(*句読点は適宜改めた。原文はほとんど総ルビだが、適宜省いた。
原文ルビを尊重したが、誤植は訂正し、他は注を施した。)
日漢文明異同論
(『支那思想史・日漢文明異同論』 金尾文淵堂 明40〔1907〕.7.3)
山路愛山
緖言
近頃支那人の醒覺は殊に著るしきものにて支那は間もなく日本の樣になり得べし、歐羅巴の文明と威力とは深く恐るに足らず、我等にても奮發次第にて今より直ぐに極東の大強國となるを得べしとは支那人の今日自ら信ずる所なるに似たり。是は獨り支那人がしか感ずるのみにはあらず、歐米の論壇にても近頃支那人の目を醒ましたる樣子に懸念し、支那は第二の日本となり得べきや否や、支那人も日本の樣なる強國となり得べき要素ありや否やと云ふ事につき研究を始めたる樣子なり。斯樣に支那人の醒覺が世界の問題となりたるは支那人の爲めには祝すべきことながら、善く其眞相を極めず、唯日本が立派なる國民になりし上は支那も直ぐに立派になるべき筈なりと云ふ樣なる單純の考にて遽かに威張たりとて、それが我隣人の利益になるべしとも思はれず。又歐米の論壇より例の皮相の觀察にて、極東の歴史も文學も深く考へず、唯同じ蒙古人種、同じ極東の人民と云ふ大略の觀察より彼是批評さるゝは是亦日淸兩國人民の迷惑する所なれば此際、我々日本人民の支那人に關する所見を開陳し一面には我隣人の輕擧妄動を誡しめ、一面には世界の論壇より極東の眞相を誤解せられざるやうにすること、今日の急務なりと思はる。諺にも羅馬は一日にして成らずと云へり。國家は活物にして固より製造すべきものに非ず。國家の繁達は根の幹を生じ、幹の枝を生じ、枝の葉を生ずる如く、内に在る生命の次第に開發するものにして自然の歴史あり。國家の改革、國民の進歩と云ふも此歴史の法則を破り得べきに非ざれば瓢簞より駒を出し、灰吹より大蛇を出すが如き幻術あるべき筈なし。されば日本は自から日本の歴史ありて今日の日本を爲し、支那は自から支那の歴史ありて今日の支那を爲したる譯にて、支那は日本に非ず、日本は支那に非ず。此理窟が分らず、支那は直に日本となり得べしと妄想して驕慢の心を生じ、或は極東に於て忽ち第二の日本が出來ては世界の大變化なりとて苦勞するは共に杞憂に過ぎずと云ふべし。我等の見る所を以てすれば支那と日本とは總ての點に於て全く殊なりたる國民にして始めより同一に論ずべきものに非ず。人種の上より云ふも政體より云ふも、社會組織より云ふも、宗敎道德より云ふも、人民の状態より云ふも支那と日本とを混ずるは日本を葡萄牙と混ずる程の誤解なり。依つて、少しく其異同の點を論じて我隣人の反省を求むると共に世界論壇に日本人の一人として見たる正直なる觀察を寄與せんと欲す。且夫れ人を知る所以は即ち己を知る所以なり。支那を論ずるは併せて日本を論ずるなり。日本の讀者若し之に依て支那を解すると共に日本を理會するを得ば此論獨り支那人と西歐の論壇に益するのみに非るなり。
人種を論ず (一)
