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2020.05.06
「汚らしい嘘や狡(ずる)は絶対に許されない。」について
「汚らしい嘘や狡(ずる)は絶対に許されない。」という、著名人によるツイッターの書き込みをめぐって賛否両論の書き込みが行われたという。アベノマスクという異名をとった、政府によるガーゼマスク配布に対するコメントである。こういう直言自体を見ることがとんと稀になった現代社会だ。私は爽快な印象でこれを読んだが、これをめぐる議論についても興味を持った。コロナウィルスをめぐっては、社会の見えざる顔がさまざまに露呈してきたが、「ことば」の問題についても私のようなただの市井人をいろいろ触発・啓発してくれるところがあった。そういう印象がまだ冷め切らないうちに、少し書き留めておきたい。
最近になってようやくブログを始めた私は、まだ本文の書き方にも慣れていないので、ツイッターやフェイスブックやラインやその他、今どきのソーシャルメディアは一様に不案内である。なにしろスマホも使わずに去年までガラパゴスケータイで頑張っていたが、液晶が見えなくなってしまい、それでもPHS以来旧型のパカッと開いてポケットにスッと押し込める小型電話にこだわった結果、ガラホなるものに切り替えて、金はぼったくられるやら、電話一つでも一回でかからずに切れるやら、現在なお散々な目に遭っている人間である。少数派であることだけは間違いがないだろうと確信している。O型のいくぶん入ったA型人間なので、少数派であることに不安を感じたことはほとんど無い。頑固に居直るという気味も血液型とともに先祖から受け継いでいるらしい。これらはケータイに絡んだ余談に過ぎないが、「ことば」に関しても相応に保守的なところがあるかもしれないと思う。
長く書かないために、初めに一つの命題を出してみると、「ことば」は本来極めて保守的な性質のものだと考える。「アベノマスク」がもしかすると「アベノリスク」につながるかもしれないという、ちょっと面白い語呂合わせも、「ことば」の遊びの一つであり、ことばは流行とともに絶え間なく移り変わっていく。しかし、ことばが「言の葉」であるという、千百年前の恐しく古い定義も今日なおカビていない。ことばは「人の心を種」として生長した葉であり、時に移ろいやすい花であっても大根のところで薬指のように心臓に直結するものなのだろうと思う。毎度引き合いに出すが、「ことばは呼吸。」「ことばは湧き出るもの。またしみ出るもの。」「ただのつくりものではない。」という亡友によることばの定義は、私にとって第一の拠り所となっている。人の心がつくりものでない限り、至極当たり前のことだが、呼吸のように毎日使い、毎日それに頼って生きてはいても、滅多なことで湧き出たり、しみ出たりするものではない。心が動くという体験が、ことばの発生には必ず必要である。古くは「肺腑の言」という言葉もあったが、体も同時に動いているのであろう。
4月22日頃に小泉今日子がツイッターに書き込んだ「アベノマスク」に対するコメントをめぐって、いろいろな反応があったという。強引な官邸リーダーシップによって「数さえ揃えばよい」と云うわけでブローカーにまで発注して搔き集めつつある今回配布のマスク(千葉県にはまだ10万円配布はもとより、マスクのマの字も聞こえてこない、一向に届く気配がないが)は、「何でも官邸団」の側近官僚による発案がもとで生まれ、「布マスクを配布すれば、国民の不安なんてパッと消えますよ。」という進言が結実したものであるらしい。移ろいやすい「心の花」は、あっという間にカビの生えた実を結んだのである。「だが、四月十七日以降、アベノマスクが各家庭に届き始めると不安がパッと消えるところか、怒りにボッと火が付いた。」(『週刊文春』「コロナ列島総力取材-アベノマスク検証」)この前後、ネットの書き込みを見て、ユースビオなる業者が話題になっていることを知って、かなり関心を持たされていたので、この予告編をラジオで聞き、また中国政府によって抹殺されかけた都市封鎖前後の武漢中心病院の医師のルポルタージュを読みたくて、発売の30日を待って『文藝春秋』と『週刊文春』を入手した。そんな中で、この書き込みも「炎上」していることを知ったわけである。「人間だから間違えや失敗は誰にでもあるだろう。一生懸命やった結果だったら人はいつか許してくれるかもしれない。でも汚らしい嘘や狡(ずる)は絶対に許されない。」「カビだらけのマスクはその汚らしさを具現化したように見えて仕方がない。」というツイート(呟き)がマスクに対して発せられた。誰がつぶやいても採り上げられるはずはないが、著名人の言葉だけにニュースバリューはあったのである。しかし、誰が発しても良い声だと思った。誰かが叫んでくれるのを待っていた、という感じがあった。私はこれを見て、厚生労働省からマスク発注先の情報を引き出した社民党の女性党首の行動に思わず快哉を叫んだと同じ気持ちで、何よりもまず、「おお、やった。」といささか胸がスッとした。ドイツのメルケル首相の一連のコロナ対処といい、東京都知事の奮闘ぶりといい、こういう非常時に活躍できる女性の多いことに感心し、また彼らの行動に一切の打算と嘘を感じなかったのである。森友文書は当時関心の埒外だったが、花見の会の文書堙滅以来、国民をなめきった露骨なまでの「汚らしい嘘やズル」にはまったく辟易していた。
