孟子
公孫丑章句 下
(
1)
孟子曰
ク、天
ノ時ハ不
レ如カ二地
ノ利ニ一、地
ノ利
ハ不
レ如
カ二人
ノ和ニ一。
三里ノ之
城、
七里ノ之
郭モ、
環リテ而
攻ムルニレ之
ヲ而不
ルコトアリレ勝タ。
夫レ環
リテ而攻
ムルニレ之
ヲ、
必ズ有
ラン下得ルコト二天
ノ時
ヲ一者
上矣。
然リ而シテ不
ルレ勝
タ者
ハ、
是レ天
ノ時
ハ不
レバナリレ如カ二地
ノ利
ニ一也。城
非ズレ不
ルニレ高カラ也、
池非
ズレ不
ルニレ深カラ也、
兵革非
ズレ不
ルニ二堅利ナラ一也、
米粟非
ザルモレ不
ルニレ多カラ也、
委テヽ而
去ルハレ之
ヲ、
是レ地
ノ利
モ不
レバナリレ如
カ二人
ノ和
ニ一也。
故ニ曰ク、
域ルハレ民ヲ不
レ以テセ二封疆ノ之
界ヲ一、
固ムルハレ國ヲ不
レ以
テセ二山溪ノ之
險ヲ一、
威スハ二天下
ヲ一不
トレ以
テセ二兵革ノ之
利ヲ一。
得ルレ道
ヲ者
ハ多クレ助ケ、
失フレ道
ヲ者
ハ寡シレ助
ケ。寡
キノレ助
ケ之
至リハ、
親戚モ畔キレ之
ニ、多
キノレ助
ケ之至
リハ、天下
モ順フレ之
ニ。以
テ二天下
ノ之
所ヲ一レ順
フ、
攻ム二親戚
ノ之所
ヲ一レ畔
ク。故
ニ君子ハ有
ルモレ不
ルコトレ戰ハ、戰
ヘバ必
ズ勝
ツ矣
ト。
孟子曰、天時不如地利、地利不如人和。三里之城、七里之郭、環而攻之而不勝。夫環而攻之、必有得天時者矣。然而不勝者、是天時不如地利也。城非不高也、池非不深也、兵革非不堅利也、米粟非不多也、委而去之、是地利不如人和也。
故曰、域民不以封疆之界、固國不以山溪之險、威天下不以兵革之利。得道者多助、失道者寡助。寡助之至、親戚畔之、多助之至、天下順之。以天下之所順、攻親戚之所畔。故君子有不戰、戰必勝矣。
孟子曰く、天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。三里の城、七里の郭も、環りて之を攻むるに勝たざることあり。夫れ環りて之を攻むるに、必ず天の時を得ること者有らん。然り而して勝たざる者は、是れ天の時は地の利に如かざればなり。城高からざるに非ず、池深からざるに非ず、兵革堅利ならざるに非ず、米粟多からざるに非ざるも、委てゝ之を去るは、是れ地の利も人の和に如かざればなり。
故に曰く、民を域るは封疆の界を以てせず、國を固むるは山溪の險を以てせず、天下を威すは兵革の利を以てせずと。道を得る者は助け多く、道を失ふ者は助け寡し。助け寡きの至りは、親戚も之に畔き、助け多きの至りは、天下も之に順ふ。天下の順ふ所を以て、親戚の畔く所を攻む。故に君子は戰はざること有るも、戰へば必ず勝つと。
(
2)
孟子
將ニレ朝セントレ王ニ。王
使メテ二人
ヲシテ來ラ一曰ク、
寡人如ニキ 二就キテ見フ一者
ナルモ也、有
リ二寒疾一、不
レ可
カラ二以
テ風ス一。
朝將ニレ視ントレ朝
ヲ。不
レ識ラ、可
キカレ使
ム二寡人
ヲシテ得一レ見
フヲ乎
ト。
對ヘテ曰
ク、
不幸ニシテ而有
リレ疾、不
トレ能ハレ造ルレ朝ニ。
明
クル日、
出デヽ弔セントス二於
東郭氏ヲ一。
公孫丑曰ク、
昔者辭スルニ以テスルニレ病ヲ、
今日ハ弔セントス。
或ハ者
不可ナランカ乎
ト。
曰
ク、
昔者疾ミシモ、今日
ハ愈エタリ。
如レ之ヲ何ゾ不
ランヤトレ弔
セ。
王
使ム二人
ヲシテ問
ヒレ疾ヲ醫ヲシテ來ラ一。
孟仲子對ヘテ曰ク、
昔者有
リシニ二王命一、有
リテ二采薪ノ之
憂ヒ一、不
レ能ハレ造ルレ朝ニ。今
病少シク癒エ、
趨リテ造
ル二於朝
ニ一。我
ハ不
レ識ラ、
能ク至ルヤ否ヤ乎
ヲト。
使メテ三數人ヲシテ要セ二於
路ニ一曰
ク、
請フ必
ズ無
クシテレ歸ルコト而
造レト二於
朝ニ一。
不
シテレ得レ已ムヲ而
之キテ二景丑氏ニ一宿レリ焉。
景子曰
ク、
内ハ則チ父子、
外ハ則
チ君臣ハ、人
ノ之
大倫ナリ也。父子
ハ主トシレ恩ヲ、君臣
ハ主
トスレ敬ヲ。
丑ハ見
ルモ二王
ノ之
敬スルヲ一レ子ヲ也、
未ダレ見
三所-二以ヲ敬
スル一レ王
ヲ也
ト。
曰
ク、
惡、
是レ何ノ言ゾヤ也。
齊人ハ無
シ下以
テ二仁義ヲ一與レ王
言フ者
上。
豈ニ以
テ二仁義
ヲ一爲スカレ不
トレ美ナラ也。
其ノ心
ニ曰
ク、
是レ何ゾ足ランヤ三與ニ言フニ二仁義
ヲ一也
ト云フレ爾。
則チ不敬ナルコト莫シレ大ナルハ二乎
是ヨリモ一。我
ハ非ズンバ二堯舜ノ之道
ニ一、不
三敢ヘテ以
テ陳ベ二於王
ノ前ニ一。
故ニ齊人
ハ莫キナリレ如クハ二我
ガ敬スルニ一レ王
ヲ也
ト。
景子曰
ク、
否、
非ズ二此ノ之
謂ヒニ一也。
禮ニ曰
ク、父
召セバ無
クレ諾スルコト、
君命
ジテ召
セバ不
トレ俟タレ駕スルヲ。
固ヨリ將ニルモ レ朝セント也、聞
キテ二王命
ヲ一而
遂ニ不
レ果タサ。
宜シクシト 下與二夫ノ禮一若クレ不
ルガ二相似一然ル上。
曰
ク、
