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2020.02.02

不忮不求、何用不臧。(「論語」子罕篇)

「忮(そこな)はず、求(むさぼ)らず。何(なに)を用(もっ)て臧(よ)からざらん。」忮は人を妬み憎んで損害を与えること、求は貪欲にほしがること。臧は良い意。乱暴で貪欲な振舞いを控えることは、それだけでなんと結構なことではないか、というほどの意味である。コロリならぬコロナ・ウィルスによる新型肺炎のパニックに関連して思ったこと。

  『論語』を入力している途中で、ホームページを置いているプロバイダーが突然サーバー障害を起こしたため、表示もファイル転送も一切できなくなった。

 偶然の事件がきっかけとなって、図らずも第三のホームページを作ることになった。サイトは一週間ほどで復旧したが、その間ほぼ同時進行の形で中国発のコロナ・ウィルスによる新型肺炎の日本伝播とマスクの爆買いによるちょっとしたマスク・パニックが拡大していた。アマゾンを見ると、50枚500円程度のマスク箱を10倍から20倍に及ぶ金額で売買している業者が30も40も軒を連ねていたので、この爆買いは火事場泥棒的な一攫千金を狙った連中のしわざであることが分かった。てっきり中国で品不足となり、きちんと作られた日本製品の需要が高まったものとばかり思っていたが、他ならぬ日本で阿漕な商売をするためだったのだ。こういう発想の仕方は、日本人の自分にはこれまであまり経験が無かった。

 とはいえ、これまでも皆無だったわけではない。2011年の3.11東日本大震災の時、都立高校に勤務していた自分は折しも卒業式の余韻に浸っていた保護者と生徒ともども学校に閉じ込められることになった。学校に残っていた教職員に学校長から帰宅禁止の職務命令があり、翌日全員の無事帰還を確認するまで、防災倉庫から食物(アルファ化米は見ず、カンパンだった。)や寝具(毛布や段ボール)を搬出したり、その他の世話、翌日の電話確認を行うなど、12日の昼過ぎまで禁足を食らっていたのだった。職員にもカンパンを分配してよいという指示は無かったので、黙って自分の分くらい確保すればよかったのだが、意外に堅物だったのか、夕方腹が減って校舎のすぐ裏にあったコンビニに歩いて行ったときには、すでに店内の棚はほとんど空っぽになっていた。仕方なく甘ったるいクッキーの箱が残っていたのを幸い、急性の糖尿病でも誘発しないかと訳もない不安を感じながらそれで当座の腹を満たし、教科室には誰もいなかったので机四つほどの上に寝場所を作って一晩過ごしたのだった。後で聞けば、仙台で私学の教師をしていた友人高橋はその日帰宅して妻の安否を確認できたというから、東京の公立の辛口加減、いや責任感??、いや苦情対策兼備のコンプライアンス重視度はすでに相当に進んでいたのだった。

 ネットはいつつながったのか、もともと大丈夫だったのか、そういう次第なので確認もできなかったが、帰宅してわりと早い時点でネットを見て啞然としたことがあった。乾電池が払底していたが、それは昨年=令和元年の台風15号、19号の際にスマホのバッテリー充電騒ぎがあったことを思い起こせばすぐに理解できることである。(この台風については、また書きたいことがある。)その時、Amazonのマーケット・プレイスに、驚くまいことか乾電池1個を5,000円也で販売していた人間がいた。それは一人か数人の範囲を出ていなかった。その後、さらに増えたかどうかは知らない。しばらく後で、ネットにそういう連中を非難する書き込みをいくつか見た。自分も呆れた一人だったから、全く同感であった。

