんな都合のいい貯金箱があったら1つ欲しいものだ、というコメントで終わった。さすがに自分でも「計算、ダメだよな。」と弁護したが、一言、「おっぽこソフトだなあ。」と片付けられた。初めて聞いた言葉なので、「なに、それ？」というと、「言わない？」と逆に聞き返された。千葉の方言らしいが、「へっぽこ」とか「ダメダメ」のような意味らしい。ウェブの房州弁には登録されていないようだから、言い間違いであるかもしれない。「都心出身の己は聞いたことねえなあ。」と言うと、「豊島区のどこが都心だよ。」とやり返された。自分が生まれたのは東京の場末の三業地の近くである。池袋の丸物まで徒歩圏内だったが、場末に違いない。東京でも「怖ろしい」を「おっかねえ」などというのは甲州弁と重複するようだが、生れた街を離れて多摩の外れで学生時代を過ごした自分には「おっかない」への違和感はそういえば無かった。その日のうちにおっぽこなアルゴリズムはなんとか修正できたが、今年導入したブラウザのBraveと日本語入力ソフトのAtokとの相性の悪さは甚だしい。入力でまずつっかえ、漢字変換でほぼフリーズ状態になり、数回に一度はブラウザごと消してしまう。これほどひどくはなくとも、これまで使っていたKinzaやOperaなどでも似たような現象は何度もあった。毎日の不愉快はブラウザ上での日本語変換から始まるといってもよい状況である。Atokとは長い付き合いだが、こう不便ではたまには堪忍袋の緒も切れかかる。Google日本語入力にまた戻そうかしら、あれも変換はそれなりだし。他に注目できるIMEはないものか。昔はKatanaとかVJE（&#946;、&#947;）など、いくつもFEPがあったのになあ。Atokもさることながら、Windowsとも、このままいつまで付き合っていかなくてはならないのかな。苛々はどんどん拡散して、<strong><span style="color: rgb(0, 128, 128);">日本語にネイティブに対応するOSが無いこと</span></strong>への嘆きに收斂していくのだ。HDDからSSDになり、USBからThunderboltに移って行ったって、日本語入力で使いものにならなければ、そこまでの話ではないか。Tronとか、ずっと前になんとか革命とか鳴り物入りで吹聴していたのがあったが、もともと庶民には縁の無いところから前評判が始まり、工作機械用として同じく縁の無いところへ去ってしまったらしい。ノルウェーの学生がOSを作ったというようなニュースが「日本発」で聞かれるのは近い未来にあるだろうか。それにしても、出どころは某国立大学であるよりは、一介の学生というような感じだったら、どんなにか小気味よいことであろう。いつまでおっぽこITに追従していかなくてはならないのだろうか。</p> <p>　足下を眺め直す作業が、戦後の日本の歴史についても必要であるのかもしれない。自分がその中で生きてきた時代について。</p></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2021/08/102983/">
<title>古典ページの表示についてひと工夫</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2021/08/102983/</link>
<description>&#160;なし崩しのオリンピックが半分終了して、改めて少し書き始めることにした。 &#160;一つには、あまりHPを更新しないでいると、無料ページは消されてしまうかもしれないからである。周作人の作品について一筋縄でいかないことが予想され、しばらく間をおこうと考えたが、調べが遅々として進まなかった。図書館が自由に使えないという理由もあるが、準備に集中できないうちに時間だけが経過してしまった。友人のHPまで更新を怠ってしまった。ひとまず、孟子くらいは完成させたいが、これも中休みの体たらく。要するに、逸れていた。 &#160;気の散るままに、古典の異本を参照するスクリプトを2つほど作った。責め塞ぎにサンプルのみ掲載する。これも「完成」はおぼつかない感じがするが、他にこの手のページもまだ見ないから、頼りないHPの更新かたがた紹介しておきたい。CSSとJavascriptをかじっただけの表示サンプルである。（どちらもShift-JISなので、HPトップの説明にある方法でエンコードしてほしい。） 　(1) 「枕草子」諸本のテキストと注記の動的切替えのサンプル &#8594; こちら。　　　　異本を選択し、章段番号（数字のみ）を入力して表示／非表示ボタンを押す。下部のボタンは全文のON/OFF。 　(2) 「校異源氏物語」による字句の異同表示のサンプル &#8594; こちら。　　　　色つきの字句の上をマウスオーバーすると、異本の字句を表示する。(1)が章段単位であるのに対するもの。 </description>
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<dc:date>2021-08-11T19:05:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin162867745264305200" class="cms-content-parts-sin162867745264312100"><p>&#160;なし崩しのオリンピックが半分終了して、改めて少し書き始めることにした。</p> <p>&#160;一つには、あまりHPを更新しないでいると、無料ページは消されてしまうかもしれないからである。周作人の作品について一筋縄でいかないことが予想され、しばらく間をおこうと考えたが、調べが遅々として進まなかった。図書館が自由に使えないという理由もあるが、準備に集中できないうちに時間だけが経過してしまった。友人のHPまで更新を怠ってしまった。ひとまず、孟子くらいは完成させたいが、これも中休みの体たらく。要するに、逸れていた。</p> <p>&#160;気の散るままに、古典の異本を参照するスクリプトを2つほど作った。責め塞ぎにサンプルのみ掲載する。これも「完成」はおぼつかない感じがするが、他にこの手のページもまだ見ないから、頼りないHPの更新かたがた紹介しておきたい。CSSとJavascriptをかじっただけの表示サンプルである。<span style="font-size: x-small;">（どちらもShift-JISなので、HPトップの説明にある方法でエンコードしてほしい。）</span></p> <p>　(1) 「枕草子」<strong><span style="color: rgb(51, 153, 102);">諸本のテキストと注記の動的切替え</span></strong>のサンプル &#8594; <a href="/taiju/files/koten_texts/makura_shohon_2.html" target="_blank">こちら</a>。</p><p>　　　　異本を選択し、章段番号<span style="font-size: smaller;">（数字のみ）</span>を入力して表示／非表示ボタンを押す。下部のボタンは全文のON/OFF。</p> <p>　(2) 「校異源氏物語」による<strong><span style="color: rgb(51, 153, 102);">字句の異同表示</span></strong>のサンプル &#8594; <a href="/taiju/files/koten_texts/genji_01_kiritsubo.html" target="_blank">こちら</a>。</p><p>　　　　色つきの字句の上をマウスオーバーすると、異本の字句を表示する。(1)が章段単位であるのに対するもの。</p> <p></p></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100378/">
