時代私觀
戸川秋骨
(日高有倫堂 明41・11・25)
時代私觀目次終
◎ 思想上の日英同盟と親露主義
英に親しむべきか、抑もまた露に近づくべきかは、我が經世家の考慮を煩はせし問題にして、諸家各其の見を異にする所なるべし。日英同盟成れるの後と雖も猶ほ此の種の論議は時に應じて繰りかへされたり。外邦に對する一國の關係は、必ず其等の一を撰んで提携し、他を敵視するの外餘地なきものか、門外漢の余の知るところに非ず。今や日英同盟の他日佛協約あり日露又た益々親善ならんとするが如く、同時に歐州に於ける英露の關係は昔日の如くに非ずして頗る*順調にあり。即ち東邦に於ける亞布汗國境問題の如きも圓滿なる妥協を遂げたりと云ふ。極東に於ける兩者の關係また其の利害甚しく相反するものに非ざる可し。盖し日英の同盟と共に日露の相提携するを得ば、*开は世界の幸福なるべきか。斯く云ふ余は柄になき政治論を爲さんとするに非ず、聊か此の二大強國の關係より我が思想界の*歸趣を窺はんと欲するのみ。我が國の思想界にも亦た日英同盟論と親露主義とあり。言太だ*好事に過ぎたるの*慊あれども、大體斯かる名稱を加へて差支へなかる可し。
二
余は先づ親露主義の如何なるものかを説かん。日露の戰爭闌なるの時、世間が口を極めて敵國を詈り、頻に人心を皷舞しつゝありしに際し、一部の人士が特に露西亞文學に憧憬し殊に有爲の靑年が多大なる其の影響を享けつゝありしは、甞て余の注意したりし所にして又た世人の共に認めたるところなり。余が所謂親露主義なる名稱を與へたるは斯くの如き一派の思想を指せるなり。彼等人士の憧憬するは必ずしも露西亞文學に限れるに非ず、或は佛蘭西文學に或は伊太利文學に其の*一味類似の傾向を追ふもの即ち是れなり。しかも其の最も嗜好し私淑するところは露西亞にあり。
曰くツルゲニエフ、トルストイ、ドストイエフスキイ、ゴルキイ、チエーホフ、アンドレエフ、メレジコヴスキイ是等の名は常に文壇に繰りかへされ、特に新進氣鋭の文人が愛好し、崇拜するところたり。今その實際の状態を云はんとせば、これを其の飜譯に就いて見るに如くはなし。飜譯界に於ては吾人は先づツルゲニエフの「オン、ゼ、イヴ」(其前夜)を擧ぐ可し。トルストイの「チヤイルドフツド、ボーイフツド、云々」(生立の記)亦た既に飜譯を見たり。更にツルゲニエフの「ルーヂン」(浮草)既に公にせられて、トルストイの「復活」また將に世に出んとせり。シンキウヰツチに至りては、嚴密なる意味に於て露西亞の作物と見るには多少の異議ある可しと雖も亦た極めてこれに近きものなり。而して其の「クオ、ヴアデス」(何處へ)「ザツト、サード、ウーマン」(二人畫工)もまた發賣され、しかも頗る好評を博せり。歐州文學の數多きが中に此の最近に於ける飜譯を擧ぐるも猶ほ斯くの如し、是れ豈露西亞文學萬歳に非ずや。親露主義が翕然として思想界に勢を有すと云ふも决して誇大の言に非ず。識者は單に此の現象を以て書生仲間に於ける一時の風潮と觀る可からざるなり。
三
