明治思想小史
三宅雪嶺(三宅雄二郞)
(『明治思想小史』 大正文庫第一編 丙午出版社 1913.3.10)
※ 本文ルビなし。入力者の判断で施した。読点を句点に改めたところがある。(*入力者注記)
『大正文庫』發行の趣意(高島米峰)
例言
目次
(本文)
『大正文庫』發行の趣意
丙午出版社は、本年四月を以て、創立滿七周年となるので、聊か、世間並の祝宴でもと思つたが、諒闇中、差控へるのが當然だといふので、然らば、何かこれを記念する仕事をしてはと、そこで、諸先生方を煩はして、まづこの『大正文庫』拾貳册を續刊することにし、別に『佛敎講義録』(一ヶ年完結)をも、發行することにした。
たゞこれだけで、別に趣意がましい趣意も何もない。こゝに深く、著者諸先生と、讀者諸彦との、健康を祝し奉る。
大正二年三月 丙午出版社主 高島米峰謹みて白す
例言
本書は速記者に口授して大阪朝日新聞に連載したのを丙午出版社の主人が纒めたもの。
書名も主人の附けたまゝ。
著者は九つの歳に明治元年を迎へ、多少明治年間の事を見たり聞いたりして居る。もつと歳をとれば今少々精しく言ふかも知れぬ。
目次
(*ページ数は省略。)
第一章 明治以前
思想の變遷を精しく言へば際限ないが、明治の名稱は主として國家の上に存し、延て社會に及ぶ。聖人南面而聽天下、嚮明而治とある。從つて明治の名稱に於て時代を限る以上、國家を主にし社會に及ぶを適當とする。國家に關し社會に關し間斷なく思想の變遷し來つたが、原因は國内よりするのがあり、國外よりするのがある。變遷の現れた上で見れば、國内よりするを縁とし、國外よりするを因とする。明治以前約二千年の歴史は事實とし存在したのであつて、若し其の事實が國外よりの思想を同化するに不適當であつたならば、何程國外の交通が繁くても明治以後の現象の起りやうがない。支那が二百年も歐洲と交通して思想に何程の影響も無いのに、我が日本が是れと違ひ、明治元年と四十五年と著るしい差を生じたのは、前よりそれ丈の素養があつたからである。元年迄は歐洲に於ける中世の有樣であつて、四十五年は兎に角最近の文明を消化しつゝあると云ふ事、いはゞ四十五年間に近世史四百五十年の變遷を繰返した事になる。他人の歳月を費して得たる經驗的智識を僅かの間に得るのは珍らしい事でも無いが、大小幾多の變革を經た近世史を、恁くも短い間に經過して、遂に追附いたのは、國家として、社會として、之に耐ふる程度になつて居つたのである。因を果にする縁があつたのである。
東西隔絶し、極めて交通に乏しかつたが、類似した地勢には類似した變遷がある。間々類似の多いのに驚くことがある。日本は普通に英國と較べられるが、昔から何程か似て居る。佛國は島國で無いにしても、是れも大さなどが似て居る。昔の羅馬及び後の露國を除き、國家らしい國家は大抵大さに制限がある。頃合といふ所がある。支那は國家として活動するに餘り茫漠に過ぎ他の國家と比較するにむづかしい。日本と歐洲列國と地勢の外に種々類似の事情があり、獨立して變遷しつゝ、變遷の結果に似たのがある。固より日本は長足の進歩を遂げたとは言へ、四十五年で四百五十年掛つたと全く同じ樣な譯にいかぬ。或は骨を得て肉の附かぬ所があり、或ひ(*「ひ」ママ)は皮相を得て骨も肉も無い所がある。精製品と粗製品の違ふ位の事もあるが、粗製品でも實用に不足無く、必要なる事に於て對等の位置を失ひはせぬ。
日本の歴史は他の東洋諸國と違ひ時代を追つて次第に進歩し、時に退歩しても大體に於て進歩を續けて居る。德川時代は固定したと見えても進歩が止つたので無く、固定したと見えた時必ず之を改めやうとする者が出た。熊澤蕃山は當時の状勢が到底久しく續かざるを察し亂れる時の準備をしやうとした。其の思ふやうに世は亂れなんだが、封建制度の衰滅に氣附いたのは確である。八代將軍は中興の稱があつて、前よりの紊亂を緊肅した所が少くない。十一代將軍の治世は光格天皇の御宇と平行し、後にこそ甚だしく紊亂したれ、初の間國政を刷新するに熱心であつて、儒者は之を維新と稱した。寛政の初め頻に維新を口にした。詩大雅に周雖舊邦其命維新とあるに出て居る。併し其の主張し又は希望する程の効果なく、善くしやうとして却て惡く成つた所もあるが、如何にかして善くしやうとする企は絶えなんだ。
維新は明治維新に限る事になつたが、維新を思立つたのは一朝一夕で無い。唯事志と違つたのである。武陵桃源徒らに惰眠を貪つた樣であつても頗る外國の刺戟を受くるに鋭敏であつて、外國船が何邊に着いたとの報告があれば、發憤して立つのがある、彼に負けまいとするのがある。間宮なり、近藤なり、錢屋なり、高田屋なり、孰れも探檢若くは貿易に從事した。國禁を犯して貿易する者があれば、國禁を犯して蘭語を學ばうとするは勿論であつて、多數は與り關せぬにしても、若し外國と交通が繁くなれば、更に一層強き刺戟を受くることを示して居る。一度米國軍艦が浦賀に到來して全國の動搖したのは偶然で無い。國民が國事に注意するやうに成つて居つたのである。其の狼狽したのを嘲るよりも、其の刺戟を受くるに鋭敏であつたのを賞すべきである。神經質に過ぎた嫌あるにせよ、遲鈍で無かつた丈の事はある。別段に事の無い時でも維新を唱へ、維新を企てた程であつて、愈大事出來と考へ上を下への大騷ぎをすることになつたが、詰り從來の状態では立行かぬ、何等か大に刷新する所が無くてはならぬと云ふのである。如何に刷新すべきかは人々の了簡區々である。局に當る者は惑ふ。局外の言論頗る喧しく而して最も力を得たのは尊王攘夷である。
第二章 尊王攘夷
尊王攘夷の思想は何時から起つたとは言へぬ。尊王と攘夷とは合併したものでない。共に古來の思想であつて、儒敎に接し漢語にて言ひ現す事になつたのである。皇室の權威に消長があつても、全く尊王を拒んだ者は無い。南北朝と言ふも雙方に皇室を戴いて居る。神皇正統記が後に重んぜられたのも尊王の思想に由來して居る。而して征夷大將軍の職は必ずしも名稱に拘るべきで無いが、全く空名としたので無い。德川氏が源家の後を承け征夷大將軍の職を世々にしたのも空名のみを得やうとしたのでない。昔は何の國も他國を夷狄とした。支那許りでなく希臘羅馬皆さうである。而して夷狄は兵力を以て討ち平らぐ可きものとした。後世の國際法に照して征夷攘夷の語を見れば如何にも不穩當であるが、古代の國際的關係は盡く斯かる有樣であつた。
尊王は日本歴史の事實であつて攘夷も日本歴史の事實であつたが、殊に之を意識するに至るのは多くは之を求めて之を得ざる時にある。尊皇の思想は皇室の衰へて幕府の權を振ふ時に湧いて出た。皇室の衰微を歎じて幕府を憎み、幕府の失政を怒つて皇室を慕つた關係がある。王覇辨は春秋戰國にも盛であつて、王道覇道を區別し、或は其の一致を説いた。併し尊王の名に於て幕府に迫るのは幕府の政治を改めやうとする所が少くない。行政改革を促すと認むべきことがある。而して攘夷の語は甚だ簡單であるにしても、外國人をして我が國家に干渉する無からしめやうと云ふのが主になつて居る。相互に貿易しながら己の利を圖つて他の利を顧みぬとあつては不條理に氣が附くが、初から貿易で利を得やうと思はず、我が國の事は我國丈で足りる、他國に用事が無いとして居る時、他國より貿易を望み來れば餘計な事を望むと思ふのは普通の順序である。殊に軍艦を以て迫り來つては亂暴至極と思ふのも無理は無い。彼れ兵を以て向ひ來れば我れ兵を以て應ずべきであると爲し、此に攘夷の聲が盛になつた。詰り攘夷は其の當時に在つて對外政策の發表である。豐臣秀吉は尊王攘夷の實行者たる形がある。不足を言へば幾らもあるが、比較的さう見える。さう云ふ状態で續けば何の事はないのに、外國軍艦の脅す儘に從ひ、而して己れに反對する者を牢獄に入れ、外に弱く内に強いといふので、德川幕府を攻めることになつた。
從來の状勢として事の當然なる者であるが、從來の状勢に應じて居つても、全く交通の無かつた外國と甚だしく思想が掛け離れて居る。我は歐洲中世の思想で居るのに、彼は近世の思想で居る。尊王の事は國内のことで外と關係はないが、攘夷の事は國と國との關係であつて、一國の事情のみで决することが出來ぬ。近世の事情を聞いて見れば多少手加减せねばならぬ。彼は軍艦を以て來るとも強ち我を掠奪するものでない。貿易の利害を考へれば開港も惡く無い。遂に開港することになつた。併し開港と攘夷と正反對でなく、攘夷の態度は久しく國際的關係を形づくり如何に時代が變つても、其の關係が全く一變するは容易でない。遠き將來には更に大に變化するだらうが、中世と近世との齟齬とは言へ、近世も未だ大に進歩したのでない。惡い方面では強盜が竊盜若くは詐欺取財と成つたやうな所がある。或は法律に觸れねば何をしても差支ないと云ふやうな所もある。開港の理由を認め之を實行することになつたが、それで舊來の攘夷思想が全く消滅したとするは間違つて居る。尊王攘夷が勝を制しながら前に増して開港と成つたのを見、尊王攘夷は幕府を攻擊するの口實に過ぎなんだとする譯にはいかぬ。口實にした者もあるが、世間は權略ばかりで行けるもので無い。何處にか眞實が無くてはならぬ。開港の爲に攘夷が消滅したと思ふのは、皇居が將軍の居城に移つたので、皇室が無くなつたとするに似て居る。天皇は二重橋の内に居られても天皇たるに差支は無い。攘夷の名は消滅したけれど、他の名を以て繼續して來て居る。明治元年の詔に「朕茲ニ百官諸侯ト廣ク相誓ヒ烈祖ノ御偉業ヲ繼述シ一身ノ艱難辛苦ヲ問ハズ親ラ四方ヲ經營シ汝億兆ヲ安撫シ遂ニハ萬里ノ波濤ヲ拓開シ國威ヲ四方ニ宣布シ天下ヲ富岳ノ安キニ置ン事ヲ欲ス」とあるは尊王攘夷の名に於て希望した所のものを明白に言ひ現して居る。一時の手段とした者もあらうが、其の由て來る所は遠いのである。
第三章 維新の思想
尊王攘夷の勝を制して維新と成る迄は、思想の經路は重に儒敎を辿つて居る。尊攘の事は實に論孟の中に見出され、孔子は九夷に居らんと欲すと言ひ、華夷を一にしたやうであるが、微管仲吾其被髪左衽矣の語は後に頻に攘夷説に引用されて居る。而して論孟が我が學者に理解され廣く敎訓となつたのは、我が國状が春秋戰國に似て居たからである。春秋は、人口も、面積も、封建制度も、舊幕時代と大差ない。論孟は支那一統の後に解されたよりも、日本で一層適切に解された。考證的の事は及ばんが、躬からに行ふことは優つた。靖獻遺言が尊攘に關する經典と思はれたのも、後世の支那人の解する所と違つて居たのである。維新は周雖舊邦其命維新とあるに出で、儒敎の理想とする所を豫期したのであるが、愈維新と云ふまで漕附け、偖如何にすべきかを考ふるに及び、聊か惑はざるを得なんだ。詩書五經に適當なる解釋を與へて居らぬ。維新を實現する爲に模範を求むるには過去の日本に於てするか、又は當時の外國に於てするの外は無い。