<title>周作人のエッセイについて（2）　「人の文学」</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100378/</link>
<description>&#160;　先日の『鏡花縁の話』に併せて『模糊集』の翻訳のことを書こうと思ったが、材料がまだ揃っていないので先に周作人によるエッセイのうち執筆時期の早いものとして「人の文学」（『文藝論集』　現代支那文学全集12　東成社　1940.10）を採り上げる。これは堂々たる論文である。正しく『文藝論集』の周作人篇を代表する一編と言えるだろう。簡明な文章で論点を整理し、中国近代文学のあるべき始発点を定めようとしたものだが、そのまま「文学論」として一大基礎論となっている。こういう一見大上段に振りかぶったごとくに見える論題でありながら、少しの浮ついた印象も与えないのは、何と言っても明晰を極めた議論の整理にあるのだと思う。今年はウォルター・ペイターの『ルネサンス』（冨山房百科文庫）を読んで、晦渋な言い回しにちょっと戸惑いながらも結局各断章を手放すことができないで「結論」まで読み通してしまったという読書体験をした。分析の測鉛が深く下ろされていることを直感しながら、その信頼感を頼りに、全くもって初めてに近い藝術家と分野と作品との固有名詞の連続を追いかけたという体験だった。藝術論とはこういうものか、という新たな発見でもあった。併せて「ルネサンス」なるものにも多少の興味を覚えることができ、はるか昔大学の教養課程で聞きかじったヨーロッパ中世の口頭伝承の諸作品など、書名だけが無意味に近い音の羅列として記憶の片隅に残っていたものも、機会があれば読んでみようかという気持ちにもなったことだった。この周作人の「人の文学」は深さの感覚はそのままに、西洋流にソフィスティケートされた表現とは異なり、まことに伝統的な「論説」の体裁の中に、「文学」のあるべき礎石を配置しようとした正攻法の文学原論であり、ヒューマニズムの宣言として思想史的にも位置づけを要求する議論であろうと思う。不易の議論である。繰り返しになるが、いかにも堂々たる議論であり、『孟子』の印象にも近いものがあった。要約は例によって追記の中に書いていくことにする。</description>
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<dc:date>2020-10-30T17:50:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin160405306257235400" class="cms-content-parts-sin160405306257242600"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;　先日の『鏡花縁の話』に併せて『模糊集』の翻訳のことを書こうと思ったが、材料がまだ揃っていないので先に周作人によるエッセイのうち執筆時期の早いものとして「<strong><span style="color: rgb(51, 153, 102);">人の文学</span></strong>」<span style="font-size: smaller;">（『文藝論集』　現代支那文学全集12　東成社　1940.10）</span>を採り上げる。これは堂々たる論文である。正しく『文藝論集』の周作人篇を代表する一編と言えるだろう。簡明な文章で論点を整理し、中国近代文学のあるべき始発点を定めようとしたものだが、そのまま「文学論」として一大基礎論となっている。こういう一見大上段に振りかぶったごとくに見える論題でありながら、少しの浮ついた印象も与えないのは、何と言っても明晰を極めた議論の整理にあるのだと思う。今年は<strong><span style="color: rgb(51, 102, 255);">ウォルター・ペイターの『ルネサンス』</span></strong><span style="font-size: smaller;">（冨山房百科文庫）</span>を読んで、晦渋な言い回しにちょっと戸惑いながらも結局各断章を手放すことができないで「結論」まで読み通してしまったという読書体験をした。分析の測鉛が深く下ろされていることを直感しながら、その信頼感を頼りに、全くもって初めてに近い藝術家と分野と作品との固有名詞の連続を追いかけたという体験だった。藝術論とはこういうものか、という新たな発見でもあった。併せて「ルネサンス」なるものにも多少の興味を覚えることができ、はるか昔大学の教養課程で聞きかじったヨーロッパ中世の口頭伝承の諸作品など、書名だけが無意味に近い音の羅列として記憶の片隅に残っていたものも、機会があれば読んでみようかという気持ちにもなったことだった。この周作人の「人の文学」は深さの感覚はそのままに、西洋流にソフィスティケートされた表現とは異なり、まことに伝統的な「論説」の体裁の中に、「文学」のあるべき礎石を配置しようとした正攻法の文学原論であり、ヒューマニズムの宣言として思想史的にも位置づけを要求する議論であろうと思う。不易の議論である。繰り返しになるが、いかにも堂々たる議論であり、『孟子』の印象にも近いものがあった。要約は例によって追記の中に書いていくことにする。</h6></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100288/">
<title>周作人のエッセイについて（1）〔続〕松枝茂夫の『鏡花縁の話』のことⅢ</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100288/</link>
<description>&#160;『鏡花縁の話』の中盤は異国巡りの粗筋の紹介で、最後に著者は「鏡花縁」の小説としての評価と文学史的位置づけ、日本における異国巡り譚の系列について補足している。どれも充実した内容のものだが、客観的な叙述に終始しているので、初め『鏡花縁の話』に期待した周作人の紹介やエッセーに触発されての感慨などは見えず、期待ははぐらかされてしまった。とはいえ、どうしてここに『鏡花縁の話』があるのかについては、偶発的な一夏の読書体験の整理という以上のものを考えてもおかしくはないに違いない。紹介の後は自分の附会の解釈になってしまうが、どうせ気楽な筆任せであるから、あまり気にもせずに書いてみる。 </description>
