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2020.04.05

義在於我、窮理亦在於我。(『言志録』169)

 「義在於我、窮理亦在於我。(義は我に在り。窮理〔きゅうり〕も亦〔また〕我に在り。〔佐藤一齋『言志録』169章〕)とは、西洋科学が「以徇外逐物爲窮理。(外に循〔したが〕ひ物を逐〔お〕ふを以て窮理と爲す。〔同章〕)という方法論を提示していたのに対して徳川後期の儒者がこれを論(あげつら)ったものである。元寇のような戦争、日宋・日明貿易のような交易等による国際化の波を越えて数百年、江戸期の合理的精神に「駸駸然」として浸透してきた洋学が「外物」を操作しながら新たな《物の理》の存在感を発揮し始めていた。今日の我々は、西洋科学の地盤に立って儒者の迂闊(うかつ)を嗤(わら)うことはいとも簡単であるが、ここに顕在化した《軋み》をもう一度見直す必要はないだろうか。一个のVirusが垣間見せた東西文明の素顔を通して、国際化日本の立ち位置をもう一度見直すことが大切ではないかと思ったのだ。

  『論語』の全文入力をまずは終えて、その注釈に取り掛かったほうがよいかと思いながら、先を急いで佐藤一齋の『言志四録(げんししろく)』の全文入力に取り掛かったのが3月のことである。一箇月ほどで〈四録〉の第一である『言志録』の後半まで至った。本文を打つだけなら、こんなに掛からないのだが、可愛い自作「漢文エディタ」のブラッシュアップを兼ねて、入力・表示・変換のミステイクを直しながら進めているので、一日に1章も進まない日があり、隠居の日常もこれで中々忙しい。并せてこのコロナの脅威のために、のんびりそればかりに取り掛かっているわけにもいかず、生活に追われる朝晩の繰り返しになっている。日々、新たなニュースが舞い込み、考えさせられることはヤマほどあるが、つまらないことを一一書いてまとめる余裕がない。孔子様から一齋御大に鞍替えして、その尻馬に乗って何か「腹ふくるるわざ」を解消しようと思っているのである。

 『言志録』は一齋四十代の作品ということで、読後感も正直なところ年上の人のものを読む感じはしなかった。それだけ馬齢も年齢のうちということか。それにしても、才筆だなとは思う。才気が専ら目に立つのだが、それでも偉い人というのはこれだけのものをどんどんまとめ上げていくものだな、と同時に絶えず感心させられた。ただし、口語文体が目立つとはいえ『論語』で先秦の簡潔な文体に触れた目には、日本文そのものの漢訳という雰囲気の相当程度に漂う倭習の漢文の臭いが感じられ、同時に書き下し文への機械的変換が実に難しくなってきたのにまごついた。見た目は同じ漢字の羅列でも、文体というものは日中で全く異なる、と思う。その程度は感想を述べても許されるだろう。もう少し遡った時期の山井崑崙や太宰春台・服部南郭の日記文を少し入力した際には、それほどの違和感は覚えなかった。一齋はこれらに比べると、日本文に立脚して書きまくっている印象がある。

 それでも対偶の作り方などは、いかにも上手である。和製論語と言っても差し支えないほど重厚達意の文章も多い。着眼点が違っている。しかも、いわゆる個性的な臭味ではなく、まっとうで厳しい、折目正しい儒者の面目を感じ取ることができる。文脈がしっかり貫いて、作文の域を超えていると思う。それでも、馬齢だけ重ねた田舎人の目には、才気の方を強く感じてしまうところがあった。ただし、『論語』の感想を連ねてその「」に触れた文章などには、その烱眼(けいがん)を納得させられた。とりあえずの感想はそんなところだが、その辺りのことはいずれ『論語』に注や訳を付する機会があったら改めて取り組むとして、ここに当時ようやく勃興してきた「洋学」を一齋が批判した一文がある。これを読んだとき、敬服のことはさておいて、何か書かずにいられない衝動を感じたのだ。それは、やはり「時論」に絡めて、ここで書き留めておきたい思いがあったからである。ブログとしての行き道はたぶん間違っていないことと思う。

 「泰西(たいせい)の説、已(すで)に漸(やうや)く盛んなる之機(き)有り。其の謂(い)はゆる窮理(きゆうり)は、以て人を驚かすに足(た)る。昔者(むかし)程子(ていし)佛氏(ぶつし)の理に近きを以て害と爲(な)せしが、今の洋説の理に近きは、佛氏よりも甚(はなは)だし。」という書き出しで、一齋は洋学の文化年間における勃興機運に触れている。平賀源内はこの以前の人のようだが、火浣布やエレキテルのような機巧が人目を驚かせた時代の雰囲気はさらに色濃くなっていたことだろう。南蛮渡来または由来の贅沢な仕掛け類はでんじろう博士の科学実験のように、素朴な驚異で人の注目を集めずにおかなかった。「(か)つ其(そ)の出(い)だす所の奇技滛巧(きぎいんこう)、人を奢侈(しやし)に導き、人をして駸駸然(しん〳〵ぜん)として其の中(うち)に入(い)るを覺(おぼ)えざらしむ。」昔、学参・問題集を扱っていた駸々堂という書店があったが(今もあるかもしれない)、科学は軽快に歩む健康な馬の歩みで新奇の発明を矢継ぎ早に繰り出していったに違いない。未来への無限の進展の可能性が人の心を揺さぶらないわけがないのだ。引き込まれるような魅力が初期の科学にはあった。この勝れて蠱惑的(こわくてき)な新知識に対して、既存の学問を奉ずる一人として、どのような態度を取ればよいか。「學者(がくしや)(まさ)に亦(また)滛聲美色(いんせいびしよく)を以て之(これ)を待(ま)つべし。」これもまた鄭聲齊女の類、所詮は一旦の白痴美と看做(みな)して黙過しておけばよい、と。ちなみに学者とは黒板を背にした人種のことではなく、儒学をこれから学ぼうとする志の人を指している。