是より先き國學が既に進み、古來の典故が頗る詳かに成つて居つて、尊王の聲の昂まると共に、王朝の盛なりし頃を追憶し、幕府を倒す上は昔の王朝時代の樣にすべきであるとし、王政復古を唱へ、官制の大部分は王朝に則り、太政大臣左右大臣以下夫々昔の官名で任命した。併し或は建武中興の覆轍を踏みやせぬかとの疑ひがあつた上、外國との交際が進み、幾分か外國の政治思想が入込んだ。既に其の兵力の強きを知つて居るのに、更に新しい説を聞かされるので、自然に之を模範とするに傾いたのもある。而して外國と云ふも、米國が初め開港を促し、色々と助言し、次で宣敎師の來つて敎育に與かるのがあり、又幕府が薩長と爭ふた時、英が前者(*ママ)を助け佛が後者(*ママ)を助け、各關係を密にした丈、米、英、佛が最も多く影響を及ぼした。而して英語の敎師に多く米人を聘し、米英に特別の差なしと考へた爲め、思想の上に影響したのは米及び佛として妨げない。敎科書として簡單なる米國史を讀む者が多く、米の英より獨立した事情を知り、英よりも米に同情を持ち國政を衆議にて决するを正しく思ひ、廣く會議を起し、萬機公論に决すべしと云ふを尤もの事とした。佛が幕府を扶けた甲斐もなく、幕府は倒れたが、奈破崙の名は早く入り込み、賴山陽も之を詩に詠じ、佐久間象山は嗟君原是一書生、苦學遂能明且聰、一朝照破當時弊、革弊除害民情從、旌旗所向如靡草、威信普加歐羅中、元主西征不足道、豐公北伐何得同といひ、安得起君九原下、同謀戮力駈奸兇、終卷五洲歸皇朝、皇朝永爲五洲宗といひ之に私淑する程であつて、西洋の英雄と言へば先づ之を擧ぐることに成つて居るのに、現に佛は奈破崙三世が帝位に在ると云ふので頗る之に重きを置き、米に則つて萬機を公論に决しやうとし、佛に則つて國威を輝かさうとした。謂はゞ王朝時代の官制で米佛の爲す所を爲さうとしたのである。併し其の能く纒まるは容易でない。何事にも異論百出する有樣であるが、尊王攘夷の名に於て勝を制した勢だけは依然として繼續しつゝある。唯だ如何なる形に現はれるかは當時の人が明に知ることが出來なかつた。
第四章 征韓論と民選議院論
或は曰ふ、維新は薩長が朝廷を奉じて幕府に代るに過ぎなんだ、尊王攘夷は口實である、國政は大體に於て幕府の爲した所に違はぬでは無いかと。さう言へばさう云ふ所もある。併し將軍を天皇とした丈とは言へぬ。薩若くは長に於て幕府と同樣のことを爲さうと思ふ者があつたにしても、さう云ふ譯に往かなかつた。其が出來れば幕府が倒れなかつたのである。開港の儘に續いて天皇が外國人に謁見を賜はり攘夷は一時の夢と消えたやうであるが、夢にしては餘りに猛烈なる騷ぎでは無かつたか。攘夷と開港と正反對の如く聞えるのは表面のことであつて、内實はさうでないのである。歐洲は悉く開港して盛に貿易して居るが、世界の大部分は其領土に歸し、尚領土に歸すべき處あるのが少くない。漢譯和譯の歐洲史を讀んだ者、又は人から歐洲の話しを聞いた者は侵略の勢の盛なるを知つた。開港と侵略と併び行はれて居つて、攘夷の名は無くても攘夷の實が行はれて居る。外國船が港に出入し、日本船も外に出づるやうに成つたが、其の儘にして居つては國威を伸す機會が無いとは夙に或る一部の人の頭腦に浮んだことであつて、偶朝鮮に使節を派遣して拒まれ、太閤時代の事を思ひ出し、彼の如く無禮を加へられては、國家の體面を傷つけるも甚だしいと憤慨し、征韓論が起つた。之には樣々の事情がある。身の處置方に窮して唱へたのもあり、長の最も恐るべきを察し、薩をして半島に勝を制し、轉じて長を壓屈せしめ、更に智慮なき薩を操縱しやうと匠んだのもある。併し一度征韓の議が出て、廣く世間に贊成の聲の聞えたのは如何に人が國威を輝かしたかつたかを知るに足る。攘夷の聲が正しく征韓と變じたのである。孰れも國威の發揚を希望するに過ぎぬ。征韓に功を樹てやうとしたのは奈翁にあやかつたこと少くなく、桐野の如き二大隊で露西亞まで進まうと思ひ込んだ。何でも國威を發揚すれば善いのであつた。
所が征韓を主張した者は、西郷を除き、急に民選議院設立を建白したのは何故であるか。民選議院は尊王と一致せぬやうに聞えるのに熱心なる尊王家も之に加はつた。副島、江藤、板垣等皆尊王の志に篤く、殊に副島は醇乎として醇なる者であつて、頭を和漢學で固めてある。然るに等しく民選議院設立を唱へたのは色々の事情ある中にも、斯くては尊王の實が擧らぬ、若し唯だ天皇を奉じ宰相以下勝手に政治を行ふならば幕府と異なる所が無い、宰相をして私する餘地なからしめて始めて王道が行はれるとしたのである。人多く米國史を讀んで其の獨立を壯とし、而して英國が其の禍を受けたのを米に參政權を與へなかつたのに歸するが、偶明治三年奈破崙三世が廢せられ佛は共和政治と成つた。前世紀の佛國革命が再び人の噂に上り、皇室を永遠に安全にするには公論を以て政治を行ふことにせねばならぬと云ふのであつて建白書にも「有司上帝室を尊ぶと曰はざるに非ず、而も帝室漸く其尊を失ふ。下人民を保つと云はざるに非ず、而も政令百端、朝出暮改、政刑情に成り、賞罰愛憎に出づ。言路壅蔽困苦告るなし」と書いてある。孟子の左右皆曰賢、未可也、諸大夫皆曰賢未可也、國人皆曰賢、然後察之、見賢焉、然後用之といふ類の語を敎へられたる者は自然に斯かる邊に考へ及ぶ。漢學者は孔孟の敎へたる王道が輿論政治に一致するを思ひ、洋學者は己の崇拜する文明國の政治なるを思ひ、民選議院を必要とするに至つた。征韓論と民選議院論とを併び唱へたのは攘夷と尊王との變形である。尊攘を唱へた者が新に二論を唱へ、尊攘を迎へた世間が新に二論を迎へたのは不思議でない。
第五章 暴動と結黨
政府の有力者は二分し、一は野に下つて征韓及び民選議院設立を唱へた。世間に反對する者があつても、賛成する者も少くない。政府に殘つた者は權力を以て自ら防禦し、兼ねて世の中を平穩に爲さうとしたが、此に快からざる者は頻に之を攻擊する、議論もすれば腕力にも訴へんとする。當時各地に軍役に在つた者の兵器を所有して居るのがある。薩摩の如き頗る數が多く、一朝旗を擧げれば由由しき大事となる虞がある。重望ある西郷は輕擧妄動せず、必ず之を抑へさうであつても、之と相應じて旗を擧げやうとする者が隨分ある。連合すれば確に優勢と考へられる。官を罷めて郷里に歸つた參議中で最も性急なのは江藤である。佐賀人で事を好む者は薩摩と聯合を計つて成らなんだか、成つたかに稱して人を煽動し、卷き込んだ。微弱でも武器を以て政府に反抗する跡がある。江藤と最も仲たがひの大久保は之を壓屈して世間の不平連を懲さうとし、自ら戰線にも出で、總てを處置し江藤を梟首にした。不平連は懲りたか懲りなんだか、尚武器を以て反抗せうとするのがある。政府では臺灣出兵で不平を外に洩らさすに足らず、反間の策で長の前原をして事を擧げしめ、間もなく之を鎭めたが、最も手強いと感じたのは西郷である。西郷が暴動に與みするや否を別とし、何等か處分せねばならぬとして手を入れた。起るならば速かに起り、起らぬならば到底起ることの出來ぬやうにせうとするのであつた。此の方は豫想に反し暴動が餘りに大袈裟に爲り、熊本城にて遙に賊軍を望み、其の後から後へと續いて來るものゝ多いに驚いた。政府に於ても、薩摩に於ても、互に見くびり、實際敵の意外に強いことを感じたが、政府は金力があつて、出來る丈の力を盡したが上、薩摩は自分を恃み過ぎ、名義なんかを構はず、勝利を得れば薩藩の武斷政治に爲るだらうとの疑を懷かしめ、天下總懸りで之を鎭壓することに爲つた。兎に角政府に於て勝を得たとなれば最早武力で恐るべきものは無い。薩摩の鎭壓と共に武力に訴ふる者が無くなり、征韓論も聞えなくなつた。
江藤が殪れてから板垣、後藤は再び政府に入つたが、幾干もなく前後して退き自由民權を唱へ政黨を結んだ。西郷の死してから武力を以て政府と爭ふことが出來なくなつても、主義主張を以て人を集め政府に反抗することは出來る。既に維新前にも其の効力を認めた、西洋の政黨話を聞いては尚更ら面白く思はれる。政府に於ても法律若くは行政處分で壓迫したが、隨つて抑へれば隨つて揚がる。政治運動は中々盛んになり、運動も次第に巧になり、全國に氣脈を通ずるやうに成つた。所で曩に征韓論に際し政府に留つた者は一致共同して事に當つたが、大久保の横死してより大隈最も高地位に居り、前からの關係で自ら信ずること厚く堅く地歩を占めやうとした。頭數の多い薩長は之に快よくない。何かと意見の合はぬ事がある。大隈は急に國會を開き國政を變じやうと計つたが、力敵せず逆に放逐さるゝの已むを得ざるに至り、新に政黨を興すことに爲つた。
板垣の中心となれる自由黨が米佛の思想を受くること最も多かつたのは外でもない。英書を讀めば重に米國より到來したもので讀本とか歴史とか政治論に渉らずとも自由思想を皷吹してある。而して岩倉大使隨行員の中、佛國の政變を目擊した者は、ルソーの民約論を悅び或は共和政治に似たことを説き、議院も一院論に傾いた。併し稍多く英書を讀む者は米の門より入りて英の堂に昇るの趣がある。書を讀めば讀む程英の國富み兵強く而して國政の最も健全なるを知り、之にあやかりたく爲る。元來日本に在つては國政を共和にする氣になれず米の獨立佛の革命を愉快としても、愈詳かに國政を考へる段には英國の如くするの穩かなるを覺える。英國より歸り來つた者も頻に之を説き、大隈の中心となれる改進黨は最も英國にかぶれたのである。短く言へば自由黨の思想は英學の初學者及び佛學者より出で、改進黨の思想は稍深く英學を修めた者より出た。自由黨員の唱ふる所は誠に未熟にして一知半解と云ふべきであるが、生呑の儘に飛出す丈け頗る元氣の盛な所がある、行動の愉快なる所がある。孟子の語を燒直し、或は柳子厚の送薜存義序を燒直したやうなのもあるが、理論に於て國情に反して居るに拘らず、實際の運動に於て頗る適切な所があつた。改進黨員は之に較べて理論は整つても、知識を鼻に掛けるやうに見えて餘り世間に受けが善くなかつた。相互に容れず、相攻擊して止まなんだが、國民の多數をして當時の政治に滿足せず、政治に趣味を覺えしむるに與つたは略同じ。
第六章 政黨の對立
征韓論は佐賀及び鹿兒島の暴動となり、民選議院論は自由黨及び改進黨の結黨と成り、共に政府に反抗したが、政府は暴動を鎭壓し政黨を排斥し、反動の結果として殆ど事毎に其の反對に出でた。國是を定め是に向つて進む積りであるが、激烈なる競爭を經た事とて、何でも反對派を謬れりとし、之と異なる道に出づるを正しと心得、非征韓論、非政黨論、非自由民權論の立塲で事を决した。自由黨及び改進黨は同じく政府に反抗したけれど、自由黨は征韓論者の變形とも云ふべきであつて、自由民權を叫び、主權在民を口にしても、常に國權擴張を是認し、侵略をも厭はぬ方であつた。大隈は征韓論の時既に非征韓派と事を共にしたのであつて、政府に在つて薩摩の暴動を鎭壓するに從事した所もあり政黨を設くる際政綱に「内地の改良を主として國權の擴張に及ぼす事」といふを掲げた。是れ實に非征韓派即ち大久保一派の主張と謂ふべきである。謂はゞ自由黨は征韓論及び民選議院論を併せ、改進黨は征韓論を非とし民選議院論のみを執つた姿である。