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<dc:date>2020-10-25T14:50:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin160360634214413500" class="cms-content-parts-sin160360634214420200"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;『鏡花縁の話』の中盤は異国巡りの粗筋の紹介で、最後に著者は「鏡花縁」の<span style="color: rgb(51, 102, 255);">小説としての評価</span>と<span style="color: rgb(51, 102, 255);">文学史的位置づけ</span>、<span style="color: rgb(51, 102, 255);">日本における異国巡り譚の系列</span>について補足している。どれも充実した内容のものだが、客観的な叙述に終始しているので、初め『鏡花縁の話』に期待した周作人の紹介やエッセーに触発されての感慨などは見えず、期待ははぐらかされてしまった。とはいえ、どうしてここに『鏡花縁の話』があるのかについては、偶発的な一夏の読書体験の整理という以上のものを考えてもおかしくはないに違いない。紹介の後は自分の附会の解釈になってしまうが、どうせ気楽な筆任せであるから、あまり気にもせずに書いてみる。</h6> <p></p></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100279/">
<title>周作人のエッセイについて（1）〔続〕松枝茂夫の『鏡花縁の話』のことⅡ</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100279/</link>
<description>&#160;『鏡花縁』の最もユニークな点の一つは、作者が時代に先駆ける進歩的思想を披露していることだという。清朝のガリヴァー旅行記に登場する不思議な国の紹介を通してその具体的な表れをたどってみる。</description>
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<dc:date>2020-10-24T17:50:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin160353416782130800" class="cms-content-parts-sin160353416782137400"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;『鏡花縁』の最もユニークな点の一つは、作者が時代に先駆ける進歩的思想を披露していることだという。清朝のガリヴァー旅行記に登場する不思議な国の紹介を通してその具体的な表れをたどってみる。</h6></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100270/">
<title>周作人のエッセイについて（1）〔続〕松枝茂夫の『鏡花縁の話』のこと</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100270/</link>
<description>&#160;周作人のエッセイについてブログで紹介することを今月初旬に書いてから、周辺資料を集めたり他の人の小説等に浮気していて、思わぬ時間が経ってしまった。半分方は周作人の関係書誌が調べるほどに続々と出てきて、とても一通りでは済まないことにだんだん気がついたためもあった。そのわりには一覧できる作品年譜も、少しぐらい調べただけでは分からず、要するにアクセスしづらい状態でないせいもあるかと思う。関心自体は専門家の間に少なからずあるようで、いずれまとまった翻訳全集なども日本で出版される日が来るのかもしれない。現在時点では手間がだいぶかかるように思う。部外者がちょこっと調べてみて、作品順も分かる範囲で書き留めてみるのが、気楽でよいかと思った。もともとTaijuのノートであるから、凡てはその範囲に留まる。周作人の小説を数多く日本に紹介した松枝茂夫に『鏡花縁の話』と題する資料があったので、前記エッセイの解説の類かと思って調べたら、『鏡花縁』そのものの紹介だった。啓明先生周作人のエッセイの趣旨からは離れるが、この資料の紹介もついでに行っておきたい。
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<dc:date>2020-10-23T10:30:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin160342510360445000" class="cms-content-parts-sin160342510360451700"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;周作人のエッセイについてブログで紹介することを今月初旬に書いてから、周辺資料を集めたり他の人の小説等に浮気していて、思わぬ時間が経ってしまった。半分方は周作人の関係書誌が調べるほどに続々と出てきて、とても一通りでは済まないことにだんだん気がついたためもあった。そのわりには一覧できる作品年譜も、少しぐらい調べただけでは分からず、要するにアクセスしづらい状態でないせいもあるかと思う。関心自体は専門家の間に少なからずあるようで、いずれまとまった翻訳全集なども日本で出版される日が来るのかもしれない。現在時点では手間がだいぶかかるように思う。部外者がちょこっと調べてみて、作品順も分かる範囲で書き留めてみるのが、気楽でよいかと思った。もともとTaijuのノートであるから、凡てはその範囲に留まる。周作人の小説を数多く日本に紹介した松枝茂夫に『<strong><span style="color: rgb(51, 102, 255);">鏡花縁の話</span></strong>』と題する資料があったので、前記エッセイの解説の類かと思って調べたら、『鏡花縁』そのものの紹介だった。啓明先生周作人のエッセイの趣旨からは離れるが、この資料の紹介もついでに行っておきたい。</h6>
<p></p></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100097/">
<title>周作人のエッセイについて（1）－「鏡花縁」</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/10/100097/</link>
<description>&#160;もともとは「参考資料」の中に周作人の『文藝随筆抄』その他を翻刻するつもりだった。ところが、原著者はクリアでも翻訳者の著作権に抵触する虞のあることが分かり、気楽を旨とする個人のホームページのこととてブログ記事にまとめてしまうことにした。原文と訳文のもつ固有の味わいをほとんどまったく伝えられないであろうことがいかにも残念だが、人の権利であるから仕方がない。訳者について何も知らないので、著作権一般の議論として見ると、つまるところは利害関係の整理が難しいということだろう。無論快く転載を許可していただける場合だってありえなくはないが、元來が権利関係を確認するほど徹底した作業でもない。要は、人にも見せてやりたい好い文章だなあと肝銘を受けたということが動機なのである。著作権にしろ他の諸権益にしろ、人間万事金の世の中が極まった現代にあっては当たり障りの比較的無さそうな方法をとるしかない。尤も、自分の感想も織り交ぜていくと、どうもやはり別物に化けてしまうのも避けられないが、紹介を旨として何とかまとめてみよう。これは仕方の無い選択ではないかと思う。ついでに名文章に学んで、拙いブログ記事のブラッシュアップができればあながち不平ばかりもたず、自己満足にひたることもできようというものだ。（すでに文末からして伝染しているのが末流の哀しさか。） &#160;そういうわけで、初めは『周作人文芸随筆抄』から「鏡花縁」を取り上げて紹介する。もっとも、これは『周作人随筆』にも載っているものだ。 </description>