豈ニ謂ハンヤレ是レヲ與。
曾子曰
ク、
晉・
楚ノ之
富ハ不
ルモレ可
カラレ及ブ也、
彼レ以
テセバ二其
ノ富
ヲ一、
我ハ以
テシ二吾ガ仁ヲ一、彼
レ以
テセバ二其
ノ爵ヲ一、我
ハ以
テセン二吾
ガ義ヲ一。
吾何ゾ慊ミンヤ乎哉
ト。
夫レ豈ニ不義ニシテ而曾子
言ハンヤレ之
ヲ。
是レ或ルナリ二一道一也。天下
ニ有
リ二達ツテ尊キモノ三ツ一。
爵一ツ、
齒一
ツ、
コ一
ツナリ。
朝廷ハ莫クレ如クハレ爵ニ、
郷黨ハ莫
クレ如
クハレ齒
ニ、
輔ケレ世
ヲ長タルハレ民ニ莫
シレ如
クハレコ
ニ。
惡クンゾ得ンヤ下有テバトテ二其ノ一
ツヲ一以
テ慢ルコトヲ中其
ノ二ツニ上哉。
故ニ將ニル 二大ニ有
ラント一レ爲スコト之君
ハ、必
ズ有
リ二所
ノレ不
ルレ召サ之
臣一。
欲セバレ有
ラントレ謀ルトコロ焉、
則チ就クレ之ニ。其
ノ尊
ビレコ
ヲ樂
シムコトレ道
ヲ不
ンバレ如クナラレ是クノ、不
ルナリレ足ラ二與ニ有ルニ一レ爲スコト也。
故
ニ湯ノ之
於ケル二伊尹ニ一、
學ビテ焉
而ル後ニ臣トスルガレ之
ヲ、
故ニ不
シテレ勞セ而
王タリ。
桓公ノ之於
ケルモ二管仲ニ一、學
ビテ焉而
ル後
ニ臣
トスルガレ之
ヲ、故
ニ不
シテレ勞
セ而
覇タリ。今天下
ハ地醜シクコ齊シク、
莫キハ二能ク相尚ルモノ一無
シレ他、
好メドモレ臣
トスルヲ二其
ノ所
ヲ一レヘフル、而不
レバナリレ好
マレ臣
トスルヲ二其
ノ所
ヲ一レ受クルレヘ
ヘヲ。湯
ノ之於
ケル二伊尹
ニ一、桓公
ノ之於
ケルハ二管仲
ニ一、
則チ不
二敢ヘテ召サ一。管仲
スラ且ツ猶ホ不
レ可
カラレ召
ス、
而ルヲ況ンヤ不
ルレ爲ラ二管仲
一者
ヲヤ乎
ト。
孟子將朝王。王使人來曰、寡人如就見者也、有寒疾、不可以風。朝將視朝。不識、可使寡人得見乎。
對曰、不幸而有疾、不能造朝。
明日、出弔於東郭氏。公孫丑曰、昔者辭以病、今日弔。或者不可乎。
曰、昔者疾、今日愈。如之何不弔。
王使人問疾醫來。孟仲子對曰、昔者有王命、有采薪之憂、不能造朝。今病少癒、趨造於朝。我不識、能至否乎。使數人要於路曰、請必無歸而造於朝。
不得已而之景丑氏宿焉。景子曰、内則父子、外則君臣、人之大倫也。父子主恩、君臣主敬。丑見王之敬子也、未見所以敬王也。
曰、惡、是何言也。齊人無以仁義與王言者。豈以仁義爲不美也。其心曰、是何足與言仁義也云爾。則不敬莫大乎是。我非堯舜之道、不敢以陳於王前。故齊人莫如我敬王也。
景子曰、否、非此之謂也。禮曰、父召無諾、君命召不俟駕。固將朝也、聞王命而遂不果。宜與夫禮若不相似然。
曰、豈謂是與。曾子曰、晉・楚之富不可及也、彼以其富、我以吾仁、彼以其爵、我以吾義。吾何慊乎哉。夫豈不義而曾子言之。是或一道也。天下有達尊三。爵一、齒一、コ一。朝廷莫如爵、郷黨莫如齒、輔世長民莫如コ。惡得有其一以慢其二哉。故將大有爲之君、必有所不召之臣。欲有謀焉、則就之。其尊コ樂道不如是、不足與有爲也。
故湯之於伊尹、學焉而後臣之、故不勞而王。桓公之於管仲、學焉而後臣之、故不勞而覇。今天下地醜コ齊、莫能相尚無他、好臣其所ヘ、而不好臣其所受ヘ。湯之於伊尹、桓公之於管仲、則不敢召。管仲且猶不可召、而況不爲管仲者乎。
孟子將に王に朝せんとす。王人をして來らしめて曰く、寡人如に就きて見ふべき者なるも、寒疾有り、以て風すべからず。朝將に朝を視んとす。識らず、寡人をして見ふを得しむべきかと。
對へて曰く、不幸にして疾有り、朝に造る能はずと。
明くる日、出でゝ東郭氏を弔せんとす。公孫丑曰く、昔者辭するに病を以てするに、今日は弔せんとす。或は不可ならんかと。
曰く、昔者疾みしも、今日は愈えたり。之を如何ぞ弔せざらんやと。
王人をして疾を問ひ醫をして來らしむ。孟仲子對へて曰く、昔者王命有りしに、采薪の憂ひ有りて、朝に造る能はず。今病少しく癒え、趨りて朝に造る。我は識らず、能く至るや否やをと。數人をして路に要せしめて曰く、請ふ必ず歸ること無くして朝に造れと。
已むを得ずして景丑氏に之きて宿れり。景子曰く、内は則ち父子、外は則ち君臣は、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす。丑は王の子を敬するを見るも、未だ王を敬する所以を見ずと。
曰く、惡、是れ何の言ぞや。齊人は仁義を以て王と言ふ者無し。豈に仁義を以て美ならずと爲すか。其の心に曰く、是れ何ぞ與に仁義を言ふに足らんやと爾云ふ。則ち不敬なること是よりも大なるは莫し。我は堯舜の道に非ずんば、敢へて以て王の前に陳べず。故に齊人は我が王を敬するに如くは莫きなりと。
景子曰く、否、此の謂ひに非ず。禮に曰く、父召せば諾すること無く、君命じて召せば駕するを俟たずと。固より將に朝せんとするも、王命を聞きて遂に果たさず。宜しく夫の禮と相似ざるがごとく然るべしと。