斯くなつたのは其の首領の政府との關係からも來て居るが、外國より受けた影響もある。自由黨の思想は米國に因る所あつて、共に共和國として極端に自由を重んずると共に、米は兵力を以て國を起したものである。米國史を繙き先づ眼に映ずるは戰爭である。初期の大統領華盛頓が如何に苦戰したかを知る。而して佛の崇拜物は奈破崙である。前から其の名を慕うて居つたのに、佛に於ても三世の帝政をこそ倒したれ、一世の鴻業を思ふこと前に變らぬ。獨逸に破られ復讎戰を念としては尚更忘れる譯に往かぬ。佛國から歸つた者が奈破崙廟の壯嚴なるを説き、ストラスブルグ像の喪服を着けて居るのを説く。自由と戰爭と何の關係あるかを考へずして、早くも二者の離る可らざるを認むる。自由黨に壯士が多く、腕力を以て人を脅かし、動もすれば兇器を使用するに至つたのは、他にも種種の事情があるが、自由主義の下に殊に否認するの理由を見出さなんだのである。
改進黨に於ては最も重きを議院政治に置き英國の如く政黨が内閣を組織するやうに成るのを理想とし、他は多く問はなんだ。英書の多く行はれたのは、ミル、スペンサー等の著書であつて、スペンサーは極力武力を斥けて産業の利を説き、武力の時代が過ぎて産業の時代が來たとする。實際ヴヰクトリヤの治世は平和の間に國利民福が高まつて居つて、之を事實に見た者、之を書籍に讀んだ者は、皆眞の文明の彼の如くなるべきを思ふ。米國でも、獨立戰爭があつたにせよ、歐洲の如く軍備の心配がないので幸福であると考へられる。自由黨員の素養を察すれば知識の甚だしく淺いのが多く、漢學仕込であつて何程か米佛の事情を聽きかぢつた位である。隨つて封建の遺物で時代遲れであると云ふものがあつたが、實は此の觀察自から一方に偏して居つた。封建の遺物の方が實際の國情に應じて居つたのである。内地には何處迄も征韓論を否認した惰力があり、歐洲には奈破崙騷亂以來武力を斥ける現象があつたので、國權の擴張を後にするの當然となつたが、國家として立つ塲合斯くして長く過ぎ往かれるかは疑問であつた。
政府は征韓論に反對し民選議院論に反對した丈、自由黨と正反對の意見を抱き、改進黨と同じく内地の改良を主として國權の擴張に及ばうとしたが、大隈と爭ひ之を排斥した如く、大隈の模範とする英國の議院政治を悅ばず、何等か之に異つた所に出でやうとした。民間の政論は政府の施設の反動として現れ、政府の施設は民間の政論の反動として出でたのが少くない。當局者に一定の意見あるよりも、民間の政論を否認し、之に伴ふ運動を壓伏するに專らなる有樣であつた。
第七章 外柔内硬の窮極
政府は征韓論を否認し民選議院論を否認するの勢ひで進み、之に反對する何者をも壓伏しやうとした。既に薩摩の暴動をも鎭壓したのに政黨の如き何であると云ふ意氣込である。所が詰り此二事を重にする事になり、分類すれば一は對外政策一は對内政策である。初め二問題が關聯して出たのは偶然でない。
如何に外國に對すべきかは世界の趨勢より判斷するよりも、前からの行掛りで判斷するを免れず、征韓論に反對し、飽まで其の一派を追窮した丈、兵を動かすは政策の宜しきを得ざるものと認め、兵を動かさずして目的を達し得ると思うた。征韓論の破裂は權力爭ひに基いた所もあるが、更に由來の遠いものがある。大體に於て薩が征韓論、長が非征韓論であつた。大久保は薩人であつても伊藤の意見を容れることが多い。而して長州人は下關砲擊からして外國と武力で爭ふの不得策なるを信じ、實際當時早く兵を引いた爲に利益を得たのであつて、先入主となり、外國と葛藤を起すの無分別なるを認め、歐米の文明に觸れてからは尚更征韓論の亂暴なるに氣附き、腕まくりの議論は夢にも聞くことを嫌つた。歐洲列國の交際は禮儀を重んじて居る、辭令に注意して居る、衣骭に至り袖腕に至る服裝で外人に應接する抔誠に恥入つた次第と思ひ、其の連中が朝鮮に出兵するとあつては、三百年前の太閤時代に後戻りする者であるとした。何でも彼でも之を抑へねば國の爲に成らぬとした。而して既に之を抑へ附け、軍隊を以て其の一派を叩き潰した上は、文明流に列國と交際し、國家の體面を全うしやうとし、即ち條約改正に取掛ることに爲つた。取掛つて種種の故障を感ずる中にも、彼我風俗の一致せぬ所が最もむづかしい。兎角外人は東洋人として輕蔑するが、何故に輕蔑するかを尋ぬれば歐洲人の趣味に合はぬ所がある。何でも趣味に合ふまで風俗を同じくせねばならぬとて、歐洲人の最も好む所の男女混淆の舞踏の如きを盛にし、他にも色々と務めやうとした。(*句点ママ)が、特に此の點に於て務めた。鹿鳴館に絶えず内外人相集り舞踏を事とした。下手で中氣病みの樣なものも居つた。併しそれで目的を達したかと言へばさうでは無い。外人は舞踏に出席する酒を飮んで笑ひ興ずるが、條約改正の談判には依然として故障が起つた。
他の一方では自由黨員が夙に遊説して廻り、改進黨員も運動を開始したが、大隈の辭職する時、流石に政府に於ても棄て置かれず、十年後に國會開設豫約の詔勅が出て、其れ〴〵準備に取掛つた。民間では十年後如何になるかに就て當てが附かず、憲法の性質にも國會の性質にも疑ひが多い。或は欽定憲法の下に寡頭政治の行はるべきを思ひ、或は國會開設の曉に革命の起るべきを思ひ、中には徒らに十年を過ごすを待ち遠しく感じ、何がな事を起さうとして不穩の擧動に出でたのもある。政府は薩摩の暴動を鎭壓した程であつて、何でも暴動とあれば頭から抑へ附ける事になつて居る。偶鹿鳴館連夜の酒宴又は舞踏が頻に噂になつた。初め彼我の風俗を同じくし和氣藹々の裡に條約改正の歩を進めやうと云ふのであつたが、漸くして手段が目的に變じ、男女混淆からして醜聲が外に洩れた。たわいもなく巫山戯て居る計りである。而して改正案の内容の外に知れた所では、如何にも我より讓る所が多い。國家の體面を傷けると思はれるのに、上流社會の連中が毎夜鹿鳴館で巫山戲散らして居り、假裝舞踏を催して貴紳總出と云ふ有樣であつては何が何やら薩張り分らぬ、斯かる事に縁の遠い民間の有志家には尚更分らぬ。憤慨する聲が漸く高まつた。政府部内にも不平を抱く者があり、農相職にある谷は歐洲より歸り來つて封事を奉つた。板垣も建白し、他にも續々建白する者がある。必ずしも條約事件に關せぬ。外人と交際するに夢中になつて居りながら内國人を壓迫すること頗る激しく、言論集會等甚だ窮屈であると云ふので、三大自由の名に於て請願したのがある。
世間の不平を政略に使ふ者の出づるのは避く可らざる數であつて、一時政界を遠ざかり髀肉の歎に勝へなんだ後藤が此處で一賭博打たうと試みたのも尤である。丁亥倶樂部を起し、同志の士を集め、世間愈騷がしくなつた。所が、悉く暴動を鎭壓し來つた政府は此の邊更に鎭壓すべき所と心得、保安條例を執行し、騷がしい連中を宮城より三里以外に放逐した。放逐された者の中に十幾歳で何事も知らぬ者があつた。斯くて政府に於ては、外に對し只管外人の機嫌を取るに務め、内に對し警察と軍隊とを借りて少しも用捨せず、外にファンシーボール内にクーデター、實に外柔内硬の極點に達した。征韓論を壓伏し民選議院論を壓伏した騎虎の勢に任せ、外柔内硬を遺憾なく現すことになつた。事は明治二十年である。
第八章 非外柔内硬
明治二十一年神武天皇祭に一雜誌が出て國粹保存を唱へた。幾干もなく保存といふの不適當なるを感じ顯彰と改めたが、既に國粹保存の名が廣く世間に傳はり其の儘に通用することに成つた。是れ明かに當時の委曲を知つて出たのでないが、政府の外柔内硬に反抗し、外政内政共に國家自らの立塲を考へねばならぬと云ふに思ひ及んだのである。これ迄政治界に奔走した者は規則立つて敎育を受けたのでなく、大學出身者で早稻田に往來したのも學校の敎員としてゞある。所で新に官立學校出身が政府に反抗的の態度で打つて出たので世に幾分の刺戟を與へた點もあるが、國粹の語が瞬く間に廣まつたのは政府の施設が行詰り何とか勢が變ぜねばならぬことに成つて居つた潮合ひであつたからである。
政府自から從來の方針を一變するに至つたのは、其前から徴候のあつたことで、唯内閣の衝に當つた者が血眼になつて他を顧みる遑のなかつたのである。狹く言へば井上外相が夢中になつてゐたのである。何にせよ政府は外柔内硬を極めることに爲つたが、明治十五年伊藤は憲法取調の爲め隨行員と共に歐洲に出發し、主として獨國の憲法行政を參考にした。獨は日の出の勢で、剩へ尚ビスマルクが老軀を提げて頻に權力を振ひつゝある頃である。新帝國の活氣の盛んなるを目擊しては、何人も最も之に重きを置かねばならぬやうに爲つたが、内地の自由黨が米佛にあやかり改進黨が英國にあやかる所からして、之に鼻を明さうといふ矢先では、日の出の勢ひの獨國を持出すの得策なるを認めるは順序の自然である。加ふるに獨の政治は當局者に於て衆論に動かされず、自由民權に耳を假さぬので、我が從來の權勢家に都合好い所がある。憲法取調員が一も二もなく獨にあやかつたのは尤もであつて、如何に伊藤がビスマルクにかぶれたかは卷煙草の喫ひ方まで之に似、獨に在つて斡旋の勞を執つた井田が歸つてシガールビスマルクと嘲つたのでも推される。が其のシガールビスマルクは内政に於てビスマルクたるとも、外政に於てビスマルクたり得るを期したか何うか。之を希望したにしても容易の事でないとしたであらう。此處で人の思想に混雜を生じたのは國權主義と國家主義との混同である。一は外國の壓迫に對して國威發揚を主とし、一は個人の自由に對して國家統一を主とし、二者時として一致するが必ずしも一致すると限らぬ。獨國の政治にあやかつた者は政府の權力を強くしさへすれば善しとしたが、之を強くして果して國威が揚るかを問題外に置いた。併し獨國で二者合併の例を示したが爲め、世間で同一に見做す者が少くなかつた。其の誤解よりして色々の行違ひが起つた。