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<dc:date>2020-10-05T06:45:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin160185147392383900" class="cms-content-parts-sin160185147392385400"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;もともとは「参考資料」の中に周作人の『文藝随筆抄』その他を翻刻するつもりだった。ところが、原著者はクリアでも翻訳者の著作権に抵触する虞のあることが分かり、気楽を旨とする個人のホームページのこととてブログ記事にまとめてしまうことにした。原文と訳文のもつ固有の味わいをほとんどまったく伝えられないであろうことがいかにも残念だが、人の権利であるから仕方がない。訳者について何も知らないので、著作権一般の議論として見ると、つまるところは利害関係の整理が難しいということだろう。無論快く転載を許可していただける場合だってありえなくはないが、元來が権利関係を確認するほど徹底した作業でもない。要は、人にも見せてやりたい好い文章だなあと肝銘を受けたということが動機なのである。著作権にしろ他の諸権益にしろ、人間万事金の世の中が極まった現代にあっては当たり障りの比較的無さそうな方法をとるしかない。尤も、自分の感想も織り交ぜていくと、どうもやはり別物に化けてしまうのも避けられないが、紹介を旨として何とかまとめてみよう。これは仕方の無い選択ではないかと思う。ついでに名文章に学んで、拙いブログ記事のブラッシュアップができればあながち不平ばかりもたず、自己満足にひたることもできようというものだ。<span style="font-size: smaller;">（すでに文末からして伝染しているのが末流の哀しさか。）<br /> </span>&#160;<span style="font-size: small;">そういうわけで、初めは『周作人文芸随筆抄』から「<strong><span style="color: rgb(51, 102, 255);">鏡花縁</span></strong>」を取り上げて紹介する。もっとも、これは『周作人随筆』にも載っているものだ。</span></h6> <p></p> <p></p></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/06/98444/">
<title>引用数章 (1)</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/06/98444/</link>
<description>&#160;コロナは社会の制度と風俗の内に潜んでいた様々なもの、専ら隠しておきたい醜悪な要因を衆目に暴露する働きをなした。このことは、最近の時事評論の類にずいぶん指摘され、記述されるに至った。心理学者のフロムに従って、前回列挙した様々なマイナス因子にその時取り零してしたものは《差別》である。貧富の差別、人種・民族の差別、南北の差別、弱者の差別、これらが「人が本来有する攻撃本能」（ネットの時論から）が赤裸々に表れたものとする指摘であるが、これもまた《暴力》そのものの剥き出しの発現であり、アメリカの市民と警察の乱闘などを見ると、あさましいまでに露出している。「暴行」という言葉もまた『孟子』の中には出ており、又しても引用したくなったが、外にも引き合いに出したい文章が若干あり、だらだら議論するより取りあえず書き留めておきたく思ったので、引伸延言は後日に回し、箚記その1、その2という感じで記録だけしておくことにする。</description>
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<dc:date>2020-06-07T19:15:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin159152919205336400" class="cms-content-parts-sin159152919205337200"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;コロナは社会の制度と風俗の内に潜んでいた様々なもの、専ら隠しておきたい醜悪な要因を衆目に暴露する働きをなした。このことは、最近の時事評論の類にずいぶん指摘され、記述されるに至った。心理学者のフロムに従って、前回列挙した様々なマイナス因子にその時取り零してしたものは《<strong><span style="color: rgb(0, 128, 128);">差別</span></strong>》である。貧富の差別、人種・民族の差別、南北の差別、弱者の差別、これらが「人が本来有する攻撃本能」<span style="font-size: smaller;">（ネットの時論から）</span>が赤裸々に表れたものとする指摘であるが、これもまた《<strong><span style="color: rgb(0, 128, 128);">暴力</span></strong>》そのものの剥き出しの発現であり、アメリカの市民と警察の乱闘などを見ると、あさましいまでに露出している。「暴行」という言葉もまた『孟子』の中には出ており、又しても引用したくなったが、外にも引き合いに出したい文章が若干あり、だらだら議論するより取りあえず書き留めておきたく思ったので、引伸延言は後日に回し、箚記その1、その2という感じで記録だけしておくことにする。</h6></div>
]]></content:encoded>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/05/98361/">
<title>人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。（『孟子』滕文公上）</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/05/98361/</link>