曰く、豈に是れを謂はんや。曾子曰く、晉・楚の富は及ぶべからざるも、彼れ其の富を以てせば、我は吾が仁を以てし、彼れ其の爵を以てせば、我は吾が義を以てせん。吾何ぞ慊みんやと。夫れ豈に不義にして曾子之を言はんや。是れ一道或るなり。天下に達つて尊きもの三つ有り。爵一つ、齒一つ、コ一つなり。朝廷は爵に如くは莫く、郷黨は齒に如くは莫く、世を輔け民に長たるはコに如くは莫し。惡くんぞ其の一つを有てばとて以て其の二つに慢ることを得んや。故に將に大に爲すこと有らんとする之君は、必ず召さざる所の臣有り。謀るところ有らんと欲せば、則ち之に就く。其のコを尊び道を樂しむこと是くのごとくならずんば、與に爲すこと有るに足らざるなり。
故に湯の伊尹に於ける、學びて而る後に之を臣とするが、故に勞せずして王たり。桓公の管仲に於けるも、學びて而る後に之を臣とするが、故に勞せずして覇たり。今天下は地醜しくコ齊しく、能く相尚るもの莫きは他無し、其のヘふる所を臣とするを好めども、其のヘへを受くる所を臣とするを好まざればなり。湯の伊尹に於ける、桓公の管仲に於けるは、則ち敢へて召さず。管仲すら且つ猶ほ召すべからず、而るを況んや管仲たらざる者をやと。
(
3)
陳臻問
ウテ曰
ク、
前日於テレ齊ニ、王
餽レドモ二兼金一百ヲ一而不
レ受ケ、於
テハレ宋ニ、餽
リテ二七十鎰ヲ一而受
ケ、於
テハレ薛ニ、餽
リテ二五十鎰
ヲ一而受
ク。前日
ノ之不
ルガレ受
ケ是ナラバ、
則チ今日ノ之受
クルハ非ニシテ也、今日
ノ之受
クルガ是
ナラバ、則
チ前日
ノ之不
ルハレ受
ケ非
ナリ也。
夫子必
ズ居ラン二一ニ於
此ニ一矣
ト。
孟子曰
ク、
皆是
ナリ也。
當ツテハレ在ルニレ宋
ニ也、
予將ニレ有
ラント二遠行一。
行ク者
ニハ必
ズ以テスレ贐ヲ。
辭ニ曰
ク、餽
ルトレ贐
ヲ。予
何爲レゾ不
ランレ受
ケ。當
ツテハレ在
ルニレ薛
ニ也、予有
リ二戒心一。辭
ニ曰
ク、聞
クレ戒アリト。故
ニ爲メニレ兵ノ餽
ルトレ之
ヲ。予何爲
レゾ不
ランレ受
ケ。
若キハレ於
ケルガレ齊
ニ、則
チ未ダレ有
ラレ處スルコト也。無
キニレ處
スルコト而餽
ルハレ之
ヲ、
是レ貨スルナリレ之
ニ也。
焉クンゾ有
ランヤ三君子ニシテ而可
キモノ二以テレ貨
ヲ取ラル一乎
ト。
陳臻問曰、前日於齊、王餽兼金一百而不受、於宋、餽七十鎰而受、於薛、餽五十鎰而受。前日之不受是、則今日之受非也、今日之受是、則前日之不受非也。夫子必居一於此矣。
孟子曰、皆是也。當在宋也、予將有遠行。行者必以贐。辭曰、餽贐。予何爲不受。當在薛也、予有戒心。辭曰、聞戒。故爲兵餽之。予何爲不受。若於齊、則未有處也。無處而餽之、是貨之也。焉有君子而可以貨取乎。
陳臻問うて曰く、前日齊に於て、王兼金一百を餽れども受けず、宋に於ては、七十鎰を餽りて受け、薛に於ては、五十鎰を餽りて受く。前日の受けざるが是ならば、則ち今日の受くるは非にして、今日の受くるが是ならば、則ち前日の受けざるは非なり。夫子必ず一に此に居らんと。
孟子曰く、皆是なり。宋に在るに當つては、予將に遠行有らんとす。行く者には必ず贐を以てす。辭に曰く、贐を餽ると。予何爲れぞ受けざらん。薛に在るに當つては、予戒心有り。辭に曰く、戒ありと聞く。故に兵の爲めに之を餽ると。予何爲れぞ受けざらん。齊に於けるがごときは、則ち未だ處すること有らず。處すること無きに之を餽るは、是れ之に貨するなり也。焉くんぞ君子にして貨を以て取らるべきもの有らんやと。
(
4)
孟子
之キ二平陸ニ一、
謂ツテ二其ノ大夫ニ一曰
ク、
子ノ之
持戟ノ之
士、
一日ニシテ而
三タビ失ハヾレ伍ヲ、
則チ去クヤレ之
ヲ否ヤ乎
ト。曰
ク、不
トレ待タレ三
タビヲ。
然ラバ則
チ子
ノ之失
フヤレ伍
ヲ也、
亦多
シ矣。
凶年饑歳ニ子ノ之
民、
老羸ハ轉ジ二於
溝壑ニ一、
壯者ノ散ジテ而
之ク二四方ニ一者
ハ幾千人ナリ矣
ト。曰
ク、
此レ非ザルナリ二距心ノ之所
ニ一レ得ルレ爲スヲ也
ト。
曰
ク、今有
ラバ下受ケテ二人
ノ之
牛羊ヲ一、而
爲メニレ之ガ牧スルレ之
ヲ者
上、則
チ必
ズ爲メニレ之
ガ求メン二牧ト與
ヲ一レ芻矣。求
メテ二牧
ト與
ヲ一レ芻而不
ンバレ得、則
チ反サンカ二ゥヲ其
ノ人
ニ一乎。
抑モ亦立チテ而
視ンカ二其
ノ死
スルヲ一與
ト。曰
ク、
此レ則
チ距心
ノ之
罪ナリ也
ト。
他日見エテ二於王
ニ一曰
ク、王
ノ之
爲ムルレキヲ者、
臣知
レリ二五人ヲ一焉。知
ル二其
ノ罪
ヲ一者
ハ、
惟ダ孔距心ノミト。
爲メニレ王
ノ誦スレ之
ヲ。王曰
ク、此
レ則
チ寡人ノ之罪
ナリ也
ト。
孟子之平陸、謂其大夫曰、子之持戟之士、一日而三失伍、則去之否乎。曰、不待三。然則子之失伍也、亦多矣。凶年饑歳子之民、老羸轉於溝壑、壯者散而之四方者幾千人矣。曰、此非距心之所得爲也。