 これだけ読めば、負け犬の遠吠えにも似た虚勢の言葉でしかない。しかし、続けてその理由を述べ始めるところが思考力の強靭さを物語っている。「窮理の二字、原と易傳に本づく。道德に和順して、義を理め、理を窮め性を盡し、以て命に至る。」ここまでは窮理の語の出典である『周易』説卦伝からの引用である。「窮理」の学は福沢諭吉の『訓蒙窮理図解』以来、西洋科学の代名詞のようになったが、元来の意味は義を根柢とした性理の学が天命を認知するに至るための刻苦精進の過程を指した、モラルそのものの学的方法論だった。「(ゆゑ)に吾(わ)が儒(じゆ)の窮理は、唯(た)だ義を理(をさ)むるのみ。」ここは先ほどの敬に内容が近いが、正義を実現・実践するための系統的方法に尽きる、というのである。リンゴがどうして地に墜ちたかではなく、地に墜ちたリンゴを食うべきかどうかが理の詰め方の始発点になる。この差は決定的なものだ。儒学の窮理は決して物理学には行き着かない。「義は我に在(あ)り、窮理も亦我に在り。(も)し外(ほか)に徇(したが)ひ物を逐(お)ふを以(もつ)て窮理と爲(な)さば、恐(おそ)らくは終(つひ)に歐邏巴(ヨーロツパ)人をして吾が儒に賢(まさ)らしめん。可(か)ならんや。(原文「義在於我、窮理亦在於我。若以徇外逐物爲窮理。恐終使歐邏巴人賢於吾儒(。)可乎。」最後は「賢らしめんも可なるか」と疑問に訓んでも意味の帰着するところは同じであろう。)泰西之學」は「外に循ひ物を逐ふ」学問であった。この「外」は「我の外」ということである。「我」を除外して純粋に事物の理を追究することが本来的に求められる。物理に関して儒学が口をきく場面はありえなかった。孔子自が「怪力亂神」を語らなかったという「子不語」の一事を見ても明らかである。この点だけを窮理として見れば、この世界での勝利は南蛮紅毛の学に帰するほかはない。渠等(かれら)をして「賢らしめんも可ならんか。」である。もちろん、儒者の答えは「可ならんや、不可なり。」に尽きる。それは学が「我に在る」ものに外ならないからだ。

 「西學(せいがく)の東漸(とうぜん)するや、初(はじめ)その物を傳(つた)へてその心を傳へず。學は則(すなはち)格物窮理、術は則方技(はうぎ)兵法、世を擧(あ)げて西人(せいじん)の機智の民(たみ)たるを知りて、その德義の民たるを知らず。况(いはん)やその風雅の民たるをや。」(森鷗外「しがらみ草紙の本領を論ず」 明22.10)という揚言において、文豪が西洋の徳義(道徳)・風雅(藝術)に言及しえたのは今より幸運であった。肝腎の徳義と風雅に注目するに至らず、その機智の発展形式としての武力闘争が今日目立ってきたについては、二つの世界大戦を経て過去の伝統と不幸に切り離された時代の流れの末の有様ともいえる。しかしながら、「德義」の如何は不思議に明瞭な対比形式をとってきた。嘗てほど曖昧でなくなってきたのである。「その物を傳へてその心を傳へず」とは、終始繰り返され続けた移入文化の上滑り現象なのであった。人の「德義」の層は、その味覚の層ほどに保守的で頑固に「因襲」の中に息づいていた。それは「花見」の文化と同じく、「恥」の文化であり、牢固な「常識」の殻に温存されてきた個人主義思想なのであった。そのプライドは「もの作り」の伝統の中に生き続けている。かなり大雑把な議論になり、尻窄まりの文章になってしまったが、これらが近世・近代と日本人を支え続けてきた骨組みを成していることは疑う余地がない。窮理が外物の操作のみに終始し続ける中にあっても、ABC予想やBCGへの着眼等、先端的な発想が出ているが、反対に全く地味な人文のテリトリにおいて、日本人が大切にしてきたものを表面に意識化して、これを助成する社会的な仕組みを作り上げることが、今日さらに求められていると思う。そのためには、お山の大将的な社会組織構造、官僚主義、その他のケチくさい我田引水的根性を一一意識の表面に洗い出して克服の対象にしなければならない。そのような洗滌(せんでき)の作業が必要になるだろう。どの分野についても、現象に振り回されないために基礎的な作業が覓(もと)められる。今回、舌足らずだが、一つの見取り図を出してみた。どれほど素朴なものであろうと、まずは叩き台なくして作業は始まらない。

 学は我に在る。我を忘れたところから、学の堕落は起こる。現代人に、江戸の儒者を嗤う資格はない。

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