<description>&#160;「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。」（『孟子』滕文公上）とは、言うまでもなく「煖衣飽食」の典拠だが、後半がこんなに厳しい物言いになっていることは知らなかった。令和二年は正月の末以来、世の中の言動がすっかり「禽獣」に近くなってしまったと思う。政治とは、さまざまな思惑が複雑な過程を通って、世の中のバランスをとっているもの、という漠然とした依頼心が消え、この四ヶ月ほど毎日のように苛々しながら新聞・雑誌・ネットのニュースを追ううち、どうも各種の事象がまとめて禽獣の振る舞いに近づいているように思えてならない。人間の誇りを取り戻すことが、これほど大事な時代もないと思う。元はエテ公であれ、霊長としての人は「独立」を奪われてはならない。そして、富や権力を手中にしても「勘違い」を起こしてはならない。古今の「知言」の人は、動態的な人間の無様を明鏡止水のように見せつけてくれる。一人一人が「独立の気概」「浩然の気」を養って、話し始めなければならない。どんなに素朴な議論からであれ、出立点を誤った美辞麗句に比べれば霄壌の差があるものだ。私はともかくも教員であったから、「無教」の状態に置かれることの悲惨について多少は考えを巡らすことができると思う。</description>
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<dc:date>2020-05-31T18:30:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div id="cms-editor-minieditor-sin159092575289137600" class="cms-content-parts-sin159092575289138600"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;「<strong><span style="color: rgb(0, 128, 128);">人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。</span></strong>」<span style="font-size: smaller;">（『孟子』滕文公上）</span>とは、言うまでもなく「煖衣飽食」の典拠だが、後半がこんなに厳しい物言いになっていることは知らなかった。令和二年は正月の末以来、世の中の言動がすっかり「禽獣」に近くなってしまったと思う。政治とは、さまざまな思惑が複雑な過程を通って、世の中のバランスをとっているもの、という漠然とした依頼心が消え、この四ヶ月ほど毎日のように苛々しながら新聞・雑誌・ネットのニュースを追ううち、どうも各種の事象がまとめて禽獣の振る舞いに近づいているように思えてならない。人間の誇りを取り戻すことが、これほど大事な時代もないと思う。元はエテ公であれ、霊長としての人は「<strong><span style="color: rgb(255, 0, 0);">独立</span></strong>」を奪われてはならない。そして、富や権力を手中にしても「<strong><span style="color: rgb(0, 128, 128);">勘違い</span></strong>」を起こしてはならない。古今の「知言」の人は、動態的な人間の無様を明鏡止水のように見せつけてくれる。一人一人が「独立の気概」「浩然の気」を養って、話し始めなければならない。どんなに素朴な議論からであれ、出立点を誤った美辞麗句に比べれば霄壌の差があるものだ。私はともかくも教員であったから、「無教」の状態に置かれることの悲惨について多少は考えを巡らすことができると思う。</h6></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/05/98158/">
<title>「曰、難言也。」「何謂知言？」（『孟子』公孫丑章句上篇）</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/05/98158/</link>
<description>&#160;「曰く言ひ難し。」という熟語は何かの説明に窮したときの逃げ口上のように捉えられているが、元来は『孟子』に由来する。孟子の言動は一見居丈高な調子を感じてしまうが、その言葉と態度の由来するところを孟子自身が説き聞かせようとしたものと考えることができるくだりだ。孟子の弟子に連なる公孫丑（こうそんちゅう）が孟子に「敢へて問ふ、夫子は惡（いづ）くにか長ぜる。（敢問夫子惡乎長。）」（『孟子』公孫丑上）と尋ねた。本当にずいぶん思い切った問いかけである。孟子がこれに答えていわく、「我は言を知る。我は善く吾が浩然の気を養ふ。（我知言。我善養吾浩然之氣。）」と答えた。答えは二つあるが議論は一つである。これの説明に難解なところがあり、初めは考えたが、ある時点で「スッと」心に入ってきた。</description>
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<dc:date>2020-05-12T14:55:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin158926376739295300" class="cms-content-parts-sin158926376739296700"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;「<strong><span style="color: rgb(255, 0, 0);">曰く言ひ難し。</span></strong>」という熟語は何かの説明に窮したときの逃げ口上のように捉えられているが、元来は『孟子』に由来する。孟子の言動は一見居丈高な調子を感じてしまうが、その言葉と態度の由来するところを孟子自身が説き聞かせようとしたものと考えることができるくだりだ。孟子の弟子に連なる公孫丑<span style="font-size: x-small;">（こうそんちゅう）</span>が孟子に「敢へて問ふ、夫子は惡<span style="font-size: x-small;">（いづ）</span>くにか長ぜる。<span style="font-size: smaller;">（敢問夫子惡乎長。）</span>」<span style="font-size: smaller;">（『孟子』公孫丑上）</span>と尋ねた。本当にずいぶん思い切った問いかけである。孟子がこれに答えていわく、「我は<strong><span style="color: rgb(255, 0, 0);">言を知る。</span></strong>我は善く吾が<strong><span style="color: rgb(255, 0, 0);">浩然の気</span></strong>を養ふ。<span style="font-size: smaller;">（我知言。我善養吾浩然之氣。）</span>」と答えた。答えは二つあるが議論は一つである。これの説明に難解なところがあり、初めは考えたが、ある時点で「スッと」心に入ってきた。</h6></div>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/05/98099/">
<title>「汚らしい嘘や狡（ずる）は絶対に許されない。」について</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/05/98099/</link>
