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2020.10.05

周作人のエッセイについて(1)-「鏡花縁」

 もともとは「参考資料」の中に周作人の『文藝随筆抄』その他を翻刻するつもりだった。ところが、原著者はクリアでも翻訳者の著作権に抵触する虞のあることが分かり、気楽を旨とする個人のホームページのこととてブログ記事にまとめてしまうことにした。原文と訳文のもつ固有の味わいをほとんどまったく伝えられないであろうことがいかにも残念だが、人の権利であるから仕方がない。訳者について何も知らないので、著作権一般の議論として見ると、つまるところは利害関係の整理が難しいということだろう。無論快く転載を許可していただける場合だってありえなくはないが、元來が権利関係を確認するほど徹底した作業でもない。要は、人にも見せてやりたい好い文章だなあと肝銘を受けたということが動機なのである。著作権にしろ他の諸権益にしろ、人間万事金の世の中が極まった現代にあっては当たり障りの比較的無さそうな方法をとるしかない。尤も、自分の感想も織り交ぜていくと、どうもやはり別物に化けてしまうのも避けられないが、紹介を旨として何とかまとめてみよう。これは仕方の無い選択ではないかと思う。ついでに名文章に学んで、拙いブログ記事のブラッシュアップができればあながち不平ばかりもたず、自己満足にひたることもできようというものだ。(すでに文末からして伝染しているのが末流の哀しさか。)
 そういうわけで、初めは『周作人文芸随筆抄』から「鏡花縁」を取り上げて紹介する。もっとも、これは『周作人随筆』にも載っているものだ。

  山路愛山の『支那思想論』『日漢文明異同論』を読んで面白かった。著者の経験したことがらや見聞を片端から取り入れて、独特の切り込み方をして議論をまとめている。一つの議論以上には出ないかもしれないが、誰がどんな文章を書いたところが同じことだ。ユニークな論調にすっかり魅せられた。ブログというのは今年初めてチャレンジしたネットワークメディアだが、ほんのわずかばかり書いてみて思うのは、自分の思いの丈だけを書いていると、すぐに自分を消費してしまうことだ。いかにも資産が少ない凡人であることを今さらに自覚させられて、少しの間読書によってインプットの方に注力してみた。もともと「参考書類」の企画を始めたのも、その予感が大にあずかっている。百年前の日本には清国から留学を命ぜられた中国人たちが高等教育機関で学んでいた。魯迅の名くらいは知っていたが、小説等に強い印象を受けたというほどの記憶はなかったので、たまたま実弟の周作人の文章を読んでみた。東洋文庫に数多くの訳書があったが、昔大学時代に書店で背表紙を眺めていた冨山房百科文庫に『周作人随筆』があったのに気づいた。この新書版の文庫には戦前の版があり、150冊ほど出ているものの、目録一つ満足に整備されたものが見当たらなかった。ノートに手当たり次第まとめていく作業もそういう機会に行うのだが、この随筆集には同じ訳者による『周作人文藝随筆抄』なるものがある。これが戦後の『周作人随筆』と同じものであるかどうかもちょっと調べがつかなかったので、古書で入手してまず戦前のものから読んでみると、石川淳の書いたもののような独特の口調に興味を惹かれた。次に戦後の版の目次を見ると、これは戦前に5冊ほど出ていた各種随筆から訳者等が抜粋編集したものであるらしく、まったく内容が異なっていた。また新漢字と新かなづかいであるのも、翻刻の興を殺(そ)ぐ面がないでもなかった。『抄』の方は玉石混淆なので、気に入ったものを翻刻しようと考えたが、訳者の松枝茂夫の著作権が現在の規定では70年になるらしいことを知り、原著者の著作権はクリアでもこちらの方が切れるのを待っていると、とうてい身が持たないことに気づいたので、根本からやり方を変えるしかないことに思い至った次第である。