曰、今有受人之牛羊、而爲之牧之者、則必爲之求牧與芻矣。求牧與芻而不得、則反ゥ其人乎。抑亦立而視其死與。曰、此則距心之罪也。
他日見於王曰、王之爲キ者、臣知五人焉。知其罪者、惟孔距心。爲王誦之。王曰、此則寡人之罪也。
孟子平陸に之き、其の大夫に謂つて曰く、子の持戟の士、一日にして三たび伍を失はゞ、則ち之を去くや否やと。曰く、三たびを待たずと。然らば則ち子の伍を失ふや、亦多し。凶年饑歳に子の民、老羸は溝壑に轉じ、壯者の散じて四方に之く者は幾千人なりと。曰く、此れ距心の爲すを得る所に非ざるなりと。
曰く、今人の牛羊を受けて、之が爲めに之を牧する者有らば、則ち必ず之が爲めに牧と芻とを求めん。牧と芻とを求めて得ずんば、則ちゥを其の人に反さんか。抑も亦立ちて其の死するを視んかと。曰く、此れ則ち距心の罪なりと。
他日王に見えて曰く、王のキを爲むる者、臣五人を知れり。其の罪を知る者は、惟だ孔距心のみと。王の爲めに之を誦す。王曰く、此れ則ち寡人の罪なりと。
(
5)
孟子
謂ツテ二蚳鼃ニ一曰
ク、
子ノ之
辭シテ二靈丘ヲ一而
請ヘルハ二士師ヲ一、
似シ四也爲スガ三其
ノ可
キヲ二以
テ言フ一也。今
既ニ數月ナルニ矣、
未ダルカ レ可
カラ二以
テ言
フ一與
ト。
蚳鼃
諫ムレドモ二於王
ヲ一而不
レ用ヰラレ、
致シテレ爲ルヲレ臣而
去ル。
齊人曰
ク、
所-三以ハ爲メニスル二蚳鼃
ノ一、
則チ善シ矣。所
-二以
ハ自ラノ爲
メニスル一、則
チ吾不
ルナリレ知
ラ也
ト。
公キ子以
テ告グ。
曰
ク、
吾聞
ケリレ之
ヲ也、有
ル二官守一者
ハ、不
レバレ得二其
ノ職ヲ一則
チ去
リ、有
ル二言責一者
ハ、不
レバレ得
二其
ノ言ヲ一則
チ去
ルト。我
ニハ無
ク二官守
モ一、我
ニハ無
シ二言責
モ一也。則
チ吾ガ進退ハ豈ニ不
ヤ三綽綽然トシテ有
ラ二餘裕一哉
ト。
孟子謂蚳鼃曰、子之辭靈丘而請士師、似也爲其可以言也。今既數月矣、未可以言與。
蚳鼃諫於王而不用、致爲臣而去。
齊人曰、所以爲蚳鼃、則善矣。所以自爲、則吾不知也。公キ子以告。
曰、吾聞之也、有官守者、不得其職則去、有言責者、不得其言則去。我無官守、我無言責也。則吾進退豈不綽綽然有餘裕哉。
孟子蚳鼃に謂つて曰く、子の靈丘を辭して士師を請へるは、也其の以て言ふべきを爲すが似し。今既に數月なるに、未だ以て言ふべからざるかと。
蚳鼃王を諫むれども用ゐられず、臣たるを致して去る。
齊人曰く、蚳鼃の爲めにする所以は、則ち善し。自らの爲めにする所以は、則ち吾知らざるなりと。公キ子以て告ぐ。
曰く、吾之を聞けり、官守有る者は、其の職を得ざれば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ざれば則ち去ると。我には官守も無く、我には言責も無し。則ち吾が進退は豈に綽綽然として餘裕有らずやと。
(
6)
孟子
爲リレ卿ト二於
齊ニ一、
出デヽ弔ス二於
滕ニ一。王
使ム三蓋ノ大夫王驩ヲシテ爲ラ二輔行一。王驩
朝暮ニ見ユレドモ、
反ルマデ二齊・滕
ノ之
路ヲ一、
未ダリキ 三嘗テ與レ之言
ハ二行事ヲ一也。
公孫丑曰
ク、齊
ノ卿
ノ之
位ハ不
レ爲サレ小シト矣。齊・滕
ノ之路
ハ不
レ爲
サレ近
シト矣。
反ルニレ之
ヲ而未
ダルハ 三嘗
テ與ニ言
ハ二行事
ヲ一、
何ゾヤ也
ト。
曰
ク、
夫レ既ニ或ルニレ治ムルモノレ之
ヲ、
予何ヲカ言ハンヤ哉
ト。
孟子爲卿於齊、出弔於滕。王使蓋大夫王驩爲輔行。王驩朝暮見、反齊・滕之路、未嘗與之言行事也。
公孫丑曰、齊卿之位不爲小矣。齊・滕之路不爲近矣。反之而未嘗與言行事、何也。
曰、夫既或治之、予何言哉。
孟子齊に卿と爲り、出でゝ滕に弔す。王蓋の大夫王驩をして輔行たらしむ。王驩朝暮に見ゆれども、齊・滕の路を反るまで、未だ嘗て之と行事を言はざりき。
公孫丑曰く、齊の卿の位は小しと爲さず。齊・滕の路は近しと爲さず。之を反るに未だ嘗て與に行事を言はざるは、何ぞやと。
曰く、夫れ既に之を治むるもの或るに、予何をか言はんやと。
(
7)
孟子
自リレ齊葬リ二於
魯ニ一、
反ルニ二於
齊ニ一、
止マル二於
嬴ニ一。
充虞請ウテ曰ク、
前日不
レ知
ラ二虞ノ之
不肖ナルヲ一、
使ム三虞
ヲシテ敦メ二匠事ヲ一。
嚴リテ虞不
リシガ二敢ヘテ請
ハ一、今
願ハクハ竊カニ有
ランレ請
フコト也。木
若ク二以ニ美ナルガ一然リト。
曰
ク、
古者ハ棺椁ニ無
シレ度。
中古ハ棺
七寸、椁
稱フレ之ニ。
自リ二天子一達ブ二於
庶人ニ一。
非ズ三直ニ爲スノミニ二觀ノ美
ヲ一也、
然ル後ニ盡セバナリ二於人
ノ心
ヲ一。不
レバレ得、不
レ可
カラ二以
テ爲
ス一レ悦ビヲ、無
ケレバレ財、不
レ可
カラ二以
テ爲
ス一レ悦
ビヲ。得
テレ之
ヲ爲
サバレ有
リトレ財、
古ノ之人皆
用ヰタリレ之
ヲ。吾
何爲レゾ獨リ不
ランレ然セ。
