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2020.03.16

古者方相氏爲儺。(『言志録』72)

 2月の鬼遣らいは、古代の「追儺(つゐな)」がもとになっているという。3月に入ってからだが、1か月以上かかった『論語』の本文入力も終わり、短文で気の利いていそうな感じがした『言志録』以降、佐藤一斎が文化から嘉永年間にかけて40年間書き綴った「言志四録」の入力に取り掛かった。中に「追儺」の話を政治論にまとめた一連の短章があり、『古文真宝後集』中の一編を読むような感触があり、なんだかんだ又書いてみたくなった。「追儺」とは「鬼遣らい」の意味の語で、中国古代から続く「疫癘」退散の行事である。古典を読む度に感じるのは、人間の記録された歴史はたかだか三千年程度、今も昔も似たような話、似通った心情を伝える話が多いのも至極当然という感覚である。一斎の達意の文は、その当時の感覚をよく伝えている。

 『言志録』は倭習の趣をもつ漢文だが、日本人の読者にはよく感覚が伝わる達意の名文には間違いない。概して短章の連続に見えるが、中に一連の議論体の文章と思われるものがあり、72章(序を数えない。)からの4章は一編の論説であろうと思う。「追儺」の行事の説明から始まって、為政者の心得などに展開させ、構成を感じさせる。面白いと思ったので、原文に乗っかり、書き流してみたい。

 「(いにしへ)方相氏(はうさうし)(だ)を爲(な)す。熊皮(いうひ)を蒙(かうむ)り、黄金(わうごん)の四目(しもく)、玄衣朱裳(げんいしゆしやう)、戈(ほこ)を執(と)り盾(たて)を揚(あ)げ、百隸(ひやくれい)を帥(ひき)ゐて之(これ)を毆(か)る。郷人(きやうじん)群然(ぐんぜん)として出(い)でて觀(み)る。」文の前半は『周礼(しゆらい)』の引用である。古代の官僚(組織に組み入れられた民間の神だったのだろうが)に方相氏というのがあり、熊の皮を被って、金色に輝く目玉が四つ、黒衣赤袴の出で立ちで、戈と盾を両の手に持って、あまたの家来(眷属〔けんぞく〕だろうか)を引き連れ、疫病の鬼を打ち懲らし、追い払うという舞楽を邑人(むらびと)が群集して見物する、というものである。楽人もいたことだろう。『国語便覧(びんらん)』には、昔から『政事要略』に載せる絵を掲載している。今、これを収録した『史籍集覧』(編外2)に載せる絵を引用しておく。

 この単純極まりないユーモラスな行事には深い意味がある、と一斎はいう。「葢(けだ)し禮(れい)を制(せい)する者、深意(しんい)有り。」その深意を陰陽二気の理屈から解き明かすのだが、少しも古めかしい感じはしてこない。「伏陰愆陽(ふくいんけんやう)、結(むす)んで疫氣(えつき)を爲(な)す。(これ)驅除(くぢよ)せんと欲(ほつ)せば、人の純陽(じゆんやう)の氣(き)に資(よ)るに若(し)くは莫(な)し。方相(はうさう)(き)を作(おこ)して率先(そつせん)し、百隸(ひやくれい)之に從(したが)ふ。状(さま)は恠物(くわいぶつ)のごとく然(しか)り。闔郷(かふきやう)の老少(らうせう)、雜遝(ざつたふ)し聚(あつ)まり觀(み)て、且(か)つ駭(おどろ)き且(か)つ咲(わら)ふ。是(こゝ)に於(おい)て陽氣(やうき)四發(しはつ)して、疫氣(えつき)(おの)づから能(よ)く消散(せうさん)す。」陰陽の気がどういうものかねじくれて病魔と化す。恐らくは外からのさまざまな圧力で内にくねって内攻してしまったのが原因だ。悪気を駆除し、人を治癒させるには、陽の気を求めるに越したことはない。方相氏のご面相は怪物そのものだが、これが敢然と立って眷属を従え、病魔を打ち懲らした。観る者は驚きかつは笑い、笑いの中から陽の気が四方に発散して、陰の気の塊である疫癘の魔物は自然に消滅するという、水戸黄門のような痛快な解決に到るのである。一陽来復、将軍様や主席様のご威光を借りずとも悪鬼どもは天地自然の循環の厳格な法則に従って再び春を迎えたのだ。 

侲子

 一斎の烱眼(けいがん)は、人心に生じた陽気の運動に注目する。「(すなは)ち闔郷(かふきやう)の人じんしん)に至(いた)るも、亦(また)(よ)りて以(もつ)て懽然(くわんぜん)として和暢(わちやう)し、復(ま)た邪慝(じやとく)の内(うち)に伏鬱(ふくうつ)すること無し。(けだ)し其(そ)の戲(ぎ)に近き處(ところ)、是(こ)れ其(そ)の妙用(めうよう)の在(ある所なるか。」この辺りの文辞の巧みさは見事である。陽気の発動するさまは正しく「懽然として和暢」するところにある。悪鬼の素もと)は「邪慝」が「内に伏鬱」したものである。これは、いつの世もそのまま同時代の世相の縮図であり、そのまま未来に期待される世相の復元図ではないか。病気が治るとは、懽然和暢の気が充溢(じゅういつ)することに外ならない。