斯くの如きは事實明白に世に現はれたるものなり、*若し夫れ隱れたるに於ては、其の勢力の如何に*深大なるかを知らず。例之ば相應に外國語を解し得る學生に、その愛好し又た一讀したる西洋の作物を問へ、彼等は必ずツルゲニエフを以て答ふ可し、これ余が*實驗したる所なり。猶ほ*聞くが如くんば、山間の小都會に於てすら、ツルゲニエフの英譯書は店頭の書架に掲げらると云ふ。其の勢力の深甚なる寧ろ意外とすべきのみ。人或は言はん开は作品の價値若しくは其の趣味如何によるに非ず、英譯書の解釋に容易きが故のみと。盖し开は正に一面の理由なる可し、然れども果してそは理由の總てなるか。斯く云ふ人は未だ露西亞の作物を讀まざる人にはあらざるか、抑も亦讀みて而して猶ほ此の言を爲すか。前者ならば先づ*一讀を煩はすべく、一讀を煩はして後論議を試むべし、若し後者ならば余は斯くの如き人を以て初より論議を交ふ可き人に非ずと云はんのみ。
然らば何故に露西亞文學が斯くの如き勢力を有するや。余は甞て英吉利思想を説きて其の日本に行はれざる理由を述べ、偶ま露西亞文學の*しかく好迎さるゝ所以に及べり。今再び是を爰に説くこと能はざるも猶ほ簡單にこれに就きて一言せんか、彼の國情が我と酷似すると云ふに歸す可し。第一に露西亞は他の歐州の列強と離れて、較や東邦趣味のある處なり。第二に彼と我との間に於ける治者と被治者との關係頗る類似せり、彼の治者と被治者の爭は歐州の他の列強のそれの如くに非ずして寧ろ我のそれに近し。第三に歐州の新思想に逢着したることの新しきが相似たり。露西亞が所謂歐州の文明若くは新思潮を吸收せしは猶ほ古きことに非ずして、我が四十年來開明の風に觸れたると似たるものあり。若し夫れ斯くの如きを以て類似に非ずとなすものあらば、試みに我が國情と英吉利の國情とを比較せよ、而して其の懸隔する所の甚しきを見ば直ちに露西亞の我に近きを領するならん。余は今日露の類似を説くに非ざるを以て多言すること能はず、唯だかゝる事情より親露主義のしかく多大の勢力あるを一言するのみ。
飜つて日英同盟とは如何なるものかを見んに、我が思想界に於ては疾より日英同盟なるもの成立して存せり。唯だ其の同盟は親露主義の如く深き考慮あり若くは嗜好ありてのことなりしか、或は偶然の成行(*レーゼー、フエヤ)によりて推移し來りしものか、其の有樣は寧ろ後者の關係の如しと雖も、开は今余の言はんと欲する所に非ず。兎に角我が國の始めて米國に依りて誘導せられしより以來、米國とその用語なる英語とを通して英國に結びしは事實なり。唯だそれ斯くの如き關係によりて成りし同盟なり、我が人士の英吉利思想を欽慕し、英吉利風を愛好して成りしものとは自ら異なるものあり。同時に識者は自然の成り行きに從つて英に私淑したるなり、自ら進んで特に英風を紹介したるものに非ず。故に形の上に於ては同盟なりと雖も、其の實質に於ては果して然かくこれに影響せらるゝ處ありや、實に疑問なりとす。たゞ近時漸く英の美風、其の長所を感得するもの尠からずと雖も、猶ほ一般に英吉利思想をよく了解し是に心醉せる者を見ざるは事實なり。
例之ば文藝上の作品として敬重せらるゝもの、英吉利の文學に於ては*沙翁あり、ミルトンあり其數實に夥多しと雖も、古代より現代に至るまで幾多の作品のうち、眞に我が邦人に感化を與へしもの幾許なる可きか。例之ば沙翁の如きは是を了解する二三の識者には絶好の大作なるべし、然かもこれを實際に了知する者*幾ばくかある。實に余の如きも沙翁の著書に對しては殆ど門外漢なり。ミルトンの如きも文藝專門の士を外にしてはこれを通讀したる者すら尠かる可く、况や其の鑑賞に至りては極めて稀なる可し。余は徒に自家を以て他を忖度するものに非ず。唯だ人の常に口にする沙翁の偉大なること、ミルトンの雄渾なることも、其の實際の結果に至りてはこれを我が思想界若しくは文壇の何處に求め得可きか、聊か疑問なりとなすのみ。