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2020.05.12
「曰、難言也。」「何謂知言?」(『孟子』公孫丑章句上篇)
「曰く言ひ難し。」という熟語は何かの説明に窮したときの逃げ口上のように捉えられているが、元来は『孟子』に由来する。孟子の言動は一見居丈高な調子を感じてしまうが、その言葉と態度の由来するところを孟子自身が説き聞かせようとしたものと考えることができるくだりだ。孟子の弟子に連なる公孫丑(こうそんちゅう)が孟子に「敢へて問ふ、夫子は惡(いづ)くにか長ぜる。(敢問夫子惡乎長。)」(『孟子』公孫丑上)と尋ねた。本当にずいぶん思い切った問いかけである。孟子がこれに答えていわく、「我は言を知る。我は善く吾が浩然の気を養ふ。(我知言。我善養吾浩然之氣。)」と答えた。答えは二つあるが議論は一つである。これの説明に難解なところがあり、初めは考えたが、ある時点で「スッと」心に入ってきた。
6日のブログ記事の後半は、正直自分でも何を書いているのかよく分からないままに、思うように書きなぐったのだが、その中には記憶に残るものもあった。自分の主張なのだから覚えていないほうがそもそもおかしいのだが、「自然」に触れさせることの意義といった感じだったかと思う。センター試験への罵詈雑言も我ながら稚拙な内容だと思わなくもなかったが、ホンネは吐いてみるものである。試験秀才を産み出すだけの統一試験は、百害あって一利なし、というのが基本線だ。だが、一利くらいはあるのかなと思うのが、ネット批判の内容にかなり的を射たと思えるものが見当たることである。今回の定年延長批判は、いつまでも国民を愚物扱いして勝手し放題な上級官僚たちの愚か度を逆照射するものであろう。ただし、今はそちらに入らないし、入れない。私は「自然」をバカにする現代の教育の偏向について、もっと食い下がっていきたい思いが強いのだ。
『論語』の入力を終え、次に『孟子』に取り掛かった。ようやく江戸時代の寺子屋の子どものレベルでいえば、初年度の2学期に差し掛かったあたりである。まだ『礼記』や『春秋』にも入っていない。それでも、いかに晩学とはいえ、すでに孩提の童ではない。二つの古典の文体やら性格やらの違いを感じながらキーボードを叩いている。そうして感じるのは、聖人と亜聖と、その性格や文章についての大きな懸隔である。これほどタイプの異なる人たちが儒学の枠の中で活躍しているのである。一読擦過の印象として最も強いのは、孔子の言葉が読む者をして考えさせるその啓発力である。ひらたく言えば「開かれた」言葉遣いがその大きな特徴であろう。対して孟子の言葉はきわめて求心的であり、論語の「開かれた」特徴はほとんど感じず、強引なまでに志向的な特徴を持つといえる。どちらも言葉遣いは明晰であり、読者がぶれたり動揺したりする嫌いは皆無である。また、戦国の習いでもあろうか、修辞を駆使して何とか力づくで相手を折伏しようとする「説得のレトリック」が『孟子』では際立っている。
ここで触れる「浩然の気」は、初め明快を欠く印象を受けた。夫子自ら「曰く、言ひ難し。」という。公孫丑「敢へて問ふ、何をか浩然の氣と謂ふと。」孟子「曰く、言ひ難し。(曰、難言也。)其の氣たるや、至大至剛、直を以て養ひて害ふこと無くんば、則ち天地の閒に塞(み)つ。其の氣たるや、義と道とに配す。是れ無くしては餒(う)うるなり。是れ義を集めて生ずる所の者にして、義を襲(つ)いで之を取るものに非ず。行ひて心に慊(あきた)らざること有れば、則ち餒う。我故に曰く、告子は未だ嘗て義を知らずと。其の之を外(ほか)にするを以てせば、必ず焉(これ)を事とすること有りて、正すこと勿(な)し。心は忘るゝことも勿く、助長することも勿し。(以其外之也、必有事焉、而勿正。心勿忘、勿助長也。)」しかし、こうして書き写してみると、例によって相当理詰めの行文であることを知る。対偶法を活用しながら、努めて明説しようとする意気を十分感じ取ることができる。
「其の氣たるや・・・」が対偶の始めである。「至大至剛」「塞于天地之閒」は之を《氣》と呼んだ所以、「以直養」而「無害」は《義》によってこれを「養ふ」と言っている。これが「義と道とに配す」る根拠となる。「直を以て養ひ、害ふこと無し。」というのが《道》のあり方であろう。ただし、この「養い方」が理解を分ける分水嶺であり、最も微妙な言い回しを必要とする箇所であった。「天地の閒」をも擁塞する「至大至剛」のこの氣を一箇の生きた人間がどう養うのか。これは人間の可能性の無限の展開となりうるのか。そこなうことなく生育させる工夫の要は何か。なにぶんちょっと普通で考えにくい文脈である。のっけから「至大至剛」と唱えて、頗る付きの景気のよい言葉から始まるので、普通人はまず度肝を抜かれてしまう。(ところで、私の前任校の中に「至大荘」という海の家を所有していた高校があったが、学校の統廃合に当たってやけに存在感を誇示していたのをいささか疎ましく横目に見ていた。当時この語の由来も知らず、それでいて国語科の教員を務めていた。隠居老人と化した今ようやく寺子屋修行に入ったわけである。)