 コロナウィルスは、免疫力の衰えた老人に祟るが、子どもにはそれほどには働かないようである。子どもは陽気に溢れているからだろう。『周礼』の「百隸」は、漢代の蔡邕(さいよう)の『独断』では「童子」を加えている。その数もまた百を超えているようである。「侲子(しんし)」というのがそれだ。これも前掲の『政事要略』に絵を載せている。子どもの活気は実際大したものだ。3月上旬に入ってから、当面中旬まで、それが延長になり春休みまでとなって、学校に人気(ひとけ)はほとんどしないはずだが、千葉市では小学校低学年の児童の5人に1人くらいは登校している。学校は託児所ではない、という本質論は後日の談とし、その子たちが交替でグラウンドで遊んでいる声が(用足しで)散歩する老人たちの耳に入るが、とても全学年の三分の一のさらに五分の一の声とは聞こえない。陽の気そのものが「侲子」の形をとって跳ね回っている感じだ。来たるべき新学期の準備に余念のない先生方も、この子どもたちの歓声から少なからぬ「元気」を貰っていることだろう。繰り返していうが、これは今後も学校を託児所代わりにしてよいと言っているのではない。

 ところで、コロナウィルスには3種ある、というのが専門家たちの出したとりあえずの成果らしいが、病魔の根本は何だろうか。ウィルス、なのだろう。しかし、突発的にこの騒ぎに相なった理由は、即物的なものばかりとは思えないのも、人間自然の感情ではないだろうか。天は「邪慝の伏鬱」する時代に、この「伏陰愆陽」の化け物を送り込むのではあるまいか。これの根は深いに違いない。そして、一定の潜伏期間の後、歴史が繰り返し経験してきた病状なのではないか。一斎もまた政治の抑圧的傾向に着目し、正しい楫取りをする必要性に目を向けさせている。この辺りは、韓柳の文調なので、興味のある向きはTaijuの入力しつつある『言志録』本文に当たっていただきたい。現代における邪慝は、たとえば次のような形で影を覗かせている。

 

 

 

 

 

 これは、休校措置が出た頃のマスク価格を表した例で、私はマスクはどうせ手に入らないことが分かりきっていたので、アクセスもしないでいたのだが、興味本位でスナップしたものである。一月前には1箱100万円超えの出品がAmazonに出ていたのを、これは社会への諷刺の新手法なのだろうかと思って眺めていた。さすがに少しは落ち着いた?のか、左は1箱が1万円、右は1箱が2万円超えで、同じ日に出ていたもの、どちらも昨年末まで近所のドラッグストアでよく見かけたり購入したりしていたものだ。その頃は左が1箱500円くらい、右が1箱1,000円くらいだった。なお付け加えると、3月16日の今日現在、マスクは依然として正規の卸売りルートに乗っている様子が見えない。変わったのは、昨日から転売に対する罰則規定が加わったことぐらいだ。今では品物自体が見えない。東日本大震災の頃の乾電池1本5,000円也と比べて、「転売ヤー」の数は最早数えることもできないほどだ。普通の会社人や主婦が、正規の価格に近い値で出している通販会社から、大量にポチって、少し置いて値動きを見、5倍10倍ないしそれ以上の価格でメルカリやオークション、Amazonのマーケットなどで出品するわけである。1日に100万円以上の売り上げを出す凄腕のセミプロから、退職後の年金の足し前にお小遣い貯金やへそくりを少しでも増やそうという、健気でさもしい小市民まで(ご同輩!)、千差万別だが、これはもはや社会現象となった。

 この「根」をどこに求めるか。発想のスタートラインはここに置かなければならない。確実に感覚が伝えるものは、あちらこちらに鬱屈した「伏陰愆陽」の気が立ち罩(こ)ているこの時代の空気である。「懽然和暢」の姿で笑っている顔など、どこにも無いではないか。コロナは社会の表にまで漲(みなぎ)ってきたこのドロリとした空気を恰好の粘膜バリアとして逞(たくま)しく蔓延を始めたのである。感染症研究所がひょっとして世界に先駆けていかなる画期的な処方を見出だして政府から得た多額の補助金にふさわしい、また科学史の歴史に輝かしい名誉を残したとしても、オリンピックで日本選手が金メダルをいくつ獲得しても、ここでいう「懽然和暢」の笑顔は恐らく望めまい。表面を均してみても汚染土壌が根本的に解消しないのと一般である。今回の伝染病の統計の国別比較をニュースで耳にすると、日本の皆保険制度・衛生水準、またこんな状況の中で隣国が決して手放そうとしない日本ブランドのマスク類にも表れている、全体として良質な物作りの伝統に支えられた生活環境のきめ細かな整備は、もしかすると世界に擢でている貴重な世界遺産ではないかと思うことがある。とりわけ多少宋襄之仁という嫌いもあったが、武漢市に対してあちらの政府よりよほど速やかに援助の手を差し伸べたことは、世界に先駆するモラルの儀表であった。マスクの転売屋さんたちに「恥を知れ!」と怒号できるだけの文化が国際化の荒浪の中でもまだ生きている。今さらの黄禍論に世論を沸かせている厚顔無恥な西欧世界、統計データをでたらめに流している第三世界に対して優に誇るに足る「恥の文化」を日本人はもっと自覚して大切にしていかなければならないのではないか。本物のアマゾンの原生林が開発によって環境維持の臨界点にまで差し掛かっている今、森林なくして生きられない猨猴(えんこう)の末裔(まつえい)である世界は、国力を傾注してしなければならないことがあるはずである。仮にコロナを上手くやり過ごしたところで、笑顔のヒコバエすら現世界に見当たらないことに気づかないのだろうか。今回の騒動については、ウィルスの渾名をどう付けるかは差し当たってどうでもよい問題ながら、何と言ってもやはり地球全体の二酸化炭素の四分の一を平気で産生しつづけながら後発の資本主義に頭を倒まにどっぷりと浸かり、一国の安全確保や福利厚生どころか人権保障もどこ吹く風で、月面に要塞を建設しようなんぞ戯言(たわごと)を宣っていたどこかの国に、まずは天から啓示があったのだと考える。

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