其れは其れとし、獨國は何事にも參考となり、陸軍には尚ほ更である。十七年大山が三浦、野津、川上、桂等を率ゐて歐洲に出發し、同じく獨に留つたが、桂は其の以前にも獨に居つたのであり、川上は頗る注意して觀察する所があり、竊に功名手に唾して得べしとした。十五年及び十七年に朝鮮に騷ぎが起り、事淸朝に密接の關係がある。穩やかに事を取計らひ天津條約を結んだものゝ、獨國の發展する所以を考へれば日本の支那と衝突するの避く可からざるを思はずに居れぬ。戰爭を避ければ避け得られるが、之を避けるのが國家の發展に宜いかは疑問である。普國は墺國と戰つて獨逸を統一したが、日本と支那と恰も普と墺との關係の如きでないかとは、獨に遊ぶ者の自づと心に浮んだ所であつて、特に川上及び桂が歸朝し鋭意刷新を圖らずに居れなんだ。モルトケを以て任ずるのがあれば、ローンを以て任ずるのもあつた。政府に於ては征韓論一派を全滅し、軍隊を以て内國の治平を維持し得るとし、平穩に外國と交際しやうとしたのであるが、朝鮮支那の事情を察すれば、其の儘にして居る譯にゆかぬ。其の中少壯軍人で軍備の對岸を主眼にせねばならぬことを説き出し、老軍人も漸く之に動かされることになつた。或る軍人の先見と云ふよりも殊に勢の然らしめた所である。何人が局に當るも此處に考へ及ばずに居られなんだのである。大山一行の中で後に議論の合はなんだものもあるが、併し陸軍に於て頻に準備を進めた。海軍に於ても支那より鎭遠定遠を回航し來り我を驚かした所があり、如何にかして支那に優るの海軍力を備へねばならぬと云ふことに成つた。軍備は最早對内の爲でなく對外の爲となつた。
第九章 對外硬の實現
黑田内閣の起つたのは國政の一轉機であつた。黑田首相が伊藤首相より識見の富んで居つたのでなく、制度上に成すべき事は大部分伊藤内閣で成し遂げられたが細目に忙しくして大綱に氣が附かなんだのが漸く氣が附くやうに爲つた。黑田内閣の閣員は十分に國家の立塲に氣が附かぬにしても、氣が附き始めたのである。固り伊藤内閣員も前來の非を悟り、外柔内硬は事の當を得たものでなく、更に國家として自ら重んぜねばならぬ事に思ひ及んだが、反對が烈しくして、一先づ手を引き、他人をして事に當らしめる事にした。次で大隈外相が新に條約改正に着手し、遂に大なる反對に遭ひ、辭職するの已むを得ざるに至つたが、前任者の手段に較べて確に進んだ所がある。國別談判にしたのも何の國とも對等たるべきに氣附いた所がある。其の案の整はなんだのは前よりも、成功らしいので功を急いだのであつて、反對の一層烈しかつたのは、前からの經驗で外交上の知識が擴まつたのに因る。
次で山縣内閣と成り、首相が初期議會に初演説した中、主權線と利益線とを擧げ「故に陸海軍の爲に巨大の金額を割かざるべからず」といふたのは特別の意義なかつたにしても國家としての位置を顧み一の國家として世界に立たうと云ふ心懸になつたのを示して居る。次で松方内閣と成り、普通の順序よりせば首相が主として財成に關係し來つた所から内治の改良を先きにすべき筈であるのに、軍備擴張に重きを置き、樺山海相が傍若無人の演説を爲し、解散に次ぐに無方なる選擧干渉を敢てしたのは、憲政に關する知識の足らなんだ所もあるが、軍備擴張の急を認め、何を差措いても之を實行せねばならぬ事を認めた所もある。國家の必要を名として私利を貪るの常であつたが爲め、之に反對するに相當の理由あつたが、政府は既に軍事上に準備し來つたのである。次いで伊藤内閣と成り、施政の方針は前と大差無く、條約改正に於て前任者の失敗に鑒み、幾分か改めて成功する所があつたが、若し之に先んじ國力の如何を示したならば、改正に何の面倒もなかつたのであらう。政府が外柔内硬を極めた結果として、其の漸く方針を變じた後でも、民間で對外硬を望み、曾て内治を先にし國權を後にした改進黨も對外硬の連合に加はつた。條約改正に就ては條約厲行といひ、何でも外に伸びずに居られぬやうに爲つた。政府攻擊の口實としたのもあつたが、口實と爲し得るのは、さる思想があつたからである。
松方内閣當時の官民の軋轢は内閣更迭しても依然として續き、僅に大詔煥發を以て切拔けた。在野黨は軍備の計畫を審にせず、征韓論以來常に他國との葛藤を恐れたのを見、徒らに負擔を重くして官吏及び奸商の懷を肥す位ならば何處までも反對する、折角の軍備なれば其れ相當の事を爲して貰ひたいと云ふのである。軍備に關する議論を决するには政府に於て一度必要を事實の上に現さねばならぬやうに成つた。陸海軍では功名を樹つべき時機を待ちに待つことゝて、如何にかして支那と戰爭の起らんことを望んで居る。樺山は明治七年臺灣征討の折にも支那との戰爭を望んだ程であつて、陸海軍は夫々準備し、準備が足らぬ樣であつても、支那と戰爭するには萬失敗なきを期し、苟も乘ずべき機會があらば戰はうとして居る。支那も日本に負ける氣はなく、袁世凱を朝鮮に派遣し自由に手腕を揮はしめた。ぬらりくらりして、平和的手段では容易に之に勝つことが出來ぬ、事を决するは唯武力であると我が性急な人は思ふ。支那に於ては日本の官民軋轢甚だしく、之に乘ずれば朝鮮の事を决するに難くないとし、何處までも戰爭を避けうとせず、遂に日淸間の開戰と成つた。日本では平壤が落つれば平和談判が開かれるだらうと考へた者もあつたが、支那では日本が遠く攻め來ると思はず、更に戰爭の長引いたが、我より將に大沽に向はうと云ふ所で李鴻章が馬關に來り平和談判を開いた。勝海舟は支那は更に退いたらどうであらうかと云ふたが其の邊は分らずに終つた。兎に角支那との戰役は首尾克く運び、或は演習よりもやさしいと言ふた者がある。即ち演習では相手が日本人であつて注意を要する事が多いが、支那を相手にするは無人の境を行くやうであると云ふのである。併し其れ迄には中々の準備が懸つたのであつて、天津條約を結んだ頃斯く容易に勝ち得る者とは思はなかつた。伊藤公がビスマルクに私淑すると評判された頃、山縣はモルトケに當る譯であつて、是等の人の居る席で井田の言ふにはモルトケが居つてもビスマルクが居らなくてどうするか、更に言ふにはビスマルクが居つてもモルトケが居らなくてどうするかと。所が伊藤も山縣も支那に勝ち、私淑する所に近づいて來た。而して人は川上を以て幾分かモルトケの任を果したものとする。明治二十年迄の政治の方針は其の後と變つて居る。對外軟より對外硬に變つた。漸次變つたのであるが、舞踏騷ぎの一盛一衰で變化が急劇に見える。征韓論以來政府は對外硬を壓伏するに務めたが二十年を經て自ら其の方針を進むることに爲つた。征韓論を破り其の一派をして内亂を起さしめたのは何の爲であるか、聊か辯解し難い所がある。
第十章 多年宿題の解決
二十七八年役は順境で續き、順境で終らうとしたが、三國干渉で頓挫した。引續き三國が勢力を支那に植附けやうとし、英國も之に讓らうとせず、日本が支那の弱點を暴露したが爲め列強を促して支那を分割させる始末になつたといふので、曩に戰勝を祝賀したのも一時の悅びと消え失せたと共に、自ら列國の形成(*ママ)を打算し、眼界が頗る廣くなつた。好事的に世界を語ると違ひ、世界を知り、世界に事を成すの避くべからざるを感じた。獨逸に學んだ軍人は日本も普の墺と戰ひ、次で佛と戰つたと同じく、既に支那と戰つた上は早晩露と戰ふの順序なるを認め、切りに準備に務める。軍備擴張には何程か事を公にするを要する。公にしては三國の爲に先を越される恐れがある。肝要な事は成るべく祕密にしたが、彼の露は油斷なく注意して居る。臥薪嘗膽の聲が空しく起つたのでない事も知つて居る。日本で陸海軍を増せば彼も要地の駐屯兵を増す。偶北淸事變が起り、列國軍隊の展覽會を催すの形となり、日英米が接近して露獨佛と対峙するやうになり、事更に進んで日英同盟の締結を見るに及んだ。軍人の計畫は祕密であつて、國民の多くは之を察せず、三國干渉の屈辱を憤り、屈辱當時の内閣及び其の後繼者を攻擊し、當局者に於て兵を以て立てば國民の同意を得ること愈々明白となつた。日本も露も互に準備を競ひ何れも他の準備の全からざるに乘じて之を懲さうと思つたが、日本が露を恐れ露が日本を侮つたゞけ、日本は多く警戒して眞面目に爲り、一たび砲門を開いてより連戰連勝の勢ひで進んだ。償金は取れず、土地も思ふほど取れず、軍費は大部分借金となつたが、兎に角世界の恐れて居つた露國に勝つたことゝて、頓に國威揚り、公使館を大使館に昇格するなど、強國の仲間入して何の恥る所なきに至つた。征韓論となり、國權論となり、對等條約論となり、對外硬となり、頻に國威の發揚を望んだ者は茲に滿足することになつた。對外論に於て官民の一致に近づいたと共に、對内論に於ても、政府より和衷協同と云ひ、妥協と云ひ、情意投合と云ひ、成るべく衝突を避けることになつた。院内の少數黨と爭ひ、時として之を威嚇するも多數黨とは出來るだけ手を握り合ひ、伊藤公は自ら政黨組織に從事した。後の内閣は多數黨を操縱し之に致されることが少いが、多數と共にする事を明言せずに居れぬのである。明治二十年迄の政府の外柔内硬方針は、爾後漸く變化して茲に殆ど全く一變し、少くも表面に於て征韓論者及民選議院論者の主張した通りに爲り、或る點に於て遠く其以上に出でゝ居る。是れより議會に於ける官民の衝突が减じ、時に起るにしても多數决で抑へて了ひ、議會は平穩無事、世間に政論が有るか無いかになつた。政論の材料は有り餘る程であるが、何分にも露國との戰役を經て國情が急に變じ、政黨の領袖連はたまげて腰を拔かした形がある。加ふるに物事が秩序立ち、既に文官登用規則が嚴格に行はれ、試驗の門を潜らぬ者は官吏となることが出來ず、一時政黨内閣の形を具へ、勅任官の任命が自由であつても、是亦次で制限され、大臣さへ事情附になり宮中の思召を伺はなければならぬことが知れて來た。何程功名心があつても、能力に富んで居つても、事情が許さねば政界に活動することが出來ぬと諦めるやうになり、其の上、議員の歳費が増額し、一度解散となれば容易ならぬ打擊を蒙る次第なれば、進んで活動するの希望なく退いて守るも尚位置を奪はれざるやの恐れあり、各自一身の爲に忙しき状態では、議會が開けても開けぬと同樣に見ゆるも致方なからう。國家に關する論題に就て大に爭ふの必要を感ぜず而して一身上の利害得失の頗る明白になつては、政界は愈益靜かになるの外なく、平穩を破らうとすれば少數者の徒ら事として笑はれる。三十七八年役は多年の宿題を解決したのであつて、其の終ると共に久しく政界に奔走した者は政論の骨子を失つた調子である。
第十一章 新問題社會主義
「來て見れば左程でもなし富士の山」尊王攘夷は幾變遷し、尊王は立憲政治となり、攘夷は二大戰役を經て帝國を強國の位置に進め、明治の初年に歐洲強國の風を聞きて希望に堪へなんだ所を事實にしたが、此が爲に以前より何程の幸福を享くるに至つたかを考ふれば聊か疑ひなきを得ぬ。何の世でも人の國家を思ふこと一樣でない。一方で危急存亡として騷ぐ時、他の一方で一向之に與り關せぬ者がある。同じく慷慨するにも種類があれば、同じく冷淡なるにも種類がある。寛政年間維新と稱し文武の業を勵ました。之を勵まして國家を振ひ興さうとしたのである。併し「世の中に蚊ほど蒼蠅きものはなし、ぶんぶと云うて夜も寢られず」と云ふ狂歌が擴まつたのは、蜀山人の作であつても無くても文武の獎勵を冷笑する者の少くなかつたのを示して居る。後に眞の維新は尊王攘夷の名に於て成り、明治時代は其勢を受けて進み、時代の發展は尊王攘夷の實現と云ふべきであるが、維新後尊王攘夷を口にすれば如何にも古めかしく聞え、尊王はまだしも、攘夷は全く過去の事となつて了つた。之と同じく一部の人が理想とし切望した所、又現に切望しつゝある所も他に一向與り關せず、或は其の反對に出でやうとするのがある。尊王攘夷を古めかしく感ずる如く、其の變形したもの、即ち民選議院と云ひ、征韓論と云ひ、之を口にするのも頗る古めかしく聞える。忠君愛國の情とても、一旦緩急あれば其の度を高め最も熾烈に現はれるにしても平時にあつては厚薄あるを免れぬ。或は世の中を茶にし眞面目を野暮とするのがある。