 国際社会化が本格化してきた最近になって、外国人の自由奔放ぶりを目の当たりにすると、著作権法が生まれた理由も分からないではないが、そのために良民(とあえて言わせてもらうが)被る制約も尋常でない域に至っているように思う。彼岸や火星まで行かなくても、法の無い国に行けば、元々その種の悩みも生まれないはずだが、同時に本の入手も難しかろう。猨猴を去ること遠くない現下の社会では避けることのできない柵(しがらみ)でもあるだろうか。さてどうしたものかと暫(しば)し夢寐(むび)に考え、もと勝手気ままな性格から文章も己れに見合ったまとめ方をすればよいという思案に落ち着いた。前政権で「法」なるものはだいぶおもちゃにされた感があり、隣国を見ても、要は法も風向き一つでどうともなるもの、という現実を見せつけられたといえば、だいぶ極端な申し状になるかもしれない。少くとも真面目に法律の学問に勤しんでいる人には叱られるに違いない。それでもやはりそういう武具としての両面を兼備しているものだと思う。守ってくれるかぎり有り難い法律も、お上の都合一つで棍棒のように振り回された日には堪ったものではない。高尚な政府の実現も、最終的には教育に俟つしかないとすれば、知恵の木の実は猨猴の手から守らねばならない、などと息巻いて興奮したら寝起きの悪い朝方を迎えていた。以上は序文である。どこまで続くものか分からないが、機会を見つけて良書の紹介に努めて行きたいというのが、元教員のはしくれだった者の念願である。(今日10月5日はたまたま国際「教師の日」だということをGoogleのロゴデザインで知った。よいアイディアを思いついたのがそんな記念日なのが袖触れ合う程度の因縁のようで面白い。だが、書いて続かなければそこまでの話だ。ブログはページ上に直書きしなければならないので、文章に手を入れるのにはあまり向いていない媒体であるとは思う。)

 「鏡花縁」は戦前の『周作人文藝随筆抄』(冨山房百科文庫110 1940.6.5)の巻頭に取り挙げられ、戦後の『周作人随筆』(〔新版〕冨山房百科文庫53 1996.6.28)では3番目に収められている。私が一読して次を読みたくなったのももっともな、書き手としても訳者としても出来栄えのよい小品だったのではないかと思う。外の多くの短章と似たような長さで、新書版で5ページしかない(戦前版ではpp.2-6、戦後版ではpp.13-17)。執筆発表は1923年4月である。祖父介孚公は翰林学士であったが、孫の教育には比較的自由な方針をとり、経書以外にも小説を含めて自由な読書を奨励した。それは当時としては「非常に風變(ふうがは)り」(原著にルビはなく、引用者が勝手に施したもの)なものであったが、「祖父によればそれが一番人を『通』ぜしめる、通じた後で、更にほかの物をよめば一向差支へないといふのであつた。」(p.2)それは現代風にいえば、見聞を広め、よい意味で世故に通じるという意味であったろうか。子どもの筆者は、後に「國語文學」と呼ばれることになった言文一致の新小説を意識するはずもなかったが、自然の順序として家に置いてあった白話小説を祖父の推薦に従って読んでいった。幼い筆者のお気に入りは、『西遊記』や『儒林外史』にも勝って、『鏡花縁』という冒険物語だった。この長篇小説の中では、主人公の秀才(童生が府考に合格し、さらに府城において3年毎の院考に合格した者。生員ともいい、州学・県学への入学を許される。〔訳注による。〕)がガリバーよろしく君子国・無腸国・黒歯国・小人国・長人国・両面国・女児国等の不思議な国々を航海して回る。その手引きをする多九公(たきうこう)という智恵のある老人は、恐らく敬愛する祖父に通うところがあったのだろうか、九頭の鳥や一足の牛のことなどおよそ何でもよく知っていて、このガイドによって危険な荒海を飄流しても果敢に乗り越えることができるのだった。「實際荒唐無稽の話であるが、又何という愉快さであらう。」(p.3)難しい語句などこういう蚤慧(そうけい)な子どもには全く気にならなかっただろう。想像の翼を伸ばすことの愉しさを知った子どもが現代の学年別配当漢字などにこだわるわけもなかった。筆者は執筆時において自家の経験を振り返り、こうした山のような荒唐無稽の作品を生み出してきた中国人の伝統的感性に思い至った。「神異の故事に對(たい)する原始的要求は、長(とこしな)へにわれわれの血管の中に在る。」(p.2)