試みに言語に就て日漢の差異を見よ。支那に在りて湖廣の音は杭蘇に通ぜず、幽燕の音は陝西に通ぜず、巴蜀の音は山東に通ぜず。等しく支那本部と稱すと雖も其言語は各相異り十八省は猶ほ十八國の如くなるに非ずや。之を日本の南は薩摩より北は津輕まで、たとひ稍其聲調を異にするも而も二人相語りて終に解せざるものなきに比すれば其差何ぞ甚しきや。支那は言語に於て既に國内に於ける各人種の差異雜然として合金作用の未だ全く行はれざるものあるを證し、日本は之に反して歴史の始めに於て國内に在りて對立したりし各種族の同化作用、最も著しく行はれ、今や全く混合人種の實を現はしたるものなり。實に日本は人種の混合を速かならしむべき天然の便宜を有したりき。其島國にして壤地の狹小なりしこと、其南部に於て瀨戸内海を有することは日本に散在したる各人種をして、其の混合を早からしむべき最も大なる理由なりき。支那は然らず。其壤地は廣大にして其交通は不便なり。一人種起りて他の人種を壓すれば弱き人種は征服せられ、同化せられんよりは寧ろ他の地に移るを常とす。此の如くにして漢人種の起るや、呉越人種は南に移り、匈奴は北に移りて而して未だ甞て眞實の意義に於ける征服なく、眞實の意義に於ける混合なかりき。且其大陸の一部たるを以て、所謂舜は東夷の人なり、文王は西夷の人なりと云ふが如く、數ば新來の人種ありて威力を前住人種の上に加ふ。支那の所謂政治なるものは勢力ある人種が他の人種を支配するものにして一人種が自ら自己を治むるものに非ず。支那の文學、風俗が大抵相同じきは猶ほ羅馬の時代に於て拉典語の學問と羅馬の風俗とが地中海沿岸を風靡したるが如きのみ。是を以て支那の各人種は合金的作用を終へたりと云ふを得ざるなり。吾人故に曰く、日本に住する人民は合金作用の全く行はれたる一個の混合人種なり。支那に住する人民は未だ甞て所謂人種的合金作用の眞に行はれざる異種異樣の人民なりと。是れ吾人が均しく蒙古種と稱すと雖も支那と日本とは其人種たる性質に於て全く相殊なれりと云ふ所以なり。且夫れ當初日本島に於て人種的合金作用が未だ全く行はれず、各人種の對立したりし當時に溯りて之を考ふるも支那人種と日本人種とは其親密なる親戚たるべき痕跡なし。試みに漢代の史を取りて之を讀め。支那が最も世界に勢力を張りたる當時に於て支那文明の持主にして、且其維持者たりし人種は固より漢人種に非ずや。而して其北には東胡匈奴あり、其南には越あり、東胡匈奴と、越とが日本人種と親族的關係あるべきは吾人の略ぼ推察し得る所なれども、獨り漢人種に至りては、遂に日本島と些の縁故なきに似たり。蓋し長白山の麓に住したる所謂「チユーレニアン」語系に屬する種族が日本人種と近親的關係あるべきは言語學の證明する所にして吾人は之を否定する能はず。而して支那の南方に住する呉越人種と日本人の一部とが其骨格に於て、其慣習に於て近親的關係あるを示せるは是亦人類學者の否定する能はざる所なり。語を切にして之を曰はゞ日本人種と支那の南北に存在したる人種とは古代に於て近親的關係ありしと云ふを得べけれども支那に於ける本幹の人種たる漢人種とは日本人種が其文明の一部を採用したる外、二者毫も種族的關係なし。是れ人種的合金作用の未だ全く行はれざりし當時に溯るも日本人種は其要部に於て全然支那人種の有するものを缺けるものなり。之を要するに支那にして漢人種なる幹部なく、東胡匈奴の如き北方人種と越の如き南方の人種とのみあり。此人種が或境遇の下に全く混合したりとせば之を日本人種に似たるものなりとは云ふを得べし、然らざる限は支那は人種に於て大に日本と異るものなり。
人種を論ず (二)