明治二十年迄は薩摩の暴動を鎭壓した勢ひで容赦なく不平連を處分したのであるのに、社會黨を設けたのがあり、日本の籍を免れ外國人の如く治外法權にならうとしたのがある。當時の社會黨は纔に歐洲に於ける社會黨の名を聞き其の如何なる性質のものなるかを知らなんだのであるが、名稱は既に存在し、噂にも議論にも上つて居つた。社會黨の實質を知り始めたのは明治十五六年より政府が獨逸の政治に則らうとしたのに伴つて居る。獨逸より歸り來る者はマルクス、ラツサル等の事を述べる、ワグ子ルの事を述べる。英米の書ほど廣まつて居らぬが爲め、其主義の廣まるのも遲かつたが、講壇社會主義の紹介されてより學理上に最も根據あるかに考へられ、急に實行し得ずとも理に於て正しとする者の増して來た。殊に新知識を以て自ら任ずる官吏は、ビスマルクを崇拜すると共に國家社會主義を政治上の福音の如く心得、直接若くは間接に事實になつた所もある。主義といはず、寧ろ社會主義と呼ばるゝを憚つたが自から主義あると信じた形があつた。
併し温和なもの許り行はれる譯にゆかず、少數ながら國家社會主義に反對し、民主社會主義とも云ふべきを唱へたのがある。其の人を見れば貧にして言ふに足らず、其の爲す所も僅かばかりの小册誌を刊行するに過ぎぬが、世間を騷がしたこと少くない。三十七八年役まで左程注意を惹かず、書生の惡戯位に考へられたが、戰役の爲に國威が揚り、強國の仲間入りし國家として大に誇るべき位置に上つたと同時に一國を標準とせず、世界を標準とし、世界に於ける人類として如何にするが最も幸福なるかを考ふる傾向を生じた。俄に變化の起つたのでなく、西園寺文相の頃から世界主義の名が用ひられ、侯自ら其の獎勵者であると傳へられたが、世界の強國と戰ひ之に勝つては、觀察の範圍が頓に廣くなり、動もすれば東西南北を一目に見るやうな感じをする。日本は世界を相手とすると云ふ半面、日本のみが國でない、日本が厭ならば何處へでも往くが宜いと云ふことになり、曩に自由民權を唱へたのは國家内に自由を求めたのである、國家が世界に打つて出た上は更に世界に自由を求むべきであるとするのがある。固り明かに之を意識し之を求める(*ママ)者は極めて少く、殆ど有るか無しであるが、之に興味を覺ゆる者は色々ある。何程か學校で知識を得、猶血氣の定まらざる者は國家に束縛せられぬのを頗る面白く感じ、或は世界的の社會黨に加はらうとし、或は世界的の無政府黨に加はらうとし、夢見たやうな話でも夢に面白味を感じた。
第十二章 不平の由來
封建時代に士族が祿を食んで職務に從事した。祿だけで生計を立て、收入の如何を心配するを卑しいとした。而して國事を議し、少くも議論を發表する者は殆ど此の階級に限られたが、廢藩置縣と共に常職を解かれ、各自職業を求めねばならぬことになつた上、義務敎育の下、士農工商悉く幾分の敎育を受け、知識が漸く平均することになつた。初めは義務敎育は義務敎育に止まり、餘儀なく小學に入る有樣であつたが、全國の兒童が小學に入れば、勢ひ中學に入る者も多く更に高等の敎育を受る者も増すべき順序である。強めて言へば己れの利害得失を基礎として議論する者の増すべき順序である。
代々祿を受けて職務に從事する者なく、或る一小部分を除き、悉く己れの手腕で位置を求めねばならぬ事になつても、封建時代に於ける上下の差別の殘り、旁官吏たるを最も望ましい位置とし、稍功名心ある者は概ね先づ之を得やうと心懸けた。政黨運動に奔走した者も私情に於て官吏たるを欲したのが少くない。如何に民間の有志家が初め奏任御用掛となり、後に憲政黨内閣に際し獵官運動に熱中したかを以ても推される。が文官登用規則は嚴重である。且官吏に登用さるゝ人員に限りがある。既に試驗に及第して官職を得ないものが計ふるに堪へざる程であつて、甚だしきは巡査になつたのもある。此工合では官吏たることを斷念せねばならぬといふこと、誰れ言ふとなく一般に知れ渡つたが、飜つて現に官吏となつて居る者を見れば、俸給を受けるが上に位階勳等がある、或は爵がある、之に伴ふ特權がある。支那に勝ち露國に勝てば先づ利益を受ける(*ママ。以下注記せず。)は官吏である。論功行賞さるべき位置に置かれて論功行賞され、食はして貰つて規定通りのことを爲し其れで別階級の人として取扱はれる。官吏たらざる者は何の能力あつても何の經歴あつても全く捨て置かれ只政府に金を獻じて四位以下勳三等以下を受けるだけである。天子の恩寵は此の邊に限られるのであるか、官吏より能力があり之よりも多く働いて之より惡く取扱はれては、國家に屬して何程の利益あるか、考へ方は區々であるが、何程か斯る結果に落着かうとする。
而して不十分ながら高等敎育を受た者が多くなり、相當に議論し得る者も少くない。舊士族ばかり議論するのでなく、農工商も自由に議論する。特別に歐米より個人主義を採らぬでも自然の勢ひとして自分の立塲を考へ國家より何の利益を受けて居るかと疑ふ。况して個人主義に基いた議論の纒つたものを耳にしては己れだけのことを考へるやうになる。忠君愛國は何の爲であるか。官吏は頻に忠君愛國を説き、敎員は之を生徒に説くが、彼等は斯くせねば己れの位置を失ふのである。忠君愛國を事とすれば、位階勳等が上り、爵なきは爵を得、爵あるは爵が上り、宮中に出入することが出來る。忠君愛國の心あつても官吏とならねば是が爲に何の利益を得ず、官吏の爲に怒鳴られ踏附けられるに過ぎぬ。何の利益もないことに忠君愛國を強ひらるゝならば日本ばかりが國でないと云ふやうなことを言はうとする。組織立てゝ主張する者は甚だ少いが、斯かる調子に談話するの珍らしからぬを認めぬ譯にゆかぬ。二千年の歴史もあり、忠君愛國の念を減じやうとしても减ぜず减じたと見えても何かの折に必ず勃然として起り、之に重きを置かぬのは恰も夏の日に太陽の暑きに過ぎるに苦情を言ひ太陽を有難がらないのと同じであつて、冗談半分に話す所もあるが、國家に對する懷疑思想が全く無いではない。個人主義は樣々の形で現はれる。必ずしも國家と撞着せぬ。必ずしも不平に伴はぬ。併し不平に伴ひ國家と容れぬものもある。
第十三章 無政府主義
國威發揚の結果に滿足せず、立憲政治の結果に滿足せず、從來の國家の經過に滿足せざるものは、分つて滿足せぬか、分らずに滿足せぬか、孰にしても別に何事をか求める所あるが、求めても是ぞといふ事なく、無い中に望ましく又は望ましさうに思ふのは現在の國家を改造するに在る。而して如何に之を改造するかは容易に考へ得べきでない。考へたとて空想妄想に屬し、之まで一人も順序を追つて改造法を説いた者がない。併し漠然之を考へる者は少くない。自分だけで順序を追つたとする者もある、或は實行し得られぬことを實行し得るが如く考へて自ら慰めるのもある。兎に角現在の國家的組織の外に出で、得べくんば新組織にしやうとするのであつて、一應國家に對して個人主義の側に立つ。唯明白に個人の意義を認めぬのがあり、社會主義との關係は頗る曖昧に流れる。社會で事業を爲すとなれば個人主義と衝突するが、個人主義の儘で社會主義を實行し得ると考へたりする。國家社會主義の下に個人の活動範圍の狹くなるは明かであるが、自ら考へるやうな社會主義では各己れの欲する通りに爲し得られさうであつて、社會で組織立つて事業を爲すか爲さぬかを深く問はうとせぬ。元現在の國家に慊らず之を何うにか仕やうと云ふので、最も烈しいのは現在の政府の如きものを無くするを主眼とし、即ち無政府主義と何程の差がない。數は甚だ少いが幾人かはあつた。
多少歐米の社會主義に關する書籍が入込み、其の思想も擴まつたが、歐米と國情が違ひ、目立つた富豪が少く、貧富の懸隔が甚だしくなく、雇人と被雇人とも左程爭ひはせぬ。貧者が富者と財産を共有にしやうと企つるに至らぬ。併し何處となく不滿足であるとあつては、差當り政府で階級を嚴重にし、或階級が能力の如何に拘らず猥りに他の上に立ち、人も無げに之を取扱ふのに立衝きたくなる。他の國では資本主に對する勞働者の示威運動となるのであるが、日本では夫れよりも政府に關聯して特權を占めた階級に向ふのである。富豪に不平なのも官吏に不平なのと同じく、政府の保護で威張るといふのを忌々しく感ずるに過ぎぬ。貧富よりも威張る威張らぬが先になる。初め社會主義の書を讀み之を悅びもしたが、何時しか書類で讀んだ社會主義と違ひ無政府主義に近づき、更に無政府主義者の言行を取調べて愈之にあやかつたりした。マルクスよりクロポトキンに傾いた。無政府主義に政府を破壞して理想的の政府を組織しやうとするのがあり、政府なしに社會の秩序を維持しやうとするのがあり、一切の政府を破壞し、世界悉く個人の存在ばかりに仕やうとするのがある。日本では初め種々の點より社會主義を攻究(*ママ)し、同じく社會主義を是認すと言ひながら、相互の意見の殆ど正反對となるに及んだ。現在の政府に益專賣を勸め、成る可く民間の事業を之に移さうとするのがあり、現在の政府を破壞して總を平等にしやうとするのがあり、或は主義と言はず或特別の政府に就て考ふるのがあり、温和なるもの、急激なるもの、區々である中に、少數の急激なる者が現在の秩序を紊さうと試み、政府に於ては何處までも之を鎭壓しやうとし、遂に無分別なる者が飛出した。裁判所では事の始末を公けにせず、普通に所謂大逆事件の名で知らるゝことになつた。
大逆と云へば國民に於て名を聞いてさへ恐懼して措かざる所、政府で如何に之を處置しても異議を挾まうとせぬ。裁判の秘密に就て疑つたが、疑つたよりも爆裂彈といふに驚いた方が多い。大逆事件は無政府主義で其の主義は社會主義より出でたりとせば、嚴重に社會主義を取締らねばならぬことになる。政府に於て果して嚴重に之を取締ることになり、苟も社會主義に關係あるらしき事は悉く差止め努めて國民をして社會主義を蛇蝎視せしめ若くは忘れささうとした。曾て官立學校に於て社會主義に關する學説を講じたのを差控へさせ、國家社會主義も名稱の誤解され易いとて成るべく之を用ひさせぬことにし、社會政策の語さへ餘り用ぬに若くはないとした。佛なり、獨なり、社會黨員が年々増加し、最も秩序的との定評であつた英國でも頓に社會黨の勢力が増し、純粹の社會黨と云ふが當らねば類似社會黨と云ふべき者の發展し來り、何處でも社會主義は問題となつて居るが、日本では火の消えたやうな有樣である。而して噯にも之を口走る者がないのは大逆事件で大打擊を被つたからである。日本では上下之を怪まず、當然の事として居るが、他國の社會黨員は其の今後如何になるべきかを論じて居る。無政府黨員は大逆事件に就て彼此言うて居るにしても、是れ各國で鎭壓するに努めて居る所であつて、世間には殆ど聞えぬ。併し明治十數年後少しづゝ芽を吹出した社會主義は此の儘で消滅するか何うか。社會主義の名は聞えぬが、東京の電車同盟罷業を初め同盟罷業の稍規模の大なるものが初まつた。或は無政府黨に近い社會黨の消滅し經濟に基づける社會黨の起らうとする前觸ともいはれる。