 幼時の思い出話の後ろには、暗黙の標的が見据えられていたようである。他の掌編にも度々登場する裁断主義的、教条主義的な「載道」の文学観とそれに基づく幾多の小説・評論の類がそれだ。『鏡花縁』を含めた滑稽話の中にも、豊富な学識の顕示と時勢への諷刺はすでにいくらもあったはずである。しかるにそれはここで問題にならない。なぜなら、物語の主眼は「單純なる――嘘言のための嘘言」(p.3)にあったからだ。子どもにとって嘘の是非功過などとうてい問題外だ。「嘘をつかない子ども」がいたら、かえって不思議な存在であったにちがいない。

子供が嘘言をいふのを好むのは盜人になる基(もとゐ)だとよく昔からいはれて來たが、現代の研究によつて決してそんなものではないことがわかつた。子供の嘘言は大抵は空想の表現であつて、藝術的創造といつていい。僕は今日角(つの)の生えた赤い蛇を見たよと子供がいふのは、決してこれに因(よ)つて人を詐(いつは)り何等(なんら)かの利益を得ようと思つてゐるのでなくて、實に單なる創作力の活動であり、平凡の材料を用ひて、特異の事物を組み立て、自(みづか)らを娯(たの)しませてゐるのである。自己の想像の産物を叙述するのは、現世の實生活を叙述するのと同樣に眞實である、といふのは經驗は決して官能の一方面に限られるわけではないからだ。われわれは子供の誠實ならんことを欲(ほつ)する、しかしこれは更に推し廣めて彼をして自己の空想にも誠實ならしめるべきである。嘘言の惡い處は他人を欺瞞(ぎまん)することに在る。だが單純なる嘘言はただ自己を欺瞞し、他人がその欺瞞を被(かうむ)ることもあり得るにしても――それは欺瞞されて夢幻の美の中にはひつてゆくだけのことであつて、當然これは取りたてて惡いとはいはれない。(pp.3-4)

 筆者は以上の議論の補強として、ワイルドの「嘘言の衰頽(すゐたい)」を引き、彼が実行上の夢想者として賛美したダンセイニを引き、その「夢想者の物語」に序を記したコーラムを援用する。博引旁証もまた議論体の伝統であったろう。知堂先生は実にきめ細かく、やや長めの序文の引用をして彼自身の見解を語らせている。引用部の末節は、孫引きして現代への当て擦(こす)りとして使ってもよい。

われわれは彼(=ダンセイニ)の著作の中に、殆(ほとん)ど一點(いつてん)も社會的な思想を發見することが出來ない。だが、一つだけそこに在る、それは即ち人々の想像力を減縮せしむる一切(いつさい)の事物に對する、――凡俗なる都市に對する、商業的實利に對する、物質的組織によつて發生した文化に對する一種の手嚴しい敵視である。(p.5)

 一つの文章はいろいろな情報を与えてくれるが、引用はその後さらに「イワンの馬鹿」、コロレンコの「マカールの夢」、そして「希臘(ギリシヤ)神話」に及んでいる。当時筆者の関心には帝政ロシアへの批判として、また藝術の最初の定義と洗練を教える可能性として、これらのものが射程に入っていたようである。