世或は支那に於ける漢人種の優勝を稱するものなきに非ず。支那に於て最も文學に富みたる人種、最も勤勉なる人種、最も怜悧なる人種を求めばそは固より漢人種たるに外ならざるべし。されど之と共に歴史は漢人種が或る大なる短所を有するを證す。吾人の見る所を以てすれば昔より支那に於て國家的組織に於ける偉大なる能力を現はしたるものは多くは外國人にして漢人種の幹部に非りしが如し。周室の其始め西方の夷狄より起りたるは詩經と左氏の之を證する所に非ずや。秦人は支那を打して一丸としたる最も偉大なる人種にして支那の國家制度は實に秦人に淵源すと云ふも不可なきに似たり。而も歴史は秦人が純乎たる諸夏に非りしことを示すに非ずや。秦人の支那に於けるは猶ほマセドニア人の希臘人に於けるが如くにして當時に於ては固より諸夏の輕蔑する所たりしに關せず秦人は實に支那に於て國民的活動を始めたるものなり。此の如くにして漢人種が自ら支へたる國家として之を言へば僅に漢唐宋明の四朝あるのみ。其他は則ち常に異人種に支配せられたるものなるに非ずや。吾人は此事實に依りて漢人種が國家的組織の能力に乏しき點に於て頗る古の希臘人に似たるものあるを思はざるを得ず。歴史は人種の特徴を掩ふこと能はず。漢人種が總ての點に於て其東西南北の人種に勝るものあるに關せず、獨り其組織的才能に於て缺くる所あるは是れ天の全才を人に與ふるを忌む者なるに似たり。而して此の如き漢人種の缺典は此人種を根幹とする支那の文明に一異彩を與へたり。支那は今日に至るまで遂に所謂國民的生活の眞意義を理解し能はざりしなり。蓋し漢人種の此の如く組織的能力を缺きし所以は一には支那の壤地の廣大にして其人民の遷住常なく他人種の壓迫を感ずること少く、從つて國家的建設の必要を感ずること薄かりしにも因るべしと雖も、而も周、秦、元、淸等凡そ大帝國を經綸したるもの、多く漢人種に非ず。漢人種は其人種として多大の長所を有し、且其人口の數に於て常に他人種を壓したるに關せず、政治に於ては其常に輕侮しつゝありし種族の指揮を仰ぐに滿足したるを見れば吾人は漢人種のかゝる缺典を有する事は實に其人種固有の習癖なりとすべき理由あるを見る。此の如き人種を其幹部としたる支那の文明が其性質に於て日本と異なるものあるは怪しむに足らざるなり。且夫れ漢人種の文明を研究するものは誰れか其文明の極めて舊るきものなるに驚かざるを得んや。日本人民が未だ海島に據りて蠻夷の生活を營みつゝありし時に於て漢人種は既に今日の淸人をして慚愧せしむべき哲學、文學を有し、今日の淸人と雖も多く其美を加ふること能はざる宮室衣服を有したり。吾人は固より泰西の或歴史家の如く亞細亞の文明を以て化石したるものなりとは信ぜず。されど漢人種の文明が太古に於て既に其自身完全の域に達し、而して爾後數十世紀の變遷は僅かに言ふにも足らぬ程の進歩を爲したるに過ぎざるは掩ふべからざるの事實なり。他の語を以て之を曰へば吾人は漢人種が餘り舊き文明を有するの一事を以て頗る其將來の有望を疑はざるを得ず。世に人種としての老幼あるべきや否や。人種も亦一人の如く、成熟期の後に老衰期あるものなるや否や。そは吾人の斷言し得ざる所なり。されど漢人種が今日に於て頗る老衰不動の状あるは疑ふべからず。是亦日本の文明が大に支那の文明と異なれる一理由ならざるを得ず。
人種を論ず (三)