第十四章 自己實現と自暴自棄
個人主義といへば國家又は社會と相對することが多いが、斯く國家又は社會と相對せずして、同じく個人を主とするのがある。時として混同するけれど、物は違ふ。即ち國家に屬して何の權利義務あるかと云ふのでなく、社會に屬して何の利益損失あるかと云ふのでなく、相共に生存する群集の中で如何なる位置を占めて居るかと云ふのである。國家社會を組織すると否とを問はず、群集に對するのである。此の點に於て大略二種に區別し得る。積極的消極的と云つても宜い。
積極的なるは自己實現とか奮鬪主義とかいふ類を含むのである。是は何の世にも何程か獎勵されて居る。陽氣發處金石亦透、精神一到何事不成の語が廣く記憶され、明治になつて生當雄圖蓋四海、死當芳聲傳千祀、功名非遠超群、豈喚足爲眞男子といふが如き頻に書生の間に行はれたのも夫れである。併し新に歐米より思想の入込み之を強めた所もある。スマイルズ自助編は人を奮發さした(*ママ)こと少くない。企業心を促すと共に、人に依賴せず自らの力で自らの運を開くべきことを勸めた。天は自ら助くる者を助くるとは如何にも格言らしく受取られた。斯かる點で近く人を刺戟したのはニイチエ、ルーズヴエルト、マーデン等の書であるが、ニイチエは一面に於て尊大にし、一面に於て卑屈にし、結果より觀れば奮發させるよりも捨鉢にならしめる傾向があつた。ルーズヴエルトは近來の豪傑として人の耳目に映ずるだけ、何等議論の言ふべきものないにしても人の意を強くする所があるが、其の上奮鬪生活を説き、自ら東奔西走して之を事實に示して居る。新聞上の電報のみで可なりに人をかぶれさした。新興國の北米を代表するものであつて、競爭の激烈なる今の世界では何人も斯くあらねばなるまいとて、其の突飛な運動に賛成せぬにしても何處となく之に面白味を感じて居る。マーデンは人物に於て此等と較べ物にならぬが、頗る通俗的であつて靑年に及ぼす影響は中々廣い。敎科書として用ひられたからでもあるが、プツシング・ツー・ゼ・フロントと云ふが普通の語となつたのを以ても推される。靑年にルーズヴエルトたることを敎へたやうな所がある。元氣を説き勸めるに相應して居る。併し之に似た書類は他に幾つもある。日本の著書にも色々ある。
消極的なるは内省とか諦めとか悟りとかいふ類を含むのであつて、狂歌問答に世の中は喰てはこして寢て起きてさて其の後は死ぬる許りぞ、とあるも其一例である。併し悟りなんかさう開ける者でなく、開ければ惡る悟りが多い、自暴自棄になり易い。ニイチエの一面を得て捨鉢を得意とするのがあつたが、兎角さういふ事になる。人の奮鬪し努力するを冷笑し、何を目的として死物狂ひになるのであるか、名譽に囚はれ金錢に囚はれ習慣に囚はれたのでないか、有の儘をさらけ出したならば狂氣沙汰と異らぬでないか、己れは何であるか、如何に何故に生活するかと考へ、懷疑の後に眞實が分かるとするのである。が、眞實は容易に分からぬ。大抵の所で罷めてしまふ。分つた樣で分らず、分らぬ樣で分つたと思ひ、何でも氣に喰はぬ、何でも馬鹿にしたくなる、馬鹿にしても破壞運動を試みるのでない、自分だけ馬鹿にして通らうと云ふのである、寧ろ馬鹿にした事を口走つて通らうと云ふのである。文藝を好むものは政治に冷淡であつて、國家改造と云ふやうな事を思ひ立たぬ、社會主義と云ふやうなことも面倒である。飮んだり食つたり寢轉んだりして分からう(*ママ)とし事を成さうとする。何かに附け人に意見を言はれ小言を言はれる、其の意見小言を聽くべきかどうかと云ふのである。父母から彼此言はれる、男ならば妻に小言を言はれ、女ならば夫に小言を言はれる。然る關係は誰が極めたか、人が極めたのならば、己れも人である、己れの事は己れがすれば善いではないか、人は今一層自由なる生活を送り得べきでないか、斯く考へたりする。治安妨害を以て目せられること無く、其の點は至極無難であるが、風俗壞亂倫常破壞といふやうな事を以て目せられることがある。
積極的なるは人の活動を必要とする以上事の當然とすべきである。國家又は社會と如何の關係なるかは人々に依つて違ふが、世の進歩の爲に缺くことが出來ぬ。消極的なるは人の反省を促すか、又は失意者の慰藉となる所がある。自己實現に快よからぬ者、又は自己實現に失敗したる者は諦めの説を喜ぶ、或は自暴自棄の話を面白しとする。此等と稍類を異にして生活難就職難の問題がある。社會主義者は己れの主義でなければ之を解决することが出來ぬとするが、今や社會主義を口にする者がないので、或は政治經濟の方面より論じ、或は敎育より論じ、或は奮鬪が足らぬからであるとする。而して之を訴へる(*ママ)者は自暴自棄とならぬでも、之に似た調子になる。
第十五章 主義主張
維新前尊王攘夷が國論と稱すべきものであつた。明治になつて征韓論の爭ひあり、民選議院論の爭ひあり、其の後色々と主義の爭ひあり、憲法に關し主權在君主權在民等の爭ひがあつた。經濟に自由貿易保護貿易の爭ひがある、貨幣に關し單本位兩本位の爭ひがあつた。何の方面にも何等かの主義の聞くべきものがあつたが近來主義として掲げられるのは甚だ少く、偶掲げらるれば頗る漠然たるものである。政黨の爭ひは、主義の爭ひか、手段の爭ひか、明白でない。他の方面もさういふ形跡がある。是れは二樣に見るべきである。舊組織の破れて新組織の成立の時、簡單に方針を示すべき主義が現れる。大なる變動の起る時、必ず主義がある。維新の變動で尊王攘夷の主義が發表せられた。歐米に於ける變動で自由主義が發表せられた。併し近來國内に大變動と云ふものが甚だ少い。新に主義を定める必要がないのである。
次には社會の事情が複雜になり、何事も事情が入組んで居る。抽象的なる主義を考へるよりも之を實地に適用するが困難である。同じく議論するにしても抽象的なるは略既に説かれて居る。只之を實地に徴し難いのである。單に自由主義と云へば何も議論する程のことはない。如何に之を實地に見るかと云ふので六ヶ敷なる。單純なる主義だけでは議論にならず事實に當篏るに忙しいので主義の分らなくなつたのもある。我は至善に止まり、正義を以て立つと言へば、誰とて異義(*ママ)を容れぬ。併し言ふた丈けで何の効能はない。如何なる主義であるかよりも、如何にして種々の問題を解决するかゞ主になる。十百の問題を解决する内、相互に矛盾するのがあり、相互に矛盾せぬのがある。其の矛盾するのを主義が一貫せずと言ひ、矛盾せぬのを主義が一貫すると云ふのである。謂はゞ運用の妙一心にある。一心が何の状態なるかは豫め言ふを要せぬ。縱横に運用する間に之を察することが出來る。
大體に於て今日まで尊王攘夷の精神で續いて來て居る。名は色々と變つたが、立憲政治となつて執權者が我儘勝手に政治を行ひ得ぬと云ふ所で王道に近づいて居り、二大戰役を經て妄りに外國の爲に利權を侵されざる所は略攘夷の目的を達したのである。併し現に民の貧窮なのは多い。稼ぐに追附く貧乏ありと見做すことがある。王道が一人も其處を得ない者の無いやうにすることになつて居つては、王道もまだ十分に行はれて居らぬ。之を如何にすべきかに就て議論の餘地が多い。二大戰役を經て強國に列することになつたが、列強頻に軍備を整ひ(*ママ)、最も平和的であつた米國も今は日本を凌駕するに務めて居る。支那も動搖治まらず、列強は鵜の目鷹の目之に注目して居る。日本は中々安心する譯にいかぬとあつては、まだ攘夷の實が擧つたとは言はれぬ。如何にせば國家が最も安全であるか、議論の餘地が多い。併し議論は列國の關係を考ふる所なくてはならぬ。今でも交通機關が不十分であつて事毎に世界の事情を察することも出來ぬが、年を追うて世界を狹くするに傾く。尊王攘夷の語は近世の歐洲で使用せず、聞いて頗る野蠻と考へるであらうが、野蠻と考へられてから四十五年を經、世界共通になつて敗を取らぬ丈の位置に進み、足らぬ所あるにしても、今後益進歩する希望あるのは知つてか知らずしてか、一定の方針を指したのである。多くの主義主張は殆んど皆之に與かつて居る。
第十六章 和學漢學洋學
主義を立つるは信ずる所あつての事であるが、信ずるに程度がある。一生を委ねやうとするのがあり、單に是認するのがあり、多分宜さゝうとするのがあり、色々ある。普通に知識と稱するは種々の程度のものを混合し、可もなし不可もなしといふ部分が多い。學問として修むる所は知識の分量が多いにしても、只記憶して居る丈なのが大部分である。記憶して居る中に自づと信ずるのがあり、自ら信ずると思はずに信ずると同樣になつて居るのもある。主義を以て爭ふのは何處にも見ると云ふ譯に往かぬが、主義と云ふ程でなしに相爭ふは少くない。
維新後に和漢洋の旗幟頗る鮮明になり、靑年は己れの好む所、家の事情に依り、其の何れかを選んだ。德川時代は大體に於て學問即ち漢學、漢學即ち學問であつたが、本居平田等を經て和學國學皇學等の名に於て略之に拮抗し、維新の當時殆ど兩立の姿であつた。漢學には和學よりも人物の多かつた爲め、漢學關係者が比較的多く政治に與り權威を振つたが、王政復古の名に伴ひ、和學は皇祖皇宗の國家に缺くべからずと認められ、多少之を修めねばならぬ事になつた。併し和學で實際を何を爲すべきかゞ分らぬ。神道を興し廢佛毀釋を事としたが、引續いて見るべき成績を擧げるがむづかし(*ママ)。目的を立てゝも手段がない、あつても之を遂げる人がない。隨つて絶ゑず(*ママ)皇室と密接の關係あるやに考へられつゝ、世間に特別の活動を演ぜず、神道は神官の取扱ふに任せ、是れ以外には國文學として諸學校に古代の文學を敎ふるが主になつた。漢學は學問と異名同體であり、德川の歴史は儒者の歴史と言ふべき程であるのに、明治になつて老儒が一人死に二人死に、死ぬると共に儒者が漸く消滅し、さしもの漢學も儒學も漢文學として保存せらるゝ樣になつたのは何であるか。和學が古代の言語文學を解釋するを主にした如く、漢學は支那古來の言語文學を解釋するを主にしたが、元と之を解釋するは、據りて知識を得やうといふのである。