 しかし、この短章を随筆として際立たせているものは、漢文体の議論文の例に漏れず、その結末部の収束のみごとさであろう。『聊齋志異』は、すでに読書経験の進んだ筆者が初めて触れた文言の作品であり、これを通してその趣味をも悟った記念碑的作物である。この巻頭言に引かれた王漁洋の詩句を周作人は要約に用いた。(しば)らく妄(みだ)りに之を言ふゆゑ、姑らく之を聽かれよ。姑妄言之、姑聽之。この前段に出したダンセイニが猟師の家に行って「お前達(たち)ごらんよ、あの月はじつに可怪(おか)しいよ、月はどうして作られたものか、又何のために作られたものかを、僕がお前達に話してきかせよう、」(p.5)と前置きしておいてからおもむろに嘘に興じ出す箇所を思い出したい。「まあ聴いておくれ。」というわけだ。漢文の「姑く」は注意すべき語である。「何はさて、とにかく」というほどの語気が漂う、まさに姑息の文字であり、怖い顔をして怒っている世間人に向かって発したところでとうてい通じる気遣いはない。「すでに牛角灣に頭を突込(つつこ)んでしまつた人々」(思想の袋小路に迷い込み、身動きがとれなくなったことを謂う成語であるらしい。〔訳注による。〕p.6)に対してではなく、「謂(い)はゆる受戒者(The Initiated)」(p.6)に対する挨拶であるがゆえに「妄語」はその責めを免(まぬか)れるのだ。思い起こせば、白楽天の昔から詩文は「狂言綺語(きぎよ)」の類に他ならなかったではないか。ものの表現というのは難しいものだが、こう書いている自分が別に「受戒者」に入るわけではない。ただ石頭でないだけだ。もっと率直に言えば、著者一流のイロニーに否応無しに気付かされ、その深意は不明な何物かを絶えず残すものの、この人物をもっと見てみたいと願望するようになったという事実があるばかりである。一方、こう言ってはなんだが、何でも声高にものを言う政治家や論争家のような人は、ちょっと新味の感じられる経験でもまずは自分の乏しい見聞から断罪をして、人を見るのではなく、己を主張して照れることさえしないものだ。大勢との交際を誇っても、それは己を宣伝するための手段・道具以外のものではない。こういう才長けた世間人、というか単なる俗物は何にもあれ賛美か悪罵か両極端を歩む以外のことをしたことがない。抑も聴く耳を持たない人たちである。「姑聴之。」という以外に、成り立つにせよ成り立たないにせよ、交渉するための言語は存在しないだろうと思われる。

彼等(かれら)は六分儀や顯微鏡を使つて藝術を測量するか、それでなければ鍾馗(しやうき)の畫(ゑ)に向つて華香燈燭を供(そな)へる。彼等から見れば、『鏡花縁』は惡(にく)むべき妄語に非(あら)ずとせば必ずや一册の信史といふことになるのである。(p.6)

 エッセイの末尾は、こう締め括(くく)りたいものだ。『聊斎』から信史に至るこの末段を読んで、何はともあれこういう文章の手本をどうしても紹介したいと思ったのである。『鏡花縁』の引用には、いわゆる首尾照応の骨法を見るだけでなく、ここには親愛する祖父にまつわるもろもろのレミニッセンスも付随しているはずである。こういう文藝評論をも載せる人がかの国にいたことを知って、遅蒔きながら知って、それだけ強い興味を覚えた。残した散文三千篇とか、「散文大師」とかいう異名さえ冠せられたという、ある意味大陸的な逞しい御仁ではあるようだが、このような内容をこのような構成で書ける筆者に対して、政治上の行き掛かりにおいてであるにせよ、「漢奸」なる簡単なレッテルを貼って事足れりとしていたなど、この下品な罵声の投石自身が無辺世界を射た戯言(たわごと)に過ぎないのだが、投石には尾鰭が加わってゆき、それ本来の即物性にしたがって著者の生命を奪うには十分な凶器だった。死後の再評価はこれから盛んに行われるようだが、いずれにせよレッテルを貼る愚は止めにしたい。そういうラベル貼りを延々と演じる世の中こそ遐寿氏がはるかな道のりを兀々地として蒙を啓かんと努めて息まなかったた当の対象に他ならなかったのだと思う。 (10.14加筆)

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