日本の文明を批評する泰西の論者は日本が最近の半世紀に於て西歐文明を咀嚼して早くも之を自家の物となし了りしを以て甚だ不思議なる現象なりとせん。されど彼等にして若し善く歴史を研究せば是は日本人種固有の特性にして其實は昔も今も日本人種は他國の文明を適用する敏捷の點に於て常に公平なる批評家を驚異せしむべき事實あることを發明せん。支那は東漢明帝の時に於て佛敎の輸入を見たれども、其漢人の或る者が之を信じて自己の宗敎となしたるは其後二世紀を隔てたる晉の世に在り。而して其全く漢人を風化するに至るまでには更に二三世紀を要し、乃ち佛敎の旺盛を以て稱せられたる唐の時と雖も韓愈の如きは猶ほ佛は夷狄の一法のみと稱して、漢人種が其本質に於て未だ全く佛敎を咀嚼し盡さゞることを示したり。日本は全く之に反す。日本書紀の記す所に依れば日本に佛敎の輸入せられたるは欽明天皇の十三年に在り。而して爾後半世紀に過ぎずして早くも既に日本の攝政皇子(廐戸)は獨り自から佛敎を解釋したるのみならず、自から註釋書をさへ著はしたり。而して更に其より一世紀を過ぐれば日本の天子が自から三寳の奴と稱し、國費を以て京都と諸國に寺院を建設し純粹なる日本人種の中より幾多の高僧を出し、日本固有の宗敎と印度哲學との全く混一して此に日本的佛敎の建設に近きしを見る。他國の文明に對する漢人の痴鈍と日本人の敏捷とは此一事早く、既に之を證して餘あるに非ずや。されど日本人が他國の文明を採用するに於て其鋭敏なる特質を示したるものは獨り宗敎の部面に止まらず。即ち日本が漢人種の政治學を採用したる所謂近江朝廷の政治の如きも由來歴史的發達の儘に一任したるが故に重複もあり、矛盾もあり、一見殆んど分曉に苦しむ底のものなりし隋唐制度を解釋して秩序整然、綱擧り目張りたる八省百官となせし技倆に至つては眞に驚嘆すべきものあり。日本人種が他國の政治組織を理會し最良の法に依りて之を自國に適用するの能力ありしことは天智鎌足の政治實に之を證して餘あり。下りて近く數百年の史を見るに其所にも亦日本人種と漢人種の特質は明かに現はれたり。葡萄牙人が始めて日本を訪問したるは日本後奈良天皇天文十二年(西暦一五四三年明世宗嘉靖二十二年)なりと稱す。而して爾後未だ百年ならざるに日本人の耶蘇敎を信ずるもの殆んど津々浦々に遍く、一旦禁敎の政あるに及んで殉敎者二十八萬人の多きに至れりと云ふ。其他國の宗敎を嫌はずして直ちに之を咀嚼したる鋭敏の度驚くべからずや。而して彼等が此の如く外國の宗敎を容れて、之が爲めに敢て殉敎の血を流して、辭せざりし所以のものは徒らに新奇に馳せたるに非ざりしは當時日本に來訪したりし名僧サヴイエールが日本人の聰明にして哲學的論辯を好むことを稱讚したるを見るも明かなり。世人は提督ペリイが浦賀の港門を叩きたる一八五三年(嘉永六年)を以て日本の爲めに太平洋の横ぎられたる第一回なりとせん。されど記せよ。それよりも二百四十年の昔なる一六一二年(後水尾天皇慶長十七年、明神宗萬暦四十年)に於て日本京都の商人田中勝助なるものは時の政府の命令を奉じ外國船に乘じて太平洋を横ぎり新大陸の岸を訪問したるに非らずや。是れ實に葡萄牙人が日本を訪問したりしより僅かに七十年の後なりとす。斯くの如くにして日本人は一たび泰西の文明に接觸すると共に直ちに之を採用し、煙草を吸ひ、木綿を植へ、銃砲を製し、城郭の制を改め、兵法を一變し、航海を盛んにせり。たとひ政治上の理由の爲めに此新文明の採用は一時の頓挫を免れざりしにもせよ。而も日本人は鎖國の時代に在りて猶ほ其心を外界の進歩に盲ならしむること能はざりき。