比ブマデ二化スル者
ニ一、無
キハレ使ムルコト二土ヲシテ親カラ一レ膚ニ、
於テ二人
ノ心
ニ一獨リ無
カランヤレ恔キコト乎。
吾聞
ケリレ之
ヲ、
君子ハ不
ト下以
テ二天下
ヲ一儉クセ中其
ノ親ニ上。
孟子自齊葬於魯、反於齊、止於嬴。充虞請曰、前日不知虞之不肖、使虞敦匠事。嚴虞不敢請、今願竊有請也。木若以美然。
曰、古者棺椁無度。中古棺七寸、椁稱之。自天子達於庶人。非直爲觀美也、然後盡於人心。不得、不可以爲悦、無財、不可以爲悦。得之爲有財、古之人皆用之。吾何爲獨不然。比化者、無使土親膚、於人心獨無恔乎。吾聞之、君子不以天下儉其親。
孟子齊より魯に葬り、齊に反るに、嬴に止まる。充虞請うて曰く、前日虞の不肖なるを知らず、虞をして匠事を敦めしむ。嚴りて虞敢へて請はざりしが、今願はくは竊かに請ふこと有らん。木以に美なるがごとく然りと。
曰く、古者は棺椁に度無し。中古は棺七寸、椁之に稱ふ。天子より庶人に達ぶ。直に觀の美を爲すのみに非ず、然る後に人の心を盡せばなり。得ざれば、以て悦びを爲すべからず、財無ければ、以て悦びを爲すべからず。之を得て財有りと爲さば、古の人皆之を用ゐたり。吾何爲れぞ獨り然せざらん。化する者に比ぶまで、土をして膚に親からしむること無きは、人の心に於て獨り恔きこと無からんや。吾之を聞けり、君子は天下を以て其の親に儉くせずと。
(
8)
沈同以
テ二其
ノ私ヲ一問
ウテ曰
ク、
燕ハ可
キカレ伐ツ與
ト。
孟子曰
ク、
可ナリ。
子噲ハ不
レ得
レ與フルコトヲ二人
ニ燕
ヲ一。
子之ハ不
レ得
レ受クルコトヲ二燕
ヲ於子噲
ニ一。有
リレ仕フルモノ二於
此ニ一。
而シテ子
悦ビレ之
ヲ、不
シテレ告ゲ二於
王ニ一而
私ニ與
ヘ二之
ニ吾子ノ之
祿爵ヲ一、
夫ノ士モ也、
亦無
クシテ二王命一而私
ニ受
ケバ二之
ヲ於
子ニ一、
則チ可
ナランヤ乎。
何ヲ以
テカ異ナラント二於
是レニ一。
齊人伐
ツレ燕
ヲ。
或ヒト問
ウテ曰
ク、
勸メテレ齊
ニ伐タシムトレ燕
ヲ。有
リヤトレゥ。
曰
ク、
未ダシ也。沈同問
フ、燕
ハ可
キカレ伐
ツ與
ト。吾
應ヘテレ之
ニ曰
ク、可
ナリト。彼
然リ而シテ伐テルナリレ之
ヲ也。彼
如シ曰ハヾ三孰カ可
キト二以テ伐
ツ一レ之
ヲ、
則チ將ニ二應
ヘテレ之ニ曰
ハント一、
爲ラバ二天吏一、則
チ可
シト二以
テ伐
ツ一レ之
ヲ。今有
リ二殺
スレ人
ヲ者
一。
或ヒト問
ウテレ之
ヲ曰
ク、人可
キカレ殺
ス與
ト。則
チ將
ニ二應
ヘテレ之
ニ曰
ハント一、可
ナリト。彼
如シ曰
ハヾ三孰カ可
キト二以
テ殺
ス一レ之
ヲ、則
チ將
ニ二應
ヘテレ之
ニ曰
ハント一、
爲ラバ二士師一、則
チ可
シト二以
テ殺
ス一レ之
ヲ。今以
テレ燕ヲ伐
ツレ燕
ヲ、
何爲レゾ勸メンヤレ之ヲ哉
ト。
沈同以其私問曰、燕可伐與。
孟子曰、可。子噲不得與人燕。子之不得受燕於子噲。有仕於此。而子悦之、不告於王而私與之吾子之祿爵、夫士也、亦無王命而私受之於子、則可乎。何以異於是。
齊人伐燕。或問曰、勸齊伐燕。有ゥ。
曰、未也。沈同問、燕可伐與。吾應之曰、可。彼然而伐之也。彼如曰孰可以伐之、則將應之曰、爲天吏、則可以伐之。今有殺人者。或問之曰、人可殺與。則將應之曰、可。彼如曰孰可以殺之、則將應之曰、爲士師、則可以殺之。今以燕伐燕、何爲勸之哉。
沈同其の私を以て問うて曰く、燕は伐つべきかと。
孟子曰く、可なり。子噲は人に燕を與ふることを得ず。子之は燕を子噲に受くることを得ず。此に仕ふるもの有り。而して子之を悦び、王に告げずして私に之に吾子の祿爵を與へ、夫の士も、亦王命無くして私に之を子に受けば、則ち可ならんや。何を以てか是れに異ならんと。
齊人燕を伐つ。或ひと問うて曰く、齊に勸めて燕を伐たしむと。ゥ有りやと。
曰く、未だし。沈同問ふ、燕は伐つべきかと。吾之に應へて曰く、可なりと。彼然り而して之を伐てるなり。彼如し孰か以て之を伐つべきと曰はゞ、則ち將に之に應へて曰はんとす、天吏爲らば、則ち以て之を伐つべしと。今人を殺す者有り。或ひと之を問うて曰く、人殺すべきかと。則ち將に之に應へて曰はんとす、可なりと。彼如し孰か以て之を殺すべきと曰はゞ、則ち將に之に應へて曰はんとす、士師爲らば、則ち以て之を殺すべしと。今燕を以て燕を伐つ、何爲れぞ之を勸めんやと。
(
9)
燕人畔ク。王曰
ク、吾
甚ダ慙ヅト二於
孟子ニ一。
陳賈曰
ク、王無
カレレ患フルコト焉。王
自ラ以
テ爲スカト下與二周公一孰レカ仁ニシテ且ツ智ナリト上。
王曰
ク、
惡、
是レ何ノ言ゾヤ也
ト。
曰
ク、周公
使メシニ二管叔ヲシテ監ラ一レ殷ヲ、管叔
以テレ殷
ヲ畔ケリ。知
リテ而
使ムレバレ之
ヲ、
是レ不仁ニシテ也、不
シテレ知
ラ而使
ムレバレ之
ヲ、是
レ不智ナリ也。
仁智ハ周公
スラ未ダルナリ 二之ヲ盡サ一也。
