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2020.06.07
引用数章 (1)
コロナは社会の制度と風俗の内に潜んでいた様々なもの、専ら隠しておきたい醜悪な要因を衆目に暴露する働きをなした。このことは、最近の時事評論の類にずいぶん指摘され、記述されるに至った。心理学者のフロムに従って、前回列挙した様々なマイナス因子にその時取り零してしたものは《差別》である。貧富の差別、人種・民族の差別、南北の差別、弱者の差別、これらが「人が本来有する攻撃本能」(ネットの時論から)が赤裸々に表れたものとする指摘であるが、これもまた《暴力》そのものの剥き出しの発現であり、アメリカの市民と警察の乱闘などを見ると、あさましいまでに露出している。「暴行」という言葉もまた『孟子』の中には出ており、又しても引用したくなったが、外にも引き合いに出したい文章が若干あり、だらだら議論するより取りあえず書き留めておきたく思ったので、引伸延言は後日に回し、箚記その1、その2という感じで記録だけしておくことにする。
○ 世衰レ道微ヘ、邪説暴行有作ル。
○ 公明儀曰ク、庖ニ有リ二肥肉一、廏ニ有リ二肥馬一、民ニ有リ二飢色一、野ニ有リ二餓莩一、此レ率ヰテレ獸ヲ而食マシムルナリレ人ヲ也ト。
○ 作レバ二於其ノ心ニ一、害フ二於其ノ事ヲ一。作レバ二於其ノ事ニ一、害ハン二於其ノ政ヲ一。 (以上、『孟子』滕文公下)
○ 惟ダ仁者ノミ宜シクキナリ レ在ル二高位ニ一。不仁ニシテ而在ルハ二高位ニ一、是レ播クナリ二其ノ惡ヲ於衆ニ一也。 (以上、『孟子』離婁上)
○ 二十世紀の西欧社会に生活しているわれわれが、まったく正気であるという考えほど、ありふれた考えはないだろう。われわれのうちの、多数のひとびとが、多少とも重い精神病にかかっているというじじつに出あっても、われわれの精神がふつうの健康を保っていることについて疑いをもつことは、ほとんどない。われわれはさらにすぐれた精神衛生の方法を用いて、精神の健康状態をさらにいっそう改善できると確信している。したがって、個人の精神障害にかんするかぎり、おそらく、こんなに正気な社会で、どうしてこんなに多くの精神病患者が発生するのだろうと、いささかびっくりさせられながらも、それをまったく、個人的なできごとだとしてしまう。
はたして、われわれは、自己をあざむいていないといいきれるだろうか? 多くの精神病院の住人は、自分のほかは、みな気狂いだと確信している。ひどい神経症患者の多くは、自分の強迫的儀礼や、ヒステリー発作は、多少とも異常な環境にたいする正常な反応だと信じている。ではわれわれじしんは、どうだろうか?
すぐれた精神医学の見かたで、じじつをみることにしよう。過去一世紀の間に、西欧社会におけるわれわれは、人類の歴史における他のどの社会よりも多くの物質的な富をつくりだした。しかもこれまでに、何百万という多数の人口を、われわれが「戦争」と呼んでいる方法で、殺戮してきた。小規模の戦争はしばらくおくとして、われわれは、一八七〇年、一九一四年および一九三九年の大戦争を経験した。これらの大戦争中、参加者はみな、自己防衛のために、名誉のために戦っているのだとか、神に庇護されているのだと固く信じていた。戦争の相手の集団は、いつも、世界を邪悪から救うために打破らなければならない、残忍で、不合理な悪魔だと考えることが多かった。しかし、たがいに、殺しあうことがすんで、二、三年も経過すると、昨日の敵は今日の友となり、昨日の友は今日の敵となって、ふたたび、われわれは真剣に黒か白かの似つかわしい色で、かれらを色わけしはじめ、一九五五年の現在、われわれは、もしそれが勃発するならば、人類がいままでに経験したいかなる殺戮をも凌駕する大量殺戮のまえに、さらされている。自然科学の分野における最大の発見のひとつが、このために用意されている。誰もが、種々の国民の「政治家」にたいして、「戦争を防止するのに成功したら」、あらゆる賞讃をささげようと、信頼と懸念の入りまじった気持で注目している。しかも、戦争を勃発させるのは、ふつうは悪意からではないにしても、委任された事がらを合理的に管理しそこなった、これらの政治家たちにほかならないというじじつを不問に付している。