<description>&#160;「汚らしい嘘や狡（ずる）は絶対に許されない。」という、著名人によるツイッターの書き込みをめぐって賛否両論の書き込みが行われたという。アベノマスクという異名をとった、政府によるガーゼマスク配布に対するコメントである。こういう直言自体を見ることがとんと稀になった現代社会だ。私は爽快な印象でこれを読んだが、これをめぐる議論についても興味を持った。コロナウィルスをめぐっては、社会の見えざる顔がさまざまに露呈してきたが、「ことば」の問題についても私のようなただの市井人をいろいろ触発・啓発してくれるところがあった。そういう印象がまだ冷め切らないうちに、少し書き留めておきたい。</description>
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<dc:date>2020-05-06T17:35:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin158876936664288300" class="cms-content-parts-sin158876936664289500"><h6 style="margin-left: 40px;"><strong><span style="color: rgb(255, 0, 0);">&#160;「汚らしい嘘や狡<span style="font-size: x-small;">（ずる）</span>は絶対に許されない。」</span></strong>という、著名人によるツイッターの書き込みをめぐって賛否両論の書き込みが行われたという。アベノマスクという異名をとった、政府によるガーゼマスク配布に対するコメントである。こういう直言自体を見ることがとんと稀になった現代社会だ。私は爽快な印象でこれを読んだが、これをめぐる議論についても興味を持った。コロナウィルスをめぐっては、社会の見えざる顔がさまざまに露呈してきたが、「ことば」の問題についても私のようなただの市井人をいろいろ触発・啓発してくれるところがあった。そういう印象がまだ冷め切らないうちに、少し書き留めておきたい。</h6></div>
]]></content:encoded>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/04/97748/">
<title>義在於我、窮理亦在於我。（『言志録』169）</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/04/97748/</link>
<description>
&#160;「義在於我、窮理亦在於我。」（義は我に在り。窮理〔きゅうり〕も亦〔また〕我に在り。〔佐藤一齋『言志録』169章〕）とは、西洋科学が「以徇外逐物爲窮理。」（外に循〔したが〕ひ物を逐〔お〕ふを以て窮理と爲す。〔同章〕）という方法論を提示していたのに対して徳川後期の儒者がこれを論（あげつら）ったものである。元寇のような戦争、日宋・日明貿易のような交易等による国際化の波を越えて数百年、江戸期の合理的精神に「駸駸然」として浸透してきた洋学が「外物」を操作しながら新たな《物の理》の存在感を発揮し始めていた。今日の我々は、西洋科学の地盤に立って儒者の迂闊（うかつ）を嗤（わら）うことはいとも簡単であるが、ここに顕在化した《軋み》をもう一度見直す必要はないだろうか。一个のVirusが垣間見せた東西文明の素顔を通して、国際化日本の立ち位置をもう一度見直すことが大切ではないかと思ったのだ。
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2020-04-05T13:55:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin158606361913576100" class="cms-content-parts-sin158606361913577200">
<h6 style="margin-left: 40px;">&#160;「<strong><span style="color: rgb(255, 0, 0);">義在於我、窮理亦在於我。</span></strong>」<span style="font-size: smaller;">（義は我に在り。窮理<span style="font-size: x-small;">〔きゅうり〕</span>も亦<span style="font-size: x-small;">〔また〕</span>我に在り。〔佐藤一齋『言志録』169章〕）</span>とは、西洋科学が「<strong><span style="color: rgb(0, 128, 128);">以徇外逐物爲窮理。</span></strong>」<span style="font-size: smaller;">（外に循<span style="font-size: x-small;">〔したが〕</span>ひ物を逐<span style="font-size: x-small;">〔お〕</span>ふを以て窮理と爲す。〔同章〕）</span>という方法論を提示していたのに対して徳川後期の儒者がこれを論<span style="font-size: x-small;">（あげつら）</span>ったものである。元寇のような戦争、日宋・日明貿易のような交易等による国際化の波を越えて数百年、江戸期の合理的精神に「駸駸然」として浸透してきた洋学が「外物」を操作しながら新たな《物の理》の存在感を発揮し始めていた。今日の我々は、西洋科学の地盤に立って儒者の迂闊<span style="font-size: x-small;">（うかつ）</span>を嗤<span style="font-size: x-small;">（わら）</span>うことはいとも簡単であるが、ここに顕在化した《軋み》をもう一度見直す必要はないだろうか。一个のVirusが垣間見せた東西文明の素顔を通して、国際化日本の立ち位置をもう一度見直すことが大切ではないかと思ったのだ。</h6>
</div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/03/97532/">
<title>古者方相氏爲儺。（『言志録』72）</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/03/97532/</link>
<description>&#160;2月の鬼遣らいは、古代の「追儺（つゐな）」がもとになっているという。3月に入ってからだが、1か月以上かかった『論語』の本文入力も終わり、短文で気の利いていそうな感じがした『言志録』以降、佐藤一斎が文化から嘉永年間にかけて40年間書き綴った「言志四録」の入力に取り掛かった。中に「追儺」の話を政治論にまとめた一連の短章があり、『古文真宝後集』中の一編を読むような感触があり、なんだかんだ又書いてみたくなった。「追儺」とは「鬼遣らい」の意味の語で、中国古代から続く「疫癘」退散の行事である。古典を読む度に感じるのは、人間の記録された歴史はたかだか三千年程度、今も昔も似たような話、似通った心情を伝える話が多いのも至極当然という感覚である。一斎の達意の文は、その当時の感覚をよく伝えている。</description>