而ルヲ況ンヤ於テヲヤレ王
ニ乎。
賈請フ、
見ヒテ而
解カントレ之ヲ。
見ヒ二孟子
ニ一問
ウテ曰
ク、
周公ハ何人ゾヤ也
ト。
曰
ク、
古ノ聖人ナリ也
ト。
曰
ク、
使メタルニ二管叔ヲシテ監ラ一レ殷ヲ、管叔以
テレ殷
ヲ畔ケリ也
ト。有
リヤトレゥ。
曰
ク、
然リト。
曰
ク、周公
ハ知
リテ二其
ノ將ニルヲ 一レ畔
カント、而
使メタルカレ之ヲ與
ト。
曰
ク、不
ルナリレ知
ラ也
ト。
然ラバ則チ聖人
スラ且ツ有
ルカレ過ツコト與
ト。
曰
ク、周公
ハ弟ニシテ也、管叔
ハ兄ナリ也。周公
ノ之過
ツモ、不
ヤ二亦宜ナラ一乎。
且ツ古
ノ之君子
ハ、
過テバ則
チ改ムレ之
ヲ。今
ノ之君子
ハ、過
テバ則
チ順フレ之
ニ。古
ノ之君子
ハ、其
ノ過
ツヤ也、
如ク二日月ノ之
食スルガ一、
民皆見ルレ之ヲ。
及ビテヤ二其
ノ改ムルニ一也、民皆
仰グレ之
ヲ。今
ノ之君子
ハ、
豈ニ徒ニ順フノミナラズレ之
ニ、
又從ツテ爲スト二之
ガ辭ヲ一。
燕人畔。王曰、吾甚慙於孟子。
陳賈曰、王無患焉。王自以爲與周公孰仁且智。
王曰、惡、是何言也。
曰、周公使管叔監殷、管叔以殷畔。知而使之、是不仁也、不知而使之、是不智也。仁智周公未之盡也。而況於王乎。賈請、見而解之。
見孟子問曰、周公何人也。
曰、古聖人也。
曰、使管叔監殷、管叔以殷畔也。有ゥ。
曰、然。
曰、周公知其將畔、而使之與。
曰、不知也。
然則聖人且有過與。
曰、周公弟也、管叔兄也。周公之過、不亦宜乎。且古之君子、過則改之。今之君子、過則順之。古之君子、其過也、如日月之食、民皆見之。及其改也、民皆仰之。今之君子、豈徒順之、又從爲之辭。
燕人畔く。王曰く、吾甚だ孟子に慙づと。
陳賈曰く、王患ふること無かれ。王自ら以て周公と孰れか仁にして且つ智なりと爲すかと。
王曰く、惡、是れ何の言ぞやと。
曰く、周公管叔をして殷を監らしめしに、管叔殷を以て畔けり。知りて之を使むれば、是れ不仁にして、知らずして之をしむれば、是れ不智なり。仁智は周公すら未だ之を盡さざるなり。而るを況んや王に於てをや。賈請ふ、見ひて之を解かんと。
孟子に見ひ問うて曰く、周公は何人ぞやと。
曰く、古の聖人なりと。
曰く、管叔をして殷を監らしめたるに、管叔殷を以て畔けりと。ゥ有りやと。
曰く、然りと。
曰く、周公は其の將に畔かんとするを知りて、之を使めたるかと。
曰く、知らざるなりと。
然らば則ち聖人すら且つ過つこと有るかと。
曰く、周公は弟にして、管叔は兄なり。周公の過つも、亦宜ならずや。且つ古の君子は、過てば則ち之を改む。今の君子は、過てば則ち之に順ふ。古の君子は、其の過つや、日月の食するがごとく、民皆之を見る。其の改むるに及びてや、民皆之を仰ぐ。今の君子は、豈に徒に之に順ふのみならず、又從つて之が辭を爲すと。
(
10)
孟子
致シテレ爲ルコトヲレ臣而
歸ル。
王
就キテ見ヒテ二孟子
ニ一曰
ク、
前日願ヘドモレ見ハンコトヲ而不
リキレ可
カラレ得。
得テレ侍スルヲ二同ジキ朝ニ一甚ダ喜ベルニ、今
又棄テヽ二寡人ヲ一而歸
ラントス。不
レ識ラ、可
キカ二以
テ繼ギテレ此レニ而
得一レ見フコトヲ乎
ト。
對ヘテ曰
ク、不
ルノミ二敢ヘテ請ハ一耳。
固ヨリ所
ナリレ願フ也
ト。
他日、王
謂ツテ二時子ニ一曰ク、我
欲ス下中國ニシテ而
授ケ二孟子
ニ室ヲ一、
養フニ二弟子ヲ一以
テシ二萬鍾ヲ一、
使メント中ゥ大夫・
國人ヲシテ皆有
ラ上レ所
二矜式スル一。
子盍ゾルト 二爲メニレ我ガ言ハ一レ之
ヲ。
時子
因ツテ二陳子ニ一而
以テ告ゲシム二孟子
ニ一。陳子以
テ二時子
ノ之
言ヲ一告
グ二孟子
ニ一。孟子曰
ク、
然リ。
夫ノ時子
ハ惡クンゾ知
ランヤ二其
ノ不可ナルヲ一也。
如シ使メバ二予ヲシテ欲セ一レ富マンコトヲ、
辭シテ二十萬ヲ一而
受ケンヤレ萬ヲ。
是レ爲サンヤレ欲
ストレ富
マンコトヲ乎。
季孫曰
ク、
異ナルカナ哉
子叔疑、
使メ二己ヲシテ爲サ一レ政ヲ、不
ンバレ用ヰラレ則
チ亦已マンノミ矣。
又使
ム二其
ノ子弟ヲシテ爲ラ一レ卿。人又
孰カ不
ランヤレ欲
セ二富貴ヲ一。
而シテ獨リ於テ二富貴
ノ之
中ニ一、有
リレ私スルコト二龍斷ヲ一焉
ト。
古ノ之
爲ルヤレ市也、以
テ二其
ノ所
ヲ一レ有
ル、
易フル二其
ノ所
ニレ無
キ一者ニシテ、
有司ハ者
治ムルノミレ之
ヲ耳。有
リ二賤丈夫一焉、必
ズ求メテ二龍斷ヲ一而
登リレ之
ニ、以
テ左右ニ望ミテ而
罔フ二市利ヲ一。人皆以
テ爲スガレ賤シト、
故ニ從ツテ征スレ之
ニ。征
スルコトレ商ニ、
自リ二此ノ賤丈夫一始マレリ矣
ト。
孟子致爲臣而歸。
王就見孟子曰、前日願見而不可得。得侍同朝甚喜、今又棄寡人而歸。不識、可以繼此而得見乎。
對曰、不敢請耳。固所願也。
他日、王謂時子曰、我欲中國而授孟子室、養弟子以萬鍾、使ゥ大夫・國人皆有所矜式。子盍爲我言之。