人種を論ず (四)
日本人種が其鎖國の時代に在りても猶ほ眼を世界の文明に閉づる能はざりし事情と漢人種が其外國の文明に接觸する時代の日本よりも甚だ早きに關せず、遂に泰西の文明を理會し之を採用するに至らざりし事情とを對比すれば吾人は益す其差違の甚しきを見る。夫れ西歐の文明が始めて支那に觸接したるは明の武宗正德年間(西暦一五〇六年─一五二一年)に於て葡萄牙が始めて支那に入り舟山、寗波、泉州等に貿易し、佛蘭西が滿剌加の地に居り、使臣を遣して方物を献じたる時に在り。而して是れ實に葡萄牙人が日本の南島を訪問したりし二十年前に在り。爾後外人の支那を訪ふもの年々其船を加へ、萬暦年間(西暦一五七三年─一六一六年)に至りては利瑪竇、利艾等の羅馬敎僧初めて京師に入り、敎法、暦學の書を著はし、士大夫と交游し、西學を論ずるもの一時の盛を極めたり。其後明朝覆亡し、愛親覺羅氏之を承けたりと雖も、其外人に對する政策は依然として懷柔策を取り康熈年間(西暦一六六二年─一七二二年)には西洋人を用ひて礮を鑄らしめ、乾隆年間(西暦一七三六年─一七九五年)には禁軍をして外國の兵役を學ばしめ、葡萄牙人を用ひて欽天監となし、未だ一日も外國と相接せざること無かりしに關はらず、漢人自ら外國の文明を理會し、其文學科學を適用するに至つては遂に鎖國時代の日本には如かざりき。日本孝明天皇安政二年(支那文宗咸豐五年。西暦一八五〇年)日本の和蘭學者杉田成卿甞て兩國の著書を比較して、日漢文明の異同を論じて曰く、
全體新論、航海金鍼、(共に支那に於て刊行せられたる書なり)二書共に歐羅人の手に成る。曩に魏源の海國圖誌あり、亦概ね傳聞する所を記すのみ。直ちに洋書に就て譯するものに非るなり。夫れ堂々たる大國、(支那を指すなり)外藩を容れ、交易を通ずるもの年あり。而して外藩已に能く其書を讀み其文を屬するものあり。而して本土却つて一人の洋書を讀み洋文を解するものなし。豈怪しむに足らざらんや。是れ他なし、其の尊大自ら居るの弊に非らずして何んぞや。皇國の人既に荷蘭の文を讀み又た從つて之れを譯するもの、殆んど茲に百年なり。是れを以つて天文地理人體の説より以つて巧藝技術の末に至るまで陸續書を著はして世に行はるゝもの鮮からずとす。是れ豈人智特絶、漢土に超過するものあるに由らざらんや。(梅里遺稿、原漢文)
漢人の國に在りては西人久しく其國に在りと雖も、西洋の書を漢譯して之を漢人に讀ましめたるものは漢人にあらずして西人なり。日本に在りては久しく西人と交を絶ちし間と雖も、而も西人の書を飜譯して日本人に讀ませたるは實に日本人の手に出づ。獨人ケンプルの日本紀行も日本人の手に依りて譯せられ、露人ゴローウインの遭厄記事も日本人の手に依りて譯せられ、地理、天文の書も亦多く日本天文方の飜譯局に於て譯せられ、最も驚異すべきはナポレオン法典すらも日本仁孝天皇天保の末年(西暦一八四〇年、支那宜宗道光二十三年)に於て幕府内閣の命に依りて其飜譯を試みられんとしたりと云ふ。是皆日本に在りては所謂鎖國時代に在り。西人の日本を目して太平洋の隱者國なりと嘲りたる當時に於てすら日本人の外國文明に對する鋭敏の度實に此の如きものあり。之を漢人種の遲鈍にして其故態を株守するに比すれば二人種の差眞に掩ふべからざるものあるに非ずや。余故に曰く日本人種は漢人種に同じからず、漢人種は日本人種に殊なれりと。非邪。