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<dc:date>2020-03-16T07:05:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin158431406105973400" class="cms-content-parts-sin158431406105975200"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;2月の鬼遣らいは、古代の「<strong><span style="color: rgb(255, 102, 0);">追儺<span style="font-size: x-small;">（つゐな）</span></span></strong>」がもとになっているという。3月に入ってからだが、1か月以上かかった『論語』の本文入力も終わり、短文で気の利いていそうな感じがした『言志録』以降、佐藤一斎が文化から嘉永年間にかけて40年間書き綴った「言志四録」の入力に取り掛かった。中に「追儺」の話を政治論にまとめた一連の短章があり、『古文真宝後集』中の一編を読むような感触があり、なんだかんだ又書いてみたくなった。「追儺」とは「鬼遣らい」の意味の語で、中国古代から続く「疫癘」退散の行事である。古典を読む度に感じるのは、人間の記録された歴史はたかだか三千年程度、今も昔も似たような話、似通った心情を伝える話が多いのも至極当然という感覚である。一斎の達意の文は、その当時の感覚をよく伝えている。</h6></div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/02/97358/">
<title>群居終日、言不及義、好行小慧。難矣哉。（『論語』衞靈公篇）</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/02/97358/</link>
<description>&#160;「群居終日、言不及義、好行小慧。難矣哉。」（群居して日を終ふるも、言（げん）義に及ばず、好んで小慧（せうけい）を行ふ。難（かた）いかな。〔『論語』衞靈公篇〕）というところまで入力した。失言問題の追及と擁護に日を終えるまで喋喋喃喃（ちょうちょうなんなん）としている与党も野党も、議論の本筋を忘却して恥じることがない。喫緊（きっきん）の課題がいくらでもあるだろうのに。帷帳（いちょう）の中（うち）に群居する姿勢そのものが問われているのではないのかと思う。1/4万年前の状況そのままを彼らは眼の前に再現してくれている。閏年の記念の意味も兼ねて、そそくさと書いた。この社会は末端が支えているから、崩壊しないでいるのだ。忘れてはいけない。　〔これに前回の補足を追記した。〕</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2020-02-29T11:20:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin158294413025705200" class="cms-content-parts-sin158294413025706300"><h6 style="margin-left: 40px;">&#160;「<strong><span style="color: rgb(255, 102, 0);">群居終日、言不及義、好行小慧。難矣哉。</span></strong>」<span style="font-size: smaller;">（群居して日を終ふるも、言<span style="font-size: x-small;">（げん）</span>義に及ばず、好んで小慧<span style="font-size: x-small;">（せうけい）</span>を行ふ。難<span style="font-size: x-small;">（かた）</span>いかな。〔『論語』衞靈公篇〕）</span>というところまで入力した。失言問題の追及と擁護に日を終えるまで喋喋喃喃<span style="font-size: x-small;">（ちょうちょうなんなん）</span>としている与党も野党も、議論の本筋を忘却して恥じることがない。喫緊<span style="font-size: x-small;">（きっきん）</span>の課題がいくらでもあるだろうのに。帷帳<span style="font-size: x-small;">（いちょう）</span>の中<span style="font-size: x-small;">（うち）</span>に群居する姿勢そのものが問われているのではないのかと思う。1/4万年前の状況そのままを彼らは眼の前に再現してくれている。閏年の記念の意味も兼ねて、そそくさと書いた。この社会は末端が支えているから、崩壊しないでいるのだ。忘れてはいけない。<span style="font-size: smaller;">　〔これに前回の補足を追記した。〕</span></h6></div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/02/97353/">
<title>由、知德者鮮矣。（『論語』衞靈公篇）</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/02/97353/</link>
<description>
&#160;「子曰、由、知德者鮮矣。」（子曰はく、由〔いう〕よ、德を知る者は鮮〔すくな〕し。〔『論語』衞靈公篇〕）という、二千五百年前の孔子の嘆きは過去のものではない。「德は得なり。」という、音通による言い換えで「德」を説明するのが定石（じょうせき）だが、貨幣経済の浸透とともに徳は「有徳人（うとくにん）」の「徳」になってしまった。即物的なものの方が万事話が通じやすい、という意味でも、「徳」と「金」は相似の部分があるが、もう一度、手垢のついた銭を洗い直して、「有徳人」たらんとするのでなく、もとあったはずの（あるべきものだったはずの）徳を見直す必要があるのではないか。
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2020-02-28T19:00:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin158289278316770400" class="cms-content-parts-sin158289278316771600">
<h6 style="margin-left: 40px;">&#160;「<strong><span style="color: rgb(255, 102, 0);">子曰、由、知德者鮮矣。</span></strong>」<span style="font-size: smaller;">（子曰はく、由〔いう〕よ、德を知る者は鮮〔すくな〕し。〔『論語』衞靈公篇〕）</span>という、二千五百年前の孔子の嘆きは過去のものではない。「德は得なり。」という、音通による言い換えで「德」を説明するのが定石<span style="font-size: x-small;">（じょうせき）</span>だが、貨幣経済の浸透とともに徳は「有徳人<span style="font-size: x-small;">（うとくにん）</span>」の「徳」になってしまった。即物的なものの方が万事話が通じやすい、という意味でも、「徳」と「金」は相似の部分があるが、もう一度、手垢のついた銭を洗い直して、「有徳人」たらんとするのでなく、もとあったはずの（あるべきものだったはずの）徳を見直す必要があるのではないか。</h6>