時子因陳子而以告孟子。陳子以時子之言告孟子。孟子曰、然。夫時子惡知其不可也。如使予欲富、辭十萬而受萬。是爲欲富乎。季孫曰、異哉子叔疑、使己爲政、不用則亦已矣。又使其子弟爲卿。人又孰不欲富貴。而獨於富貴之中、有私龍斷焉。古之爲市也、以其所有、易其所無者、有司者治之耳。有賤丈夫焉、必求龍斷而登之、以左右望而罔市利。人皆以爲賤、故從征之。征商、自此賤丈夫始矣。
孟子臣たることを致して歸る。
王就きて孟子に見ひて曰く、前日見はんことを願へども得べからざりき。同じき朝に侍するを得て甚だ喜べるに、今又寡人を棄てゝ歸らんとす。識らず、以て此れに繼ぎて見ふことを得べきかと。
對へて曰く、敢へて請はざるのみ。固より願ふ所なりと。
他日、王時子に謂つて曰く、我中國にして孟子に室を授け、弟子を養ふに萬鍾を以てし、ゥ大夫・國人をして皆矜式する所有らしめんと欲す。子盍ぞ我が爲めに之を言はざると。
時子陳子に因つて以て孟子に告げしむ。陳子時子の言を以て孟子に告ぐ。孟子曰く、然り。夫の時子は惡くんぞ其の不可なるを知らんや。如し予をして富まんことを欲せしめば、十萬を辭して萬を受けんや。是れ富まんことを欲すと爲さんや。季孫曰く、異なるかな子叔疑、己をして政を爲さしめ、用ゐられずんば則ち亦已まんのみ。又其の子弟をして卿たらしむ。人又孰か富貴を欲せざらんや。而して獨り富貴の中に於て、龍斷を私すること有りと。古の市たるや、其の有る所を以て、其の無き所に易ふる者にして、有司は之を治むるのみ。賤丈夫有り、必ず龍斷を求めて之に登り、以て左右に望みて市利を罔ふ。人皆以て賤しと爲すが、故に從つて之に征す。商に征すること、此の賤丈夫より始まれりと。
(
11)
孟子
去ツテレ齊ヲ宿ス二於
晝ニ一。有
リ下欲スル二爲メニレ王
ノ留メント一レ行
クヲ者
上。
坐シテ而
言フニ不
レ應ヘ、
隱リテレ几ニ而
臥シタリ。
客不
シテレ悦バ曰
ク、
弟子齊宿シテ而ル後ニ敢ヘテ言
ヘルニ、
夫子臥シテ而不
レ聽カ。
請フ勿カラン二復タ敢ヘテ見ユルコト一矣
ト。
曰
ク、
坐セヨ。我
明ラカニ語ゲンレ子ニ。
昔者魯繆公無
ケレバレ人
二乎
子思ノ之
側ニ一、則
チ不
レ能ハレ安ンズルコト二子思
ヲ一、
泄柳・
申詳ハ無
ケレバレ人
二乎繆公
ノ之側
ニ一、則
チ不
リキレ能
ハレ安ンズルコト二其
ノ身ヲ一。
子爲メニ二長者ノ一慮レドモ、而不
レ及バ二子思
ニ一。
子絶チタルカ二長者
ヲ一乎、長者絶
チタルカレ子
ヲ乎
ト。
孟子去齊宿於晝。有欲爲王留行者。坐而言不應、隱几而臥。客不悦曰、弟子齊宿而後敢言。夫子臥而不聽。請勿復敢見矣。
曰、坐。我明語子。昔者魯繆公無人乎子思之側、則不能安子思、泄柳・申詳無人乎繆公之側、則不能安其身。子爲長者慮、而不及子思。子絶長者乎、長者絶子乎。
孟子齊を去つて晝に宿す。王の爲めに行くを留めんと欲する者有り。坐して言ふに應へず、几に隱りて臥したり。客悦ばずして曰く、弟子齊宿して而る後に敢へて言へるに、夫子臥して聽かず。請ふ復た敢へて見ゆること勿からんと。
曰く、坐せよ。我明らかに子に語げん。昔者魯繆公子思の側に人無ければ、則ち子思を安んずること能はず、泄柳・申詳は繆公の側に人無ければ、則ち其の身を安んずること能はざりき。子長者の爲めに慮れども、子思に及ばず。子長者を絶ちたるか、長者子を絶ちたるかと。
(
12)
孟子
去ルレ齊
ヲ。
尹士語ゲテレ人
ニ曰
ク、不
レバレ識ラ二王
ノ之不
ルヲ一レ可
カラ三以
テ爲ル二湯武一、則
チ是レ不明ニシテ也、
識ツテ二其
ノ不可ナルヲ一然モ且ツ至リタラバ、則
チ是
レ干メシナリレ澤ヲ也。
千里ニシテ而
見エレ王
ニ、不
ルガレ遇ハ故ニ去
リ、
三宿シテ而ル後ニ出ヅレ晝ヲ。
是レ何ノ濡滯ナルヤ也。
士ハ則
チ茲レ不
トレ悦バ。
高子以
テ告グ。曰
ク、
夫ノ尹士ハ惡クンゾ知
ランヤレ予ヲ哉。千里
ニシテ而
見エシハレ王
ニ、
是レ予ガ所
ナリレ欲セシ也。不
ルガレ遇
ハ故
ニ去
ルハ、
豈ニ予ガ所
ナランヤレ欲スル哉。
予不
ルナリレ得レ已ムヲ也。
予三宿シテ而シテ出デシモレ晝ヲ、
於テ二予ガ心
ニ一猶ホ以テ爲スレ速ヤカナリト。王
庶幾ハクハ改メンコトヲレ之
ヲ。王
如シ改
メンカレゥヲ、則
チ必
ズ反ラシメンレ予ヲ。
夫レ出デシモレ晝
ヲ而王不
リキ二予
ヲ追フコトヲセ一也。予
然ル後ニ浩然トシテ有
リ二歸志一。予
雖モレ然リト、
豈ニ舍テンヤレ王
ヲ哉。王
由ホ足ル二用テ爲スニ一レ善ヲ。王如
シ用ヰバレ予
ヲ、則
チ豈
ニ徒ダニ齊ノ民
安キノミナランヤ。天下
ノ之民
擧ゲテ安カラン。王
庶幾ハクハ改
メンコトヲレ之
ヲ。予
日ニ望ムレ之
ヲ。予
ハ豈
ニ若ク二是ノ小丈夫ノ一然ランヤ哉。
諫メテ二於
其ノ君ヲ一而不
レバレ受ケラレ則
チ怒リ、