 だから今回のマスク業者の数に驚いたのである。コロナ・ウィルスの増殖率とこれはいい勝負ではなかろうか。架空会社の符牒しか見えないから分からないが、日本人の割合がさほどでないことを信じたい。それとも、こういう商習慣は日本にも定着しつつあるのだろうか。他にも、海彼のパニックは人の話に聞くだけでもすさまじいばかりで、対応した医者を殴打して服を引きちぎるとか、病者の住まいを板で封鎖したとか、流入した難民を悪罵するとか、住民レベルに至るまで基本的人権も何もあったものではないと思わされた。そんな中で、かの国の古代の書籍の中に見つけたのが、この言葉である。字は少し難しいが、読み方はこうだ。「忮(そこな)はず、求(むさぼ)らず。何(なに)を用(もっ)て臧(よ)からざらん。」忮は人を妬み憎んで損害を与えること、求は貪欲にほしがること。臧は良い意。乱暴で貪欲な振舞いを控えることは、それだけでなんと結構なことではないか、というほどの意味である。これはもとかの国の太古の詩集『詩経』の歌であるようだ。孔子はこれを引いて、一刻者の弟子である子路を褒めたので、嬉しくなったこの弟子は生涯の唱え文句とした。後にそれを繰り返すのを聞いた孔子は、これだけでは最上というわけではないと例によって弟子の迂闊をたしなめたというのが、この『論語』の一節である。

 現代人は、孔子はむろん、子路にも、遠く遠く及ばない。歴史の歩みとは、一体何なのだろうか。かの国の『論語』には、因循の代名詞のように取り扱われる儒教道徳の埃を払って、もう一度改めて日本人と、願わくはかの国人の読書リストとして復活してもらわなければならない。「論語」は高校生のときに斜め読みして、愛読書に決めていた。名言や逸話に感心するばかりだった当時と比べれば、比較的長い文章も面白く読めるようになり、助字の意味やニュアンスもだいぶ分かるようになってきた。しかし、わが身を振り返れば、『論語』の言葉をきちんと考えるためには、情熱も行動力も減衰の一途、だいぶ堕落してしまったようだ。わがなけなしの知的制作物である「漢文エディタ」のブラッシュアップも兼ねて、『論語』の本文入力を進めながら、孔子様の言葉を改めて考え直すことにしよう。その後は、簡単な注や現代語訳も、機会があれば付けてみたいものだ。

 【追記】 マスク高騰のことは上に書いたが、2.4「マスク2箱で8万円」という新聞記事の引用を見て、改めてAmazonを覗いたら、1箱100万超えの販売まであった。数十箱を数十万円というのがそれに続いて数あまた。それと不思議なのは、カスタマーがそれぞれいて、98%の評価を得ていたりすることである。実直な商売をしていた者が突如豹変した訳が問題なのだろうか。あるいは、実直とはいかなる苦難にも金額の多寡に相応してセレブの期待を裏切らないという商い人の要件であるのか。いや、それとも、実はさにあらず、これはかなりあざとい手法をも辞さずに時代への諷刺を考えた人たちの作品なのか。初めは「君子喩於義、小人喩於利。」(君子は義に喩り、小人は利に喩る。)〔里仁篇〕という話であると単純に考えていたが、放埒無慙というか、周末戦国時代の言葉のままに「放辟邪侈、無不爲已。」(ほうへきじゃし、為さざる無きのみ。)〔「孟子」梁恵王上篇〕というべきこのエスカレートの有様から、何について、どう考えなければならないのだろう。天災地変の自然現象のようにこれは天の与えた教訓なのだろうか。呆れ果てた、と書いたばかりの同じ今日、ネットのニュースは次の記事を報じていた。それは封鎖された武漢の人たちを応援する日本人の行動を特にとりあげた中国のツイッターに多くの好意的な反響が寄せられたというのである。それらの記事の陰に、両国の敵愾心をこれ以上煽り立てないためにそれぞれの場所で力を尽くしているに違いない少数の人たちの努力の影がほの見えて、頭が下がった。この人たちは小人ではない、孔子の謂われる君子人である。自分のように舞台脇で勝手な気焔を上げているなどは床屋政談と同様どうも狭い了見で、心も行き届かず、余り良ろしくないことだと気づかされた。その分、まだ前途の可能性に賭けた「希望」の火が見えるようだった。(2.4)

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