これに対して、昨日「小泉今日子ら芸能人の“政権批判”が、どこか空虚な理由」と題する雑誌記者の論評が出、これが賛否両論を捲き起こした。最初期の一二の書き込みをみて、すでに個人攻撃と記者への批判が並んでいるのに気づいた。記者は芸能人も政治の話題に「もっと積極的にコミットしたらいいと思う。」と断わってはいるが、普段政治の議論をしたこともないノンポリ芸能人がこうした辛辣な批判を行うことは「それまでのノンポリな姿勢と、今回の言葉の強さ(「汚らわしい嘘や狡」)のギャップに戸惑ってしまう」といい「いきなりどうしたの?」とその唐突さに引いてしまったという。その印象の上に「悪目立ち」ともいい、「『汚れた』内閣の代わりとなるべき、望ましい権力の絵図を描けないままに、政権を“口撃”することで心のモヤモヤを解消している欺瞞」とまで言い切る論調に、私はかえって驚いた。これは「欺瞞」なのか。政治的発言をするのなら、支持する政党や政治家を挙げて、それらを応援する歌でも歌ったらもっと説得力があるだろう、と散々なこき下ろし方をした記事は、驚きの連続だった。政治を論じるなら政治家、経済を論じるなら経済人・財界人、文学を論じるなら作家か文芸評論家が大学文学部の教授、という論法である。「ネトウヨ発言」という指摘もすでに出ていたが、お前の叫びなど一顧の価値もないという姿勢に知的粉飾を凝らした文章の運び方そのものに呆れてしまった。600以上の書き込みは、流し読みをした程度だが、いつもながら喧喧諤諤、おのがじし言いたい放題出放題という印象で、中にこれまたいつものように「タメにする」発言の類も多かった。しかし、冷静な分析も論者の主張からすれば有望なコメントの筆頭だろうが、果たしてこれは反論なのかという疑問に対する明快な回答はあまり見出せなかった。こういうとき女性の言は独特の強さを持つ。女性の筆とおぼしきある書き込みにこうあった。「小泉今日子さんの立場、政権構想がわからなくても、このツイートについて意見は持てますけど。あなたは持てないんですね。なんかかわいそうだね。なんでそんなこと気になるの? それ知らないとこのツイートをどう受け取ったらいいかわからないんだよね。なんかかわいそう…」正しく感情的な発言なのだが、力は十分だ。着眼もピントが合っていると思った。私も当該記事を通読したとき、「なんでそんなこと(=政権構想の有無、立ち位置の表明)気になるの?」という思いがあり、酒の席で人に絡む政治青年の一見真面目そうに見える「上から目線」(これは最初の頃見た他のコメントにあった言葉。これを見たとき、この指摘がいいと思っていたのだが、今回見直した時には見つけられなかった。)のイヤらしさをはっきりと感じた。最後の「歌でも歌え。」に至っては、酒の勢いでクダをまいた陋劣ささえ漂っている。野次と罵声のソフィスティケーションである。下品な文章だと思った。
物事の入口は「ことば」である、と私は考えている。これは自己流の第二の命題だ。いずれどこかでそれは書くとして、もう少し第一の「保守性」にこだわって進めると、「汚らしい」という受け止め方に私は引かれたのである。「清き明き」心、「清明」を重視する伝統的な感性は、こんな「ことば」がひょいと飛び出すところにその種子の在り処を垣間見せている。私が外国に暮らしているのでなく、国際社会に変貌しつつあるとはいえ日本に住んで人の文章を読んでいるのだ、人の言葉を聞いているのだと思う瞬間である。話し手・書き手の立ち位置やまして政治思想を知らなければ共感も理解もできないという、そういうことば尻の問題ではない、もっと自然な、出かけるのに体が道を覚えているという根本的な感じである。論理をナミすることは多くの場合、無論危険である。それをわきまえておくのはごく当然のこととして、叫びは近代短歌のみならず、文芸の基本であろう。むろん叫び一つでも千差万別である。日本人の中には、何はともかく頑張っている人を応援する楽観性や、すでに大方が決めたことには理屈はともあれ従うしかないという事大主義なども、それぞれにそれなりの伝統を持っているはずである。そういう書き込みも多々あった。もっと軽率なレベルでは、みんなが拍手してくれそうなところに話しを落として一座をまとめようとする親分志向やとにかく注目してもらいたい幇間根性もそれ自身の歴史を持っているにちがいない。しかしながら、そうした衝動や目論見の類とは根本的に異なる衝動がある。それこそ(花見の例は少し汚い感じが出てしまったので控える。)満月が昇ればそれに目をやってしまうような類の自然さがこの伝統の深さである。