悻悻然トシテ見ハレ二於
其ノ面ニ一、
去レバ則
チ窮メテ二日ノ之
力ヲ一而ル後ニ宿センヤ哉
ト。
尹士聞
キテレ之
ヲ曰
ク、
士ハ誠ニ小人ナリ也
ト。
孟子去齊。尹士語人曰、不識王之不可以爲湯武、則是不明也、識其不可然且至、則是干澤也。千里而見王、不遇故去、三宿而後出晝。是何濡滯也。士則茲不悦。
高子以告。曰、夫尹士惡知予哉。千里而見王、是予所欲也。不遇故去、豈予所欲哉。予不得已也。
予三宿而出晝、於予心猶以爲速。王庶幾改之。王如改ゥ、則必反予。夫出晝而王不予追也。予然後浩然有歸志。予雖然、豈舍王哉。王由足用爲善。王如用予、則豈徒齊民安。天下之民擧安。王庶幾改之。予日望之。予豈若是小丈夫然哉。諫於其君而不受則怒、悻悻然見於其面、去則窮日之力而後宿哉。
尹士聞之曰、士誠小人也。
孟子齊を去る。尹士人に語げて曰く、王の之以て湯武たるべからざるを識らざれば、則ち是れ不明にして、其の不可なるを識つて然も且つ至りたらば、則ち是れ澤を干めしなり。千里にして王に見え、遇はざるが故に去り、三宿して而る後に晝を出づ。是れ何の濡滯なるや。士は則ち茲悦ばずと。
高子以て告ぐ。曰く、夫の尹士は惡くんぞ予を知らんや。千里にして王に見えしは、是れ予が欲せし所なり。遇はざるが故に去るは、豈に予が欲する所ならんや。予已むを得ざるなり。
予三宿して而して晝を出でしも、予が心に於て猶ほ以て速やかなりと爲す。王庶幾はくは之を改めんことを。王如しゥを改めんか、則ち必ず予を反らしめん。夫れ晝を出でしも王予を追ふことをせざりき。予然る後に浩然として歸志有り。予然りと雖も、豈に王を舍てんや。王由ほ用て善を爲すに足る。王如し予を用ゐば、則ち豈に徒だに齊の民安きのみならんや。天下の民擧げて安からん。王庶幾はくは之を改めんことを。予日に之を望む。予は豈に是の小丈夫のごとく然らんや。其の君を諫めて受けられざれば則ち怒り、悻悻然として其の面に見はれ、去れば則ち日の力を窮めて而る後に宿せんやと。
尹士之を聞きて曰く、士は誠に小人なりと。
(
13)
孟子
去ルレ齊ヲ。
充虞路ニ問
ウテ曰
ク、
夫子若クレ有
ルガ二不豫ノ色一然リ。
前日虞聞
ケリ二ゥヲ夫子
ニ一、曰
ク、
君子ハ不
レ怨ミレ天
ヲ、不
トレ尤メレ人
ヲ。
曰
ク、
彼レモ一時、
此レモ一時
ナリ也。
五百年ニシテ必
ズ有
ラン二王者ノ興ルコト一。其
ノ、必
ズ有
ラン二名アルレ世ニ者
一。
由リレ周而來、
七百有餘歳矣、
以テスレバ二其
ノ數ヲ一則
チ過ギタルモ矣、以
テ二其
ノ時ヲ一考フレバレ之
ヲ則
チ可ナリ矣。
夫レ天
ハ未ダルナリ レ欲セ三平-二治スルヲ天下
ヲ一也。
如シ欲
セバ三平
-二治
セント天下
ヲ一、
當ツテ二今
ノ之
世ニ一、
舍キテレ我ヲ其レ誰ゾヤ也。
吾何爲レゾ不豫ナランヤ哉
ト。
孟子去齊。充虞路問曰、夫子若有不豫色然。前日虞聞ゥ夫子、曰、君子不怨天、不尤人。
曰、彼一時、此一時也。五百年必有王者興。其閨A必有名世者。由周而來、七百有餘歳矣、以其數則過矣、以其時考之則可矣。夫天未欲平治天下也。如欲平治天下、當今之世、舍我其誰也。吾何爲不豫哉。
孟子齊を去る。充虞路に問うて曰く、夫子不豫の色有るがごとく然り。前日虞ゥを夫子に聞けり、曰く、君子は天を怨みず、人を尤めずと。
曰く、彼れも一時、此れも一時なり。五百年にして必ず王者の興ること有らん。其の閨A必ず世に名ある者有らん。周より而來、七百有餘歳、其の數を以てすれば則ち過ぎたるも、其の時を以て之を考ふれば則ち可なり。夫れ天は未だ天下を平治するを欲せざるなり。如し天下を平治せんと欲せば、今の世に當つて、我を舍きて其れ誰ぞや。吾何爲れぞ不豫ならんやと。
(
14)
孟子
去ツテレ齊ヲ居リレ休ニ。
公孫丑問
ウテ曰
ク、
仕フレドモ而不
ルハレ受ケレ祿ヲ、
古ノ之
道ナルカ乎
ト。
曰
ク、
非ズ也。
於テレ崇ニ吾得シガレ見ユルヲレ王ニ、
退キテ而有
リ二去ル志一、不
ルガレ欲セレ變ズルコトヲ故ニ不
ルナリレ受
ケ也。
繼イデ而有
リ二師命一、不
レ可
カラ二以
テ請フ一。
久シカラントハ二於
齊ニ一、
非ザルナリ二我ガ志ニ一也
ト。
孟子去齊居休。公孫丑問曰、仕而不受祿、古之道乎。
曰、非也。於崇吾得見王、退而有去志、不欲變故不受也。繼而有師命、不可以請。久於齊、非我志也。
孟子齊を去つて休に居り。公孫丑問うて曰く、仕ふれども祿を受けざるは、古の道なるかと。
曰く、非ず。崇に於て吾王に見ゆるを得しが、退きて去る志有り、變ずることを欲せざるが故に受けざるなり。繼いで師命有り、以て請ふべからず。齊に久しからんとは、我が志に非ざるなりと。
(本文はtaiju生作「漢文エディタ」原文よりHTMLに変換したものである。原文は後日利用の便を考えて、このファイルに含めてある。又、上下のコラムを連動させるスクリプトも入っている。)