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2020.05.31

人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。(『孟子』滕文公上)

 「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。(『孟子』滕文公上)とは、言うまでもなく「煖衣飽食」の典拠だが、後半がこんなに厳しい物言いになっていることは知らなかった。令和二年は正月の末以来、世の中の言動がすっかり「禽獣」に近くなってしまったと思う。政治とは、さまざまな思惑が複雑な過程を通って、世の中のバランスをとっているもの、という漠然とした依頼心が消え、この四ヶ月ほど毎日のように苛々しながら新聞・雑誌・ネットのニュースを追ううち、どうも各種の事象がまとめて禽獣の振る舞いに近づいているように思えてならない。人間の誇りを取り戻すことが、これほど大事な時代もないと思う。元はエテ公であれ、霊長としての人は「独立」を奪われてはならない。そして、富や権力を手中にしても「勘違い」を起こしてはならない。古今の「知言」の人は、動態的な人間の無様を明鏡止水のように見せつけてくれる。一人一人が「独立の気概」「浩然の気」を養って、話し始めなければならない。どんなに素朴な議論からであれ、出立点を誤った美辞麗句に比べれば霄壌の差があるものだ。私はともかくも教員であったから、「無教」の状態に置かれることの悲惨について多少は考えを巡らすことができると思う。

 1月下旬に、新春の歌舞妓を見に行った。国立劇場で尾上菊五郎率いる一座による「菊一座令和仇討」という通し狂言だった。歌舞妓など、小学校以来観た記憶もない田舎者が再び花の国立劇場で新春の寿ぎの片棒を担ごうというのである。もっとも、万超えのS席など年金暮らしのわが家に望むべくもない。家内が頑張って1階席の端に半額の席を見つけてきた。夫婦退職後初のデートでもあった。座席周りには正月らしく梅の造花をあしらった紅白の提灯がめぐらされ、左右には8年ぶりという両花道の仕掛けがなされ、舞台正面には紺・柿・緑の三色縦縞の定式幕が掛かって、正面に令和の典拠である「初春令月、気淑風和」の『万葉集』の一節が二行に書かれた大凧が掛かっている。太鼓が鳴り、いよいよ開始という辺りで斜めに照明が一閃、右方揚がりに令と和の二字を貫いて新しい年を祝った趣向が印象的だった。演技そのものは、菊五郎以外それほど感心しなかったが、まあ正月らしい御目出度い趣の演目だった。少し残念だったのは、せっかくの両花道もオールスターの顔見世になったとき、皆真ん中のS席のサービスに努めていて、こちらからは尻しか見えなかったことくらいか。松緑の権左だけが少しだけ視線を配って、半額組にも会釈してくれたのに感心した。会場へは毎度のようにほとんど一番乗りだったが、昼に込み合うことを予想して妻と早い昼飯を食堂で食った。数ヶ月前から人気の狂言で、座席取りに必死だった奥方を労うべく、滅多にしない外食の機会を敢て小遣いの痛手をも顧みず歌舞伎弁当で彩りを添えたのは亭主のささやかな見栄でもあった。空は曇っていたが、いい年になるといいなと思った。幡随院長兵衛や笹野権左、白井権八、三日月おせん等々、総花的に江戸歌舞伎のスターが並んでいたが、ほとんど知らないので後でそれぞれの院本でも探そうかなどと思っていた。その二日後に突然のサーバのダウンで、第三のホームページを躍起になって作っているうちに、コロナの騒ぎは起こっていたのである。後で振り返れば、我々庶民の耳に騒ぎが聞こえてきたのはすでに発生から小一ヶ月経過していた、睦月も末の五日前後のことだったのである。