封建と郡縣 (一)
日漢の人種が其根源に於て必ずしも近親的ならず、其性情、殊に他國の文明に對する感應の度に於て全く殊なるものあるは吾人の既に論じたる所なり。而して更に研究の歩を進めて現時の社會的状態に及べば吾人は愈よ日漢の同日に論ずべからざるを見る。米大陸より太平洋を横ぎりて先づ日本に達し、而る後支那を訪ひたる旅客ありとせん。此旅客にして若し相應なる觀察力を有せんには彼等は直ちに日本と支那との間に於ける人民生活の状况全く相異なるものあるを發見せん。彼等の眼中に映じたる日本の生活は殆んど共産的にして、人々相依賴するの状恰も家人父子の如きものあるに驚異すべし。日本の民法は西歐の法典を摸擬し、個人主義を採用するものなりと雖も、日本の習俗に至つては人々决して個人主義の權化に非らず。親戚朋友、財を通じ、乏を助くるの情、甚だ殷んなるものあり。好んで他人の急に赴くは言ふまでもなし。たとへば、利害相關せず、法律上の責任なきものと雖も、他人の困厄は遂に之れを座視せざるの風あり。法律の精神は個人主義なりと雖ども、風俗習慣は却つて共産的の實ありと云はざるべからず。國家の爲めに一身を献じ、他人の爲めに力を出すは日本人の理想にして國家を以て家人父子的の一大團結となすは蓋し日本人民の根本的信仰なり。されど極東觀察の旅客若し一歩を轉じて支那に渡らば如何。先づ家屋の構造を見よ。日本島が恰も一個の花園にして日本人の家屋が恰も花園中に住する兄弟の舍なるが如くなるに反し、支那の家屋は各垣壁崢嶸にして嚴に内外を劃し、明かに個人主義の絶頂に達しつゝあることを示すに非ずや。日本に於ては高門貴族の庭園と雖も小民の居と相連り、彼此の往來、未だ必ずしも相妨げざるに反し、支那に於ては士大夫の家屋は深沉窺ふべからざるの状あり。小民に對しては夐然別天地を劃し、獨り自ら其富貴を誇るに非ずや。乾隆帝甞て歎じて曰く身天子と爲るも蘇杭十萬富翁の快樂自由に及ばざるなりと。支那は個人主義の極めて發達したる國なり。富豪と小民との懸隔甚だしく社會は明かに貧富の二階級を劃し、所謂中等民族なるものなきの國なり。則はち學校の如きも日本は藩學校、寺子屋時代の昔しより公共的のものにして一定の資格だにあらば何人も之れに學ぶを得たるものなれども支那の書院は大官富豪の資を損じて營築し、敎師を聘して子弟を敎ふるものにして要するに個人的のものなり。蓋し公私の二字は日本支那の生活状態を形容すべき最も適當なる言語にして日本人の生活は公なり、衆と與にするものなり、共同生活の理想に近きものなり。支那人の生活は私なり、衆と共にせざるものなり、個人主義の極端に達したるものなり。日本は一家の外に國家あり、家の父の外に民の父母たる皇室あり。支那は家の外に何物なく、家の父の外に更に尊ぶべきものなし。愛親覺羅氏ありて億兆に君臨すと稱すと雖も、支那の人民に在りては是れ唯政治的の主權者にして直ちに人民の生活と相關するものに非ず。日本人の國を愛するは殆んど孝子の其親を愛するが如きものあり。之を支那人の一家を營むに急にして絶へて念の國家に及ぶなきに比すれば二者の性情眞に南北に分飛すと謂ふべし。然る所以は何ぞや。吾人は一言以て之を斷ず。他なし、日本は封建時代を距ること甚だ近く、支那は否なればなり。
封建と郡縣 (二)
日本の封建社會は共同生活を實現したる武士を以て其幹部としたるものなりき。武士とは何ぞや。德川家康の好敵手たりし石田三成常に曰ひき。