沙翁、ミルトンの昔を語るは他の嗤を招くの恐あり、飜つて最近代の英吉利文學を見るにその孰れが實際の結果を我が文壇に貢献したりしか。少くとも余は彼の露西亞文學の如くその具體的に顯著ならざるを認む。然らば果して英文學の効果は絶無なりや。余の所謂日英同盟なるものは有名無實に過ぎざるか。何ぞ必しも然らん。英吉利の如き歴史を有し事々物々に根據を有し、其の基礎の確實なる、門閥大家の如きは、他の成り上り者の如きと自ら其の態度を異にし、其の我が思想界に與ふる影響に於ても亦た自ら漸進的にして、然かも確實なる所あり。よしや我の嗜好より進むでこれを迎へたるに非ずと雖も其の親炙の日短からず從つてその溟々のうちに蒙りたる感化の如きは盖し少々ならざるべし。
五
余は日英同盟派を以て我が政海の官僚派とを比較せんと欲す。政治上に日英同盟を完成したるは桂侯の内閣にして、桂侯の内閣は山縣侯の餘黨によりて成る。即ち官僚派なり。然れども余が思想界の日英同盟派を以て官僚派と云ふは、斯くの如き政治上の意義あるの故に非ず。其の勢力*扶殖の道、頗る今の官僚派山縣一派の遣口に類するものあればなり。
思ふに英文學に關する飜譯は一沙翁の外殆ど皆無の姿なり。近時*マツクス、オオレルの飜譯續出すると雖も這は果して英文學の代表と認むべきか頗る疑はし。少くとも著者は佛蘭西趣味に感化され居ること頗る多大なり。實際日英派は現代の文運に沒交渉なりと云ふも過言に非ざるの感あり。たま〳〵二三の戯曲の紹介さるゝものありと雖も开はもとより論ずるに足らず。殊に公衆の注目する所のものは多く純英の産物に非ざるものに多し。重ねて言ふ事實果して斯して斯くの如しとせば日英同盟の關係は我が思想界に何等の關する所なきか。曰く極めて然らず。盖し此の派は別に偉大なる勢力範圍を有す。余の所謂官僚派とは即ち此の勢力範圍を比較して呼びたるものなり。然らば思想界の官僚とは何ぞや、曰く敎育界より紹介さるゝ思想の範圍是なり。
六
英吉利の思想は下、中學校の一年級より、上は大學の文科大學に至るまで、終始一貫して、學生の腦裡に注入せらる。中學校の五年間は暫く云はず、最も思想を消化し受納し得る高等學校に於て、學生の受くる其の影響は幾ばくなるべきか。敎科書は多く名著の秡萃なりと雖も、其の間に散見する英吉利の思想は决して少しとせず。彼等學生は高等學校の三年間、若くは更に大學の三年間に於て、英文學の大體に通じ假令彼等の本性及び嗜好は親露的にして、其の學習する英文學は外部より單に注入さるゝものなりとするも、此の長年月の間、奚ぞよく其の感化なくして過ぐるものならんや。彼等は*スヰントンの如き敎科書によりて英文學の一端にも通ず、彼等はデイツケンズ、サツカレエの小説は云ふまでもなく、ステイヴンソンもキツプリングも一讀するの機會を有す。カアライルやラスキンは事古りて、今や*ハリソンもラングも敎科書に收めらるゝなり。唯だ敎ふる者に文學的感情なく、刺戟的活火を缺けばこそ、甚しき影響なきなれ、敎授者其人が英吉利思想を消化し會得し、且つこれを愛好するものならんには、其の結果の顯著なるものあらん事疑を容れず。しかも斯く連年絶る間なく、人は更迭すると雖も材は變はらず、*諄々として訓育せらるゝの結果は自ら一種の影響を與てまた一種の思想を創り出す。之れ豈官僚派の不言不語の間に行政機關を占領し立法部をさへ卷席せんとするに比すべからずや。况や最近に至りては學校の敎科書も益々進みて劇に*ピネロを見、小説に*ハーデイを採り其の勢*宛然官僚派の議會を操縱せんとするが如きものあるに於てをや。