</div>
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</item>

<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/02/97231/">
<title>葉公問政。子曰、近者説、遠者來。（『論語』子路篇）</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/02/97231/</link>
<description>&#160;「葉公（せふこう）政（まつりごと）を問ふ。子曰（のたま）はく、近き者は説（よろこ）び、遠き者は來（きた）る、と。」古代でも、現代でも、政治の理想であろう。古代でも、現代でも、実現していない。新型肺炎の新しい報道を聞くたびに、「近き者は憂（うれ）へ、遠き者は畏（おそ）る。」とでも言い換えたくなる慘状を思う。「基本的人権」を唱えていない国は無いに違いないが、実際には眼の前で無視され続けている。端緒も出口も見出せない問題に実効性のある解決法は、対外的圧力によるしかないと思ったりもするが、やはり心の問題から始める以外にないだろう。</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2020-02-16T20:00:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin158185963815025500" class="cms-content-parts-sin158185963815026600"><h6 style="margin-left: 40px;"><strong><span style="color: rgb(255, 102, 0);">&#160;「葉公<span style="font-size: smaller;">（せふこう）</span>政<span style="font-size: smaller;">（まつりごと）</span>を問ふ。子曰<span style="font-size: smaller;">（のたま）</span>はく、近き者は説<span style="font-size: smaller;">（よろこ）</span>び、遠き者は來<span style="font-size: smaller;">（きた）</span>る、と。」</span></strong>古代でも、現代でも、政治の理想であろう。古代でも、現代でも、実現していない。新型肺炎の新しい報道を聞くたびに、「近き者は憂<span style="font-size: smaller;">（うれ）</span>へ、遠き者は畏<span style="font-size: smaller;">（おそ）</span>る。」とでも言い換えたくなる慘状を思う。「基本的人権」を唱えていない国は無いに違いないが、実際には眼の前で無視され続けている。端緒も出口も見出せない問題に実効性のある解決法は、対外的圧力によるしかないと思ったりもするが、やはり心の問題から始める以外にないだろう。</h6></div>
]]></content:encoded>
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<item rdf:about="https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/02/97194/">
<title>色惡不食、臭惡不食、失飪不食。（「論語」郷黨篇）</title>
<link>https://taiju.cloud-line.com/blog/2020/02/97194/</link>
<description>「色の惡（あ）しきを食らはず、臭（にほ）ひの惡しきを食らはず、飪（じん）を失（あやま）ちたるを食らはず。」とある。最後の一句は十分に煮ていない物（あるいは煮すぎて焦げた物）は食べない、という意味だろう。さらに「時（とき）ならざるを食らはず、割（きりめ）正しからざるを食らはず、其の醤（しやう）を得ざるを食らはず。」と続く。旬（しゅん）のものを食べ、きちんと調理された信頼の置けるもの、変にアレンジされていないものを食べるというのは、別にグルメを気取るという意味ではないに違いない。</description>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin158150792404543700" class="cms-content-parts-sin158150792404544800"><h6 style="margin-left: 40px;"><strong><span style="color: rgb(255, 102, 0);">「色の惡<span style="font-size: smaller;">（あ）</span>しきを食らはず、臭<span style="font-size: smaller;">（にほ）</span>ひの惡しきを食らはず、飪<span style="font-size: smaller;">（じん）</span>を失<span style="font-size: smaller;">（あやま）</span>ちたるを食らはず。」</span></strong>とある。最後の一句は十分に煮ていない物（あるいは煮すぎて焦げた物）は食べない、という意味だろう。さらに「時<span style="font-size: smaller;">（とき）</span>ならざるを食らはず、割<span style="font-size: smaller;">（きりめ）</span>正しからざるを食らはず、其の醤<span style="font-size: smaller;">（しやう）</span>を得ざるを食らはず。」と続く。旬<span style="font-size: smaller;">（しゅん）</span>のものを食べ、きちんと調理された信頼の置けるもの、変にアレンジされていないものを食べるというのは、別にグルメを気取るという意味ではないに違いない。</h6></div>
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<title>不忮不求、何用不臧。（「論語」子罕篇）</title>
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<description>「忮（そこな）はず、求（むさぼ）らず。何（なに）を用（もっ）て臧（よ）からざらん。」忮は人を妬み憎んで損害を与えること、求は貪欲にほしがること。臧は良い意。乱暴で貪欲な振舞いを控えることは、それだけでなんと結構なことではないか、というほどの意味である。コロリならぬコロナ・ウィルスによる新型肺炎のパニックに関連して思ったこと。</description>
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<dc:date>2020-02-02T17:30:00+09:00</dc:date>
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