だが、こういう破壊性や、妄想的な疑念を爆発させるとき、われわれは、文明化した人間が過去三千年の歴史のなかで行ってきたやりかたといっこうに異ったふるまいをしていない。ヴィクター・シェルブリエによれば、西暦紀元前一五〇〇年から、西暦紀元一八六〇年までのあいだに、約八千にもおよぶ平和条約の署名が行われ、そのいずれもが、恒久平和を維持するのに役立つと考えられたけれども、どれも平均二年しかつづかなかった。(出典省略-入力者)
われわれの経済事情をみても、いっこうに元気づけてくれるものはない。われわれは、作物があまりできすぎると、それがしばしば、経済的不況をおこすような経済体制のもとに生活しており、「市場の安定をはかるために」、農産物の生産性を若干制限している。ところが、他方では、われわれが制限しているその品物を手に入れることができず、それをひどくほしがっている何百万というひとびとがいる。げんざい、われわれの経済体制は、他の理由もあるが、毎年、軍備を生産するために、何十億という巨額を消費しているために、非常にうまくいっている。経済学者は、軍備生産が中止される時期が到来するのを若干の懸念をもって、期待しているが、武器のかわりに、住宅や、他の有用かつ必要とされるものを国家が生産すべきであるという考えは、自由や、個人の創意を、危険に陥らせるという非難をすぐうけてしまう。
人口の約九割が読み書きの能力がある。われわれは、誰でも、毎日、ラジオを聴き、テレビを見、映画を鑑賞し、新聞を読んでいる。しかし、広告を加えてこれらのコミュニケーションの媒体は、過去ないし現在の文学と音楽のうちで、もっともすぐれたものをわれわれに提供するのではなくて、なんら現実感のないもっとも安価な無駄ばなしや、またあまり教養のないひとが時たま見聞きしてさえ、困惑してしまうような、残酷な空想で、ひとびとのあたまをいっぱいにするのである。老いも若きも、みなのあたまがこのように毒されているのに、スクリーンには、「不道徳」なことはあらわれないと思って、よろこんで見つづけている。人心を啓発し、向上させる映画や、ラジオの番組をつくりだすために、政府が投資すべきであるという示唆は、自由と理想主義の名のもとに、憤慨と、告発に出あうことになるだろう。
われわれは、平均労働時間を、一世紀前の約半分までにへらした。今日、われわれは、祖先たちが、夢にも見なかったほどの自由な時間をもっている。だがそれでどうなったのか。われわれは、新たに獲得した自由な時間の使用法を知っていない。せっかく節約した時間をむだにつぶそうとし、一日が終れば、ほっとする。
なぜわたくしは、誰にも周知の光景を示して、この話をつづけなければならないのだろうか? 一人の人間がこういうふうに行動したら、きっと自分が正気なのかどうかという、真剣な疑問が生じてくるだろう。だがそのうえで、かれがなんら欠陥がなく、まったく正当にふるまっていると主張するなら、その診断は、すこしも疑わしいものではないだろう。
いまもなお、社会が全体として正気でないことがあるという考えをうけいれようとしない精神医学者や、心理学者が多い。かれらの考えによれば、ある社会における精神の健康の問題は、たんに、「適応できない」個人が何人いるかという問題にすぎず、文化それじしんが、適応てきなくなることがあるという問題ではない。本書があつかうのは、後者である。すなわち、個人の病理学ではなくて、常態の病理、とくに、現代の西欧社会の病理をとりあつかっている。(E.フロム『正気の社会』 社会思想社 1958, pp.16-19) ※ 太字は原文で傍点を付している語句である。
- 1955年に、私はまだ生まれていない。しかし、現代社会の「病理」はここにすでに明確な見取り図を以て描かれている。
コメント
- 人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。(『孟子』滕文公上)
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