再び「義」によって「道」を得、「氣」を養う方法に戻る。上の前提に立って、孟子は「告子にはそもそも義というものが分かっていない。」と断定した。その理由づけの駄目押し文をいかに解釈するかが難しいところである。「以其外之也、必有事焉、而勿正。心勿忘、勿助長也。」これを私はこう訓んだ。「其の之を外にするを以てせば、必ず焉を事とすること有りて、正すこと勿し。」助長はこの後に高校漢文の入門逸話に移っていく。あまりに多い「勿」=莫・無をどう捉えればよいか。「有事焉」の焉は詠嘆の助字か、代名詞か。最も議論の箇所は「勿正」で区切るか、「勿正心」で区切るかだという。ただし、意味の開きはほとんど生じないともいう。「以其外之也」で通常は文を区切るが、私は敢えて仮定句に訓んで、「必ず有り」に続けた。この議論の前段で告子を批判する孟子は、「言」の背景を「心」に求めてはならない、「心」の解釈を「氣」に求めてはならない、とする告子の議論について、後半は「可(よ)し」としながら前半は「可からず」と言った。「氣」はここでは「心(志)」に次ぐものとして捉えている。孟子は「心=志」を「至る」ものとして上位に置いた。その「至大至剛」にして天地に遍満すべき「心=志」の生長したものが「浩然之氣」になる、という文脈である。「言」を「心」に根ざし、発するものと見ずに、それ自身を対象化し始めたら? これが孟子の最も戒めるところだった。「心」は「事とする」ものでなく、絶えず「正す」ものでなければならない。静止した事象として言葉による対象化を試みてはならない。もっと注意深く「養ふ」べきものなのである。ここが先に分水嶺と言ったところだ。「事焉」でなく「正す」もの、たえず「直を以て」養い続け、天地を充たす「氣」を育てていくことが要点だ。「其の志を持して、其の氣を暴(そこな)ふこと無かれ。」と孟子は告子への批判を締め括る。「心=志」と「氣」と「言」と、その相互関係をつかめなかった公孫丑が師の最も得意とするところはどこなのかと聞いたことから、孟子は「浩然之氣」を養うこと(我善養吾浩然之氣)、「言」を知ること(我知言)を挙げた。
あらためて「浩然の氣」を養う注意点に戻る。「直を以て氣を養ひ」「志を持して氣を暴はず」という原理論は、生きた人間の行動においてどういう形をとるか。孟子は繰り返す。「是れ義を集めて生ずる所の者にして、義を襲いで之を取るものに非ず。行ひて心に慊らざること有れば、則ち餒う。」この「餒(ダイ)」は飢えて力を失う、または魚肉が「あざる(腐る)」意である。生の痕跡が消えかけることをいう。「氣」はこれほどに扱いにくいものでもあり、「至大至剛」のものに生い育つまで絶えず注意して見守っていなくてはならない微妙な性質の生きものだ。だから「心」は「忘るゝことも勿く、助長することも勿し。」まさに苗なのであろう。無理に引っ張ればすぐさま槁(か)れてしまう。「天下に苗を助けて長ぜしめざる者は寡(すくな)し。以て益無しと爲して之を舍(す)つる者は、苗を耘(くさぎ)らざる者にして也、之を助けて長ぜしむる者は、苗を揠(ぬ)く者なり。徒(たゞ)に益無きのみに非ず、又之を害(そこな)ふ。」政治は人による。大本は「心」である。そんなものに何の意味があるか、という人間があまりに多過ぎるので、いつの世も苗は途中で枯れてしまうのであろう。人あって心の雑草を丹念に刈り取ることをしたなら、功を百年の後に期したなら、いつか青々とした穀苗は金色の穂を垂らすに至ることだろうか。
原理を先に説明した以上、「言」を「心」で判別すべきことは明白である。公孫丑は「言を知る」ことの意味を思い出して、次に尋ねた。これは、即座に明快な答えが返ってきた。公孫丑「何をか『言を知る』と謂(い)ふ。」孟子「曰く、詖辭(ひじ)は其の蔽(おほ)ふ所を知り、淫辭(いんじ)は其の陷(おちい)る所を知り、邪辭(じやじ)は其の離(そむ)く所を知り、遁辭(とんじ)は其の窮(きは)まる所を知る。」対偶法は、両端を押さえて全容を暗示する修辞法である。一部に偏した言動はその「タメにする」ところが分かる。出まかせも二転三転すれば雁字搦めになり、ウソは初めから馬脚を顕わし、逃げ口上は八方塞がりをみずから招く。言葉を知ることは、事象を弁える方便であるのみならず、心を育てることにつながる。「其の心に生ずれば、其の政を害ひ、其の政に發すれば、其の事を害ふ。」政治とは、詰まるところ人となりが全てだ。孟子は最後に揚言する。「聖人復た起つとも、必ず吾が言に從はん」と。王道政治のレシピは、優れた職人の魂に依存しつつ、明確なものとしてそこにある。こういう簡勁な言葉に結実させる明鏡止水の頭脳が亜聖たる所以か。
※ この「知言」と「養氣」(浩然之氣)の二つは、孟子という人の特質を的確に自解した語であろうと思う。(5.31追記)
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- 人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。(『孟子』滕文公上)