七
今の政界に官僚黨と政友會とが對抗するが如く、思想界のうち主として文界に於ては此の日英派と親露派との對抗を見る。*恰も在野黨と在朝黨との如きか。兩者必ずしも相爭ひ相背くに非ずと雖も、前者の後者を目して素養無き輕薄者流とするあれば、後者は前者を目して因循守舊の徒となす。余は今*具体的に何人が前者にして、何人が後者なりと指摘せざるべし。又たしかく明確に指示すること能はざるなり。然れども大勢の自ら此の兩派に分岐せるは事實なり。例之ば上田敏氏(氏を以て日英派の代表とするには非ずと雖も)の英文學科の出身にして、*クラシツクスの趣味あるが如き、島村抱月氏(氏に於ても目して純親露派とは云ふを得ざるが)早稻田より出でゝ自然主義を唱ふるが如き其の一端を見るに足るべし。
抑も輓近文壇の風潮は極めて親露派に傾けるが如しと雖も、博士坪内氏は英文學の研究より文壇に出でたり、夏目氏もとより英文學科の出身にして、又た最もよく英吉利思想を鑑賞し消化したる人なり。二葉亭氏の親露派なる、鷗外氏の局外に立てる等ありと雖も、要するに政界の官僚黨が人材を網羅するが如く、高材の士は反つて日英黨にあり、時代の趨勢は未だ必しも全然親露主義に傾けるには非ざる可し。
余は相撲の番附の如く漫に人名を羅列するには非ず、唯だ具体的に斯かる二傾向を標示せんと欲せしのみ。しかも开は眞に唯だ傾向に過ぎず。更に大局より見れば、斯かる分派は素より末葉の論のみ。日英の同盟も親露主義も要は國家の大計を定めんと欲するより出づるとせば、文壇の兩傾向も亦た我が思想界の發展を期するより起れる現象に過ぎざる可きのみ。
八
英帝の斡旋は列國の合同となり歐洲の平和を贏ち得たり。即ち從來反目し來りし、英佛の關係も、英露の關係も或はこれより一洗せられて、新天地に入りたるに非ざるかと疑はる。我に於ても日英同盟に次ぐに日佛協約あり次に日露も融和せんとせり、之れ實に普遍の平和に非ずや。由來我が經世家は露國を敵視し來れり。然るに其の敵國も今や漸く*與國たらんとす、之れ慶す可き事實に非ずや。
飜つて思想界の方面を觀るに英吉利思想と露西亞思想とは到底一致す可からざるか。一見兩者は甚しく相違せるものあり。健全にして秩序ある英吉利思想と、新進にして破壞的なる露西亞主義と、其相違する所决して少なからず。然れども秩序も破壞も开は一時の現象なり、是を藝術の境より觀れば、彼と是としかく區別すべきものに非ざる可し。趣味の相違よりすればこそ各人個々の嗜好も出づれ、开は必しも反目し排擠すべきものに非ず。余を以て見れば兩者の調和はしかく困難なるものにあらず。各人互に心を開き他を容れ他の長を認めんか、日英同盟と親露主義とは*全然兩立し、提携して藝術の野思想の世界に*遊び得んなり。
九
若しそれ吾が國人に天性親露的思想ありとすれば、さらに英吉利的質實の風を以てこれを補ふも可なるべく、*はた英吉利的*固牢の傾向あらば露西亞的急激の思想を以てこれを緩和するの要あるべし。孰れにもせよ經世の志あるもの、宜しく此の兩思想に就て一考を煩はすべきなり。只余をして言はしむれば、露西亞思想に於てもはた、英吉利氣質に於ても、共に深大莊重の趣ありて、*輕佻浮華の風なきは兩者その*歸を一にす。而して兩者に共通のこの一點は尤も吾れに*欠乏する處にして、而かも未だ英吉利風よりも、はた露西亞主義よりも感化を受けざる處なるが如し。この一事盖し吾人の深く*鑑むべき處ならん。