 騒ぎはいろいろな形で起こった。春の町は例年のごとく日差しが暖かだったが、ニュースは日々殺伐たる様相を呈していた。今回のテーマは「禽獣」であるから、それをピックアップしていくと、まずは《買い占め》と《転売》、《横流し》である。中国の《輸出禁止》は公然の秘密で、マスクのみならず1月末に頼んだ小さなカーペットはなぜか三回も出国したことになっていたが一向に届かず、四月にキャンセルした数日後に届いたので、突っ返した。五月に入ってから、新大久保あたりのバングラデシュの商人に知り合いの中国商人が政府の目を盗んでマスクの横流しをし始めた。マスク、ウェットティッシュ類、解熱鎮痛のための頭痛薬(特にタイレノール)、エタノールを含むアルコール類一般から台所用アルコールスプレー、ベンザルコニウム液、次亜塩素酸水、ハイターやノロキラー、果ては精製水まで、順次品不足になり、次にトイレットペーパーとキッチンペーパー、ティッシュペーパーが一気に店頭から消え、やがて消毒液、液体石鹸、固形石鹸、界面活性剤がよいとなれば台所用洗剤まで、ドラッグストアに何度も通わされた。トイレットペーパー類はオイル・ショック以来の懐かし?の品不足であり、同時に缶詰、味噌汁の素、小麦粉、パスタ、蕎麦に至るまで、備蓄用食料が次々に払底になった。このうち半分は《流言蜚語》の波及効果によるものである。そして半分は日々変わる、自称専門家による山のような《俄処方箋》によるものといえる。海外でのロックダウン等を睨んで緊急事態宣言がようやく出始めたが、対応の善し悪しで国政・地方行政を跨いで混乱が起こり、自分から働く政治家と与えられるべき処方箋が出るまで何もしない《日和見》、ないし《野放図》なガラクタ政治家が跡を絶たなかった。この騒ぎに乗じてIR法に関わるカジノ誘致に絡んでどうも《收賄の疑惑》のある若い政治家も、難を逃れたフシがある。特にわが千葉県政には、この種の見本がいくつか見られる。そして、国を跨いで、県を跨いで、市を跨いで、官民を跨いで、ツイッターその他SNSを舞台にした《誹謗中傷》合戦が日々盛んであった。《虚偽》発言や選挙を睨んでの《中傷》、芸能人を差別した、あるいは芸能人が自分を名士と《勘違い》した舌戦が盛んに交わされ、輸出入の禁止等の《制裁措置》から、路上での《殴打・発砲・射殺》、暗黙裡の《拉致・監禁》、または《粛清・暗殺》や存在否認、弱者の《放置・見殺し》、老年やマイノリティの《間引き》に至るまで、俄かに信じ難いほど下等な出来事が日々耳を欹てた。また、医療従事者をたたえ、都市封鎖下の住民を声援する試みが行われる一方、新薬やワクチン、検査試薬の開発競争による名誉と少からぬ《射利》の企てもあり、それに絡めて《投資》の上下がある。そもそもがコロナウィルスの発生と報道に関連して、《利権・政治的支配》絡みの《デマ・隠蔽・情報操作》が半ば以上公然と、厚かましい仕方で繰り返されている。それを批判する良心の声の何と小さなこと。数ヶ月も家に引き籠もりを余儀なくされた結果、目立ってきたのが身体的・精神的・社会的なダメージとそれに甘えた《精神疾患》の数々である。見える禍害は次々に列挙できるが、見えない禍害はこれから芽を吹いてくることだろう。これだけの災禍を齎しただけでも、これは戦争に匹敵する《死の使者》であろう。