所で儒者が重んずる知識は治國平天下の術である。格物致知といひ、自らも不才不能であつても、學問の目的を問はれゝば、修身齊家でなければ、治國平天下と答へるのに極つて居る。治國平天下の爲に、周以來唐宋明の法律制度を參考する必要があるので、副島が早く外務卿となつたのは、漢譯萬國公法に通じて居つた所もあるが、左傳で國際關係を承知して居つた所もある。治國平天下の點に於て漢學より知識を得ること少くなかつたのであるが、歐米と交通し歐米の知識を得るからは法律制度の事も、同時代の國の方が實際に適切である。唐宋を參考にするは如何にも廻り遠い。只政治は術であつて學でなく、才幹があれば學ばずして事に當り得るが故に漢學ばかりで育つても相應に任に堪へたが、法律制度となれば、歐米に整つたのがある。况して學術技藝となつては猶更である。漢字の媒介に據りて得る所よりも、洋字の媒介に據りて得る所が遙に多い。儒敎の目的は治國平天下であつて、此の目的を達し得さへすれば宜い。技術の末に至つては、何處にでも、誰からでも、學ぶげきであると云ふのである。聖堂に牛耳を執つた古賀の三代目なる茶溪が洋學校を監督し、後に帝國大學となるべきものを創めたのも、漢學と洋學との連絡を認めたのである。明治になつて儒者が有るか無しになつたのは、儒者の名が消滅して敎育家となり、村夫子が小學敎員の列に入つたに過ぎぬ。連絡は甚だ明かである。名が變つても、形が變つても、別段に差支ない筈である。併し治國平天下の根本とも云ふべき道德に至つては日進月捗といふこと無く、昔から言ひ傳へられて居る所で今に當箝(*ママ)るのがある。日本民族に初めから道德的關係が存在して居つたのをば、漢語で言ひ表はして忠孝を主にし、さる標目を立てゝ解釋するには、漢學が頗る便利となつて居る。歐米を參考にしても、社交的の事は兎も角、道德に關し特別に優る所あるとも思へぬ。修身齊家のことは從來敎へられ來つた所が習慣に合つて居る。と云ふので、之を最も明白に言ひ顯し、廣く世に示すの必要を覺えたのは少くない。敎育勅語は思召に出て居るが、時の當局者に斯く考へたのがある。其の諸學校に修身の基礎となつた所を見れば、漢學は尚可なり廣く行はれて居ると云つて宜い。純粹の漢學でなく、或る人が三日間元田を説いたなど、隨分苦心の跡あるが、漢學で解釋することが出來る。元田は勅語を朱子の系統とした。斯くなつては朱子學も容易ならぬことになるが、併し漢學は之を外にして只漢文學として遺つて居る。
和文學と漢文學を除けば他は悉く洋學の範圍に入つたやうであるが、洋學とは西洋の語を學び、語を借りて知識を得ることである。既に知識を得れば語は如何樣でも宜い。知識に國境はない。日本は國を鎖して他國の知識に接しなんだが、之を取り入れてからは、水の低きに就くが如く、次第に平均して來た。洋語を用ひなくとも知識を得ることが出來、知識を擴めることが出來る。それで洋語を學ぶは外國語學校のことゝし、普通の學校では知識を得るを專らにし、洋學の名も無用に歸し、何時しか消滅して了つた。今は和漢洋といへば、如何にも古めかしく聞える。
第十七章 佛敎
神儒佛三敎とは、宗敎方面から言ふのであるが、後に學問の上で國文學漢文學と云ふ如く、佛敎にも學問がある。神道は宗敎であるとか無いとかの議論があり、先づ主として祖先の祭典を事とし學問と密接の關係がない。儒敎は前に儒者が司どつた所と違ひ、敎育勅語の關係を離しては、漢文學として殘つて居る。支那哲學の名稱を設けてあつても、儒者と稱し儒敎を受持つ者は極めて稀である。和學は初めから文學を主にしたが、漢學が學問の別名からして單に漢文學に限られたのは大なる變化といはねばならぬ。所が獨り佛敎は依然として德川時代の状態を續けて居る。廢佛毀釋に大影響を被つても其の後漸く恢復して兎に角七萬の寺院十萬の僧侶を維持して居る。殆ど他の一切の事は新なる境遇に應じて變じたが、佛敎だけは變化が甚だ少い。法律制度が支那よりも歐米を參考にし、他にも歐米を參考にした者の多い所から見れば、基督敎が入込んで佛敎の衰へる筈であるのに、若し衰へたとすれば、知識ある階級に輕んぜられたことであつて、基督敎に取つて代はられる勢があるのではない。基督が擴まつても、何處に風が吹くかといふ調子である。是は佛敎が優つて居るのであるか、基督敎が劣つて居るのであるか、優劣も樣々に判斷すべきであるが、詰り佛敎が學問として割合に進んで居り、基督敎が學問として割合に進まなんだ所がある。
知識より言へば歐米にて進歩の最も遲れたものは基督敎である。古代猶太の傳説を信ぜねばならぬとあつては、二人三脚で走るよりも尚窮屈である。とても當り前に進めぬ。進めずに遲れながら、今猶盛んであるのは日常の生活に伴つて居る爲である。平生知識を要せぬことは色々ある。大抵の事は別段深く考へたりせぬ。基督敎は知識に於て中世相當であつて、日常の事が中世より引續いて來て居つては、中世のまゝ祈禱したりする。經文が眞理であるかないかを尋ねるを面倒とする。世が文明になるに連れ、習慣が良くなり、基督敎信徒の行ひも良くなり、未開地方と較べて如何にも品が高い、誠に較べ物にならぬ。併し習慣の違つた他國へ持込んで何の點が優るか、天草騷動の頃幻術の類に於て優つて居つたが、後にはさう云ふことをする譯にも往かぬ。神學は他の方面の知識の進むに伴ひ、絶えず改まつて來たものゝ、習慣で信じて居るものに尤もと聞えても、信ぜずして既に或種類の知識に富んで居る者には頗る淺薄に聞える。知識は猶太よりも印度が進んで居つた。宗敎關係の知識ならば佛敎の一切經は大抵收めて居る。經文の幾分かを讀んだ者は、先刻承知といふ鹽梅である。信徒は固り斯る知識に關係なく、多くは愚夫愚婦であるが、此等は知識なくても既に鰯の頭をさへ信じて居る。基督敎を説附けられても容易に從來の信仰を抛たうとはせぬ。難しいことを言はれゝば分らぬのである。難しいことの分る方では佛敎に相應の道理あることを知つて居る。バイブルに成る程と感ずることが少い。峩山は百合の花の喩に感心したが、感心すればさういふ樣な事である。基督敎は文明圏の宗敎であるとし、文明を媒介にして之を奉ずる者、建築及び組織に於て寺院よりも教會を好ましとし、趣味に於て之に傾くものを除き、佛敎より基督敎に移らうとするのは甚だ少い。爲に佛敎は基督敎に領分を蠶食せられたといふ程の事がない。
斯く宗敎の方面で基督敎に對抗し得たが、學問の方面で別に哲學に對抗すべき關係になつて居る。歐米では宗敎と哲學とが別れ、分業して進んだが、哲學は神學より進んだにしても他の諸學科の進歩に伴つて居らぬ。近世の進歩は概ね科學の進歩に應じて居るのに、哲學は科學の外であるなどいひ、成るべく科學と關係なしに居らうとする所、中世哲學者の態度と大差なく、近世だけに何程か緻密を加へたにしても、他の事物に較べて中世に屬する部分が多い。科學と關係の多いのは格別、其の少いのは殆ど盡く佛敎の内に見出すことが出來る。ヘーゲルなり、シヨペンハウエルなり、論理の順序に於て佛敎にない所があつても、概括して云へば珍らしくない。シヨペンハウエルの如き、佛敎者の内へ入れても差閊ない。佛敎は悟を目的として練修する丈、却て妙味を覺える所がある。只練修の程度如何は疑問である。併し佛敎は哲學に負けぬにしても、哲學の爲め幾分か解釋の方法を改めた所がある。佛敎は各派に分れ、敎義の解釋に統一を見出し難かつたが、多少哲學の知識を得てから、連絡を見出すに困難を感ぜぬやうになり、靑年佛敎者が早く敎義を解したと思ふのも其の影響であるとして宜い。上滑りしても、呑込は早い。新佛敎といふのも哲學の影響が少くない。併し歐洲で基督敎が遲れて居り、哲學が遲れて居り、十分に佛敎の變改を促すの力ないため、佛敎は幾分か改つても、他の方面の進歩に伴はぬ。變化を餘儀なくされぬだけ安全であるが、其れだけ發展の希望も少い。
第十八章 進化論
歐米の思想で影響の最も廣きに及んだのは未開、半開、開化と云ふ類のことである。野蠻の迹があつてはならぬ、文明開化にならねばならぬと云ふのである。明治の初め開化の語が通り言葉であつた。何事にも開けたとか開けぬとか云ひ、如何なることが開化であるかを確めずに、開化と云へばそれで明に分つたやうに思ふが、其意義を確めるに與つて力あつたのはギゾー及びバツクルの書である。文明史とも云ひ開化史とも言ひ、當時の洋書で是程高尚なものはないとされ、慶應義塾で之を最上級に置き、福澤の文明論の概略も之に由來して居る。加藤大學總理が日本開化史の著述に取掛り、瀨戸内海を地中海に比較したのも之に由來して居る。苟くも洋書を繙いた者の頭腦をば、直接若くは間接に支配したのは文明史であつたと云うて宜い。
所が明治十年頃エヴオリユーシヨンの語が傳はつた。スペンサーの書を通してダーウヰンの書に及んだのであるが、知つた者は大學内の數名に限られた。了解したかせぬかといふ樣な所である。十一年モールス(*ママ)が米國より來つてダーウヰン、ハツクスレー等を紹介したが、兩手で同時に黑板に描いて人を驚したのと、人間は猿の種類から出たと説いたので忽ちにして世間の好奇心を喚起し、其の上汽車で往來しながら大森に土の盛上つた所を見、之を發掘して太古土蠻の遺物を得、次で各地で此類の物を發掘することが行はれ、科學の力が何邊に及ぶか測られぬと思はしめた。稍之に遲れてフエ子ロサ(*ママ)が來り、スペンサーの社會學を講じ、社會が如何に野蠻より進み初めたかを説くこと掌を見るやうである。其の社會學は出版せられてから一二年經た丈であつて、漠然文明開化の語を使用した者も、之で順序を追うて理解し得るやうに心得た。初めエヴオリユーシヨンは變遷と譯したが、漸くしてチエンジと違ふとし進化と改めた。進化の語は翼を生じて飛び、新知識に心懸ある者は頻に進化を口にし、進化とさへ云へば問題は解决せらるゝかに考へた。新に歐洲より歸つた穗積敎授は法律の目的は進化を助けるにありと説いた。加藤も開化史を止めた許りでなく、以前の著書を絶版にし、改めて進化論に據ることになり、人權新説を手初めにした。此には色々反對があつたが、進化論には殆ど反對がなかつた。其の基督敎に禍するを恐れ、米國から雄辯で評判あるクツクが來つて反駁演説をしたことがある。
フエ子ロサは初めスペンサーの社會學を講じたが、次で大學で哲學を受持ち、カント、フイヒテ、ヘーゲル等を紹介した。固り概略であつたが、進化論に伴つて科學萬能らしく思はれた所へ如何にも耳新しく聞えた。唯物論に對する唯心論である。主觀客觀の立塲が正反對である。科學に趣味なくして科學に壓迫せられた者は蘇生の思ひを爲し、其れより其れへと傳はつて、スペンサーは哲學に於て言ふに足らぬとした。實にスペンサーの哲學に大打擊であつた。併し進化と云ふを打消さうとせぬ。從來の解釋を取らぬにしても、ヘーゲルが異れる(*ママ)論理で同じ方向を指すので、經驗的の知識より更に根柢あるやうに考へた。シヨペンハウエルは未だ顯れず、進化論は抵抗すべからざる勢を以て擴まつた。進化論は思想界を風靡したと云ふべきである。