自然から切り離されがちな現代文明は、感性が鈍くなる一方だ。今回のコメントの中にも「偏差値の低い」芸能人のすることだ、という差別的な言動があった。(アベノマスクも「差別語」だとする声高に議論をする人があるが、確かに揶揄の意味はあるとして、その背景を想像もせず差別語の議論を逆手にとって封じ込めにかかる底意がこれまたイヤらしい類のものだ。)高校教育が共通一次に奉仕する制度が固まってから、大学・高等学校の序列化が進み、偏差値が人間を判断する重要な規準の位置にまで舞い上がり、登り詰めた。いろいろな意味で「勘違い」をする人間が多くなったと思う。間違いや気狂いはいつの世にも絶滅することがなく、それこそ「浜の真砂」以上に根を張っているが、年々増加の一途を辿っているのがいろいろな場面で活躍している「勘違い」の手合いである。日本人は運動好きなネアカの民族なので体育と知育には欠けるところがあまり無いとして、徳育については完全に忘れ去って、というか教育の埒外に閉め出してきたのである。あるいはペーパーテストの答えに依存させて、無限の答えをもつ自然を謙虚に見詰めることを忘れ去ってきたのである。自然をしっかりと見詰めて育った子どもは、生きものとしての基本ができている。ゲームに興じ過ぎれば、スマホばかり触っていては、人生の貴重な機会を見す見すやり過ごしてしまうことになる。誰もが皮膚感覚でその問題性を感じる力が、今の時代には幸いまだ残っているはずである。知識基盤偏重主義を推進し続けることは遠からず崖にさしかかる。道徳性と「偏差値」は、どうも並行しないのではあるまいか、という疑念を持たされる機会がかなりある。日本の大学の頂点に君臨し続けている大学も、世界ランキングでは30番以下なのだから、最近では海外の大学への留学を買ってでも箔付けをするのに余念のない良家はいくらでもあるだろう。英語がしゃべれなくても、もしかするとアメリカの著名大学くらい卒業できるのではないか、と思えるようなニュースもあった。金箔を身にまとって金色燦然と各界に出て要職に就く。「実事求是」という奴ででもあろうか。何が社会でモノを言うか、今は三歳の子どもでも直感できるようになった。これは紛うかたなき「勘違い」の例なのであるが、「アベノマスク」もその例だ。マスクは「海賊」のしわざと叫ぶべき事態を隠し続け、勇気ある諸外国に決定的に遅れをとりながら、世論の封じ込めに掛かったのも、それぞれの「勘違い」どもによる不体裁な弥縫策に他ならない。コロナはこういう社会の行く先をも垣間見せているではないか。しかし、綻びを見詰めて、経済の自立化に向かって本質的な策を巡らさなければ、いつまで経っても同じ轍を踏む。ウィルス対策と共通して、まずは国政の風通しをよくすることが必要だ。ひと握りの勘違いどもに重大な決定権を与えるべきではない。それぞれが権力奪取のゲームに興じるのでなく、庶民のように「ふつうにまじめに仕事をする」ことを努める。いかに上手く立ち回っても、人は「ことば」によって己みずからを表す。これまで上から下に水を下すことに専念し、横の風通しを良くする工夫を忘れていた。怠慢を醸成しすぎていた。官僚機構の「あり方」を変えることが必要だ。長い間に醸成されたヨドミから発する悪臭、ことばと行為の不整合によって露呈し続けた「汚らしさ」を国民がずっと感じていればこそ、まだ見ぬマスクも写真で下半分が黒カビで覆われておれば、「それ見たことか。」と思うのに、政治的立場はとりあえず必要ではない。
〔石鹸・消毒液・ウェットティッシュの高騰〕
大体定価の10倍近い価格で有名なサイトに載っていた。
(どれも今日収集してみた画像である。)
〔補足〕 「汚らしい嘘や狡」は、その後のネットニュースなどを見ると、検事総長の定年延長問題等を主に指すらしかった。これには450万以上のツイートがあったとかいう。自分はこの間、マスク発注の「ウラ」事情を知って少からぬ関心をかき立てられ、自分なりに「汚らしい嘘や狡」を感じていた矢先であったためか、この文脈から離れることがなかった。見聞は広いに越したことはない。ただし、本質論的には主張を改める必要を一向に感じなかった。それよりも、こうした駄文でも書いておくとそれなりの収穫があり、『孟子』の一節が「すんなりと」、というか「パッと」に対して「ボッと」なっていたおかげで「スッと」心に入ってきた。そのことを取りあえず次の記事にしておきたくなった。(5.12追記)
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- 「曰、難言也。」「何謂知言?」(『孟子』公孫丑章句上篇)