 コウモリが由来という。もっと根源的には地球温暖化を放置して乱開発を進めれば、まだ自然の奥から新しい災禍が出現するとも言われる。「6度目の大量絶滅」という声も間近くは聞かれるようになった。あたかも海に進んで行くネズミの集団のごとく、ヒステリーの金切り声を挙げながら波に没していくのであろうか。《ヒステリーと暴力》が各所に伏在しているのは確かであるように思われる。私は学生時代、碌々勉強したこともないが、若い時分なりに心理学に多少の興味があったものと見え、少しだけ読んだ。中に印象的だったのは、エーリッヒ・フロム(Erich Fromm)の『悪とは何か』(悪について)である。ここで、フロムの提出した二つの理念型が「生の愛好」(バイオフィリア)と「死の愛好」(ネクロフィリア)であった。思えば、デジタル化の傾向、知的基盤社会の謳歌、暴力の放置と拡大は、どれをとっても余白と曖昧の嫌悪、不揃いと動いて止まぬものに対する憎悪、権威と権力へのプライドなき盲従等々、ネクロフィラスな要素ばかりと言えよう。マスコミの浸透で一億総白痴化するなどは、ヒステリーの序盤でしかなかった。コウモリは洞窟で生育する。これが死の種を陽光の下に齎したとしても何の不思議もない。悪の根源の一つをフロムは《死への傾き》に見た。《暴力》は相手を死に追いやるためのものである。現代の暴力的傾向は隅々まで社会を蝕み、その素顔を露わにしたと言ってよかろう。現代の政治家と称する人種が揃って極度に暴力的であるのは、時代のアンチ・ヒーローとして当然の容姿を誇示しているのだ。24日に『お節介なアメリカ』の著者でもある言語学者のノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)は自国の政治について誠意Integrityを欠き、国民の信頼を失った共和党はすでに政党ですらなく、大統領は社会病質の誇大妄想狂(Sociopathic Megalomaniac)と呼んでこき下ろしたが、人の痛みを知ることに恐しく遅鈍で仁愛そのものを欠き、権益を自己の手中に収めることに狂奔する様を指す言葉であるようだ。翌25日の米兵慰霊祭には、州知事の要請を無視して派手で厚顔な演説を行ったという。世界的言語学者の下した診断名は学術用語に似るが、要は不仁にして専横ということであろう。これは、現在世界の各所は不仁専横の輩に事欠かないと思われる。モノに執着の強い隣国などは阿房宮の富を再び志向しているではないか。こうした病者の大量発生は、必ずやそれらを産み出す社会的原因が働いたものであろう。私は教員の直感から、これらは学校教育のどこかに欠落因子を抱えて成長した果てと見ている。そして悪いことに、大学のそれを含めて今日の学校教育は社会的要求という見えざる圧制の下に喘ぎ、独立と見識を見失っているのだ。

 孟子は標題文の前後でこう述べている。「后稷敎民稼穡、樹藝五穀。五穀熟而民人育。人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。聖人有憂之、使契爲司徒、敎以人倫。父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信。」(后稷は民に稼穡を敎へ、五穀を樹藝す。五穀熟して民人育まる。人の道を有つや、飽食煖衣、逸居して敎へ無ければ、則ち禽獸に近づく。聖人は之を憂ふること有りて、契をして司徒爲らしめ、敎ふるに人倫を以てす。父子に親有り、君臣に義有り、夫婦に別有り、長幼に序有り、朋友に信有らしむ。)後半の五常の徳目だけを取り出していきなりあざ笑ってはならぬ。何もこれを復興せよというのではない。しかし、「教え」=教育の大事な部分が欠落している国と地域に《暴力》が蔓延しているのを、看取できない人間はもはやあるまい。知育ではない、養うべきもの、育むべきものは五穀に加えて信義なのだ。孟子の言葉でいえば仁義を兼ね備えた為政者が今ほど望まれる時代は又とないに違いない。本来仁にして人に信ある者、これは親の愛に恵まれれば言うことはないが、学校教育としては陽光の降り注ぐ自然に親しむことを以て、始めの第一歩とする。四ヶ月、教科書に触れなかったからと言って死にはしない。しかし、小学校で教わるべきことに《自然への愛》が欠けている教育はどんなに知的に進んでいようとも、それはすでに教育ではない。自然が教えてくれるものは、光のように温かで複雑な要素(エレメント)なのである。言葉で明確にならないものを小馬鹿にするところから、現代の知育なるものは道を踏み違えた。論理的思考など、ガラクタ論理と官僚専制をゴショウ大事に育て上げるのでなく、まず《生へのオリエンテーション》を経なければ、一片の価値すら持たないはずである。

 古典が不易であるのは、古典を読めば洞察が働くからだ。そして何より独立した思考ができるようになる上、過去の人間を信頼できるので現代に絶望せずに済む取り柄がある。古典を切り捨てた今の国語教育は、10年と持つまいよ。

 ※ ロングマン英英辞典には、次のように名詞の説明が載っていた。学者先生、ズバリ賞である。(6.1追記)
   sociopath :  someone whose behaviour towards other people is considered unacceptable,
                         strange, and possibly dangerous
        megalomaniac : someone who wants to have a lot of power for themselves and enjoys 
                         having control over other people's lives

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