併し獨逸哲學が盛になつて進化といふ名稱が使用せられぬのと、進化といへば術語めきて普通用に廉立ちで聞ゆるのと、其の他色々の事情で、普通世間には進化と云はず、進歩と言ふやうになつた。進歩は進化より廣さうにも聞えるのである。文明史に進歩を説き、進化の分化合化より成ると云ふに較べて漠然に過ぎると言はれたが、漠然が都合好い所もあるのであらう。併し進歩又は發達にて物足りなく感ずることがある。平凡の嫌ひがある。今少しく力ある語が欲しく思はれる。加ふるに支那との戰役露國との戰役で日本が急に從來と情勢を異にしたのを目擊し、單に進歩と云ふよりも或期限を設け、特別の進歩を見やうと云ふので、發展とか展開とか云ふ語を使用し初めた。國運の發展とか學校の發展とか店の發展とか、何かに附け發展と云ふ。近頃發展ばやりである。併し稍科學的に考へる段には矢張り進化を適當とする。分化合化で足るか何うかは疑はしいが、他に一層良い解釋も與へられて居らぬ。法則よりも事實の穿鑿が肝腎であると云ふことになつて居る。殊更進化を講究しやうと云ふでもなく、言はず語らずの内に進化を認め、普通に進歩と云ひ、發達と云ひ、時に際立てゝ發展と云ふことに爲つて居る。
第十九章 女性論
文明開化の説に伴つて著るしく人を刺戟したのは女性論である。維新前に兩性の關係は特別に問題にならず、男尊女卑を動かすべからざる事とし、之を疑はうとしなかつた。女を虐待するのでなく、可なり良く待遇し、男尊女卑の差別あることも見えぬことがあつたが、兎に角之を當然のことゝして居つた。所が維新後西洋は男女同權の關係であると云ふので驚いた。在留外人を見ても妻が先に進み夫が其の後になる。夫が戸を開いて妻を入れ、戸を閉めて遣る。目前見た所でも然うであり、洋行歸りの者から聞いても然うである。男女同權よりも寧ろ女尊男卑であるとも聞いた。驚きはしたが、驚く所に好奇心が起る。成るほど文明國はさういふ者であるかと感心するのがある。女尊男卑を當然とせず、之を眞似やうとせぬが、男女同權の理あるを認めたのが幾人かあつた。一時其の議論が熾であつたが、何處でも政治は男が行つて居る。英國は君主が女性であつても、君主は主宰して政治をせぬのである。何國でも曾て女性の大臣が出たことがなく、商工業も繁劇なことは悉く男性の任になつて居る。女尊男卑に見える所も少しく立入つて觀察すれば全く形跡の無いことである。少くも權利に於て男尊女卑が確かであるといふ説が勝を占め、男女同權の聲は何時しか消えて了つた。
併し男女同權と云ふの當らぬにしても、男尊女卑も如何であるか。世の進歩を見れば、進んだ國ほど弱い者窘めせぬのみならず、女は力が弱いとて、智惠が足らぬとて、他に夫れ相應の長所もある。假令同等扱をせぬにしても、物品扱ひにするのは大に間違つて居ると云ふことが自づと知れて來た。率先して西洋流の結婚式を擧げた森夫妻は全く失敗に終つたが、妾を蓄ふる風習は少しづゝ减じ、一夫一妻の傾向が現れた。固り妾を畜ふる者はある。幾人をも畜ふるのがある。併し以前と違ひ餘計のことをするやうに考へる者が多くなつた。前には曾て蓄妾を禁じた敎へがない。儒敎に禁じて居らず、佛敎にも禁じて居らぬ。德川時代の儒者は概ね蓄妾して居つた。基督敎が入込んで之を咎めたのでもない。宣敎師に耳を傾ける者は甚だ少い。而して全體に一夫一妻を當然視するに傾いたのは、封建制度が壞れ、腹を借物とするの必要の减じた所もあるが、文明流にあやかつた所が少くない。文明にあやかつた重なる現象の一としても宜い。
兩性の關係は東西に大なる差別なく、國にも依るが、西洋で女を劬はるやうで人の見ぬ所で之を打つたりし、日本で人の見る所で叱りながら、影(*ママ)で之を劬はると云ふ工合で、差引先づ平均して居るが、蓄妾の减じたのは幾分か歐米にあやかつた所ないとはせぬ。今でも蓄妾は普通であつても之を誇る風は减じて居る。之を誇れば成上りで素養がないとか、親の財産で馬鹿をするとか、嘲られる有樣である。之と伴つて廢娼運動が起つた。娼妓は女を奴隷にした者であつて、之を解放せねばならぬと云ふのであるが、之に就て色々議論があつて容易に决せぬ。他國には之を禁じて居るのがあり、之を公許して居るのがあり、或は表面禁じて默許して置くのがある。唯遊廓を普通の家屋より壯大にするは日本ばかりであるとて、今少しく目立たぬやうにするが宜いと云ふに贊成する者が多い。明治の初めに較ぶれば、紳士顏する者で遊廓に通ふ者が甚だしく减じ、兵卒なり勞働者なりが良い客となり、攻擊するにも張合がないやうで其儘になつて居るが、近頃救世軍の方で此の方へ力を入れることになり、時として樓主との衝突もある。併し紳士を以て居る者は遊廓へ通はぬ代りに待合へ出入し、藝妓を買ふこと以前の娼妓の如くであると云ふので藝者問題が起り、藝者を如何にかせねばならぬと云ふのであるが、歐米の女優は藝術を專にする者のみでなく藝者と格別の違ひも無いとの説も出で、煮え切らずに居る。藝者は女優と違ふとか違はぬとかの議論があつたが、帝國劇塲で女優を養成し他にも之に似たことがあり、中に最早客に呼ばれたのがある。若し女優の數が多くなれば、今の藝者の領分を侵すであらうと言はれる。
併し此の邊までは人は自然の勢として餘り不思議がりもせぬ。近來英國で女が參政權を得やうとして盛んに運動し初めた。北歐の或る地方や、太平洋の新西蘭や、既に女の政治に與つて居るのがあり、空想だけに止まつて居らぬが、我が國では此の邊に就て何とも音沙汰がない。女の方で敢てせぬ故に、男の方で別段論じやうともせぬ。少しく參政權を與へたら何うであらうと云ふ者もあるが、女の方で耳を假さうとせぬ。運動しさうな連中は爪彈きされる。
第二十章 雜問題
思想の變遷と云ふも、思想には廣く世間に共通するのがあり、或一部に限られるのがある。有力なる少數の間に行はれるのは無力なる多數の間に行はれるに優るとも劣らず、時として輿論の愚論である形迹がないでもないが、明治年間有力なる少數に限られ、其の外に出なんだのはなく、有力者に於て早く知つたと云ふ所があつても、早晩廣きに及んで居る。併し有力者でもなく、無力者でもなく、其の中間とも云ふべき部分には、一種の思想が行はれ全く他に關係ないことがある。學者敎育家等の間に行はれる學説はさうである。
學説の多くは廣き世間と沒交渉である。世間は知りもせねば、知らうともせず、少しの注意を拂つて居らぬ。併し學者に可なり重大事であり、寧ろ最大事である。新學説を求めるに忙しく、歐米に何がな新説もがなと注意して居る。各學科夫々新學説に次で新學説が出て、怠け者でない限り、自ら理解し人に紹介するに從事し、各自の立塲にあつて隨分面白くもあり骨も折れるのであるが、世間は與り關して居らぬ。何の學科も相應に變遷があり、部分的に思想の變遷であるが、一般に何の響きがない。進化論の如き、頗る廣きに及んだけれど、他に一紀元と云ふ程の事で局外者に知れずに過ぎた事が幾つもある。敎育家は直接に靑年少年に關係ある筈であつても、學説は概ね學生とも世間とも無關係である。ペスタロツチ、ヘルバルト、フレーベル等忽ちにして過ぎ、次ぎから次ぎと色々の名前で學説を發表したが、實際の授業に何の關係がない。敎育家が新説を競つて居る中、其新説の大家の名さへ世間へ知らるゝに至らず、次ぎから次ぎと葬られて泡のやうに顯れて消える。敎育は依然として或制度の下に行はれ劃一敎育、監督敎育、干渉敎育であつて、何の學説も少しの影響を及ぼして居らぬ。私立學校でも次第に劃一に從はうとし、さうせねば維持に困難であるとする。併し誰れ言ふとなく今少しく劃一を緩め自由にすべきであるとの説が行はれ、エリオツトが米國で日本に關する感想を述べたと傳へられるのも之に同じである。ハーバート大學五十年前の状態であると云つたとか。加减して聽くべきであつても、何とか變らねばならぬ所がある。
之に較ぶれば文藝家の間に行はれる新意見は多少世間との交渉がある。寫實よりして自然主義に及び、色々と變改して刹那主義となり、捨鉢主義とも云ふべき者になり、何程か靑年に影響して居る。新聞雜誌に記載せらるゝ丈でも世間に關係あると認むべきである。學者敎育家等の學説よりも關係範圍が廣い。併し新聞雜誌文藝欄に注意する者は總讀者の幾分であるか。又何う云ふ種類であるか。小説の單行本は賣行が少い。詩集は更に少い。之を好む者の目には批評が賑かなので思想界が之が爲に影響を受けて居るかとも見えるが、單行本として販路の甚だ狹い所より察すれば世間に關係少いと見做さねばならぬ。新意見は同好者の間に限られる。其の數が敎育家より少いが爲、讀まれる數も少からう。殆ど盡く樂屋落の類である。併し文藝は理よりも情を取扱ふだけ、割合に強く人に感ずる。其の上劇に演ぜられては讀むと刺戟が違ふ。ノラなり、マグダなり、外國婦人の事でも多少見物人に興味を與へた。思想界に影響あると言へぬが、全く無關係でもない。
文藝が思想界に影響するよりも、思想界の潮流が幾分か文藝に現れ、文藝で兆候を察し得るとも言へる。文藝家の感じた所は果して廣き世間の要求を示して居るか、頗る怪しむべきであつても、何でも、全く關係ないものはない。感じの強い文藝連中の爲す所は或る消息を傳へて居る。捨鉢は極端に至つたのであつて、之を好むのは多くないが、鑄型に篏り窮屈に生活するを厭ふ氣味合は更に廣く存在して居る。鑄型は必ずしも惡くない、窮屈も已むを得ざる塲合があある。併し敎育には何程か必ず改めねばならぬ欠點がある。無益なことで精力を費やして居る嫌ひがある。自然主義は惡い意味に解すれば頗る惡く、野蠻に後戻りすることになるが、善い意味に於て人事の一切に適用すべきである。醫者は病氣を癒すに缺く可らざる者であるが、醫者が病氣を癒すと云ふのは間違つて居る。自然に癒らうとするをば、醫者が自然の一部として補助役を務むべきであつて、其の邊の呼吸を呑込まねば名醫になれぬ。干渉では過ぎるし放任では足らぬ。過不及の中を得るのが難かしい。足らねば過ぎ、過ぎねば足らず、干渉すべからざる所に干渉し、放任すべからざる所に放任し、天物を毀損して了ふのが幾らあるか知れぬ。現に有ゆる邊に之を認める。改むべき所が多く、一二の主義の下に改善運動に着手するには餘りに複雜であつて、各部分各小部分に改善を促すが從來の思想界であり、今後益然うである。精しく言へば際限がない。
(*明治思想小史<了>)
『大正文庫』發行の趣意(高島米峰)
例言
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