奉公人(著者曰く即ち武士なり)は主君より取物を遣ひ合はせて殘すべからず。殘すは盜なり。遣ひ過ごして借錢するは愚人なり。(老人雜話)
是れ實に生活に於る武士の理想を最も善く發揮したるものなり。原則に於ては武士は主君の倉庫を有して自己の倉庫を有せず。主君の爲めに死すべき生命を有して自己が私を營むべき生命を有せず。自己の生活は武士社會の生活と關聯して相分つべからず。一藩の士、情は家人に同じく、誼は兄弟に似たり。斯の如くにして武士の一階級は其社會的團結の勢力を以て外は他藩に抗し、内は人民を治めたり。彼等の階級的専横や固より弊害なきに非りしかども、而も彼等の長所は實に一個の共同生活體たりしに在り、己の私を計らずして共同生活の公利を計りしに在り、其小さき王國を見ること猶ほ一家庭の如くしたるに在り。此の如くにして封建制度は日本人に一個の精神的訓練を與へたり。此訓練こそ日本人をして世界の面前に歎美の主題たらしめたる所以なれ。論者或は曰はん、日本に在りても封建制度は既に破毀せられたるに非ずや、日本は既に郡縣の國となり、既に法律の治むる國となりたるに非ずやと。されど羅馬は一日にして成らざるが如く、又一日にして破るべからず。數世紀間の封建政治は日本人民の精神的訓練に容易に消磨すべからざる影響を與へたり。日本人民の大多數は今日も猶封建時代に生じたる文學を愛讀し、封建時代に生じたる物語を喜び聞きつゝあり。たとひ日本靑年の一部にはニツチエを讀みて其の感化を蒙りたるものあるにもせよ、たとひ或學者は英國流の個人主義、唯物論を唱ふるにもせよ。是れ唯大なる沼に向つて數滴の墨を撤布したるに過ぎず、彼等の前後左右は依然として封建時代の海あるなり。曲亭馬琴の八犬傳は今猶ほ國民の愛讀書なり、賴山陽の蒙古來は今猶ほ日本人民の心臟を皷動するに足れり。歴史は連續す。數世紀の間に養ひ來りたる武士的性格は何ぞ僅かに四十年の換へ得る所ならんや。最近の露西亞征伐に於て其海軍の一雄鎭たりし瓜生中將、人に語りて曰く、
日本人は能く人の云ふやうな、非常に激し易い人民で、丁度佛蘭西人に能く似て居ると云ふことを云ふが、是れは必しもさうでないやうである。今度の戰爭などに就て見ても、我々は軍艦に乘つて居る所の種々の人を觀察して其大事に及んでも、如何にも沈着で、少しも惡びれる點が見えなかつたのは、之を證明してゐる。殊に身の軍人の籍の中にないものでボーイ給仕の如きものまでが、如何に冷靜で如何に健氣に働いたかを見る時には、其感が益々深いのである。又是等ボーイ給仕の如き身を軍籍に置かないものが今度の戰爭になつて一人として暇を貰つて上陸しなかつたと云ふことも、我々海軍の名譽として誇るべき話である。是等の點から見ると、戰爭に勝つたのは單に軍艦に居る所の軍人のみでなく、彼等非軍人の力に俟つこともあるので、而かも此の凛乎たる氣性は决して一朝一夕に養はれ得べきものでない。是は二千年來我々の祖先が養ひ來つた所の國民性であると解釋しなければならない。
日本人民と雖も其の私より云へば誰れか生命を愛惜せざらん。而も數世紀の歴史は彼等に生命よりも貴重にして法律よりも尊ぶべき或物あるを學ばしめたり。他なし、奉公の精神是なり。共同生活の爲めに一身の生活を獻ずるの義務是なり。
封建と郡縣 (三)
事實を曰へば維新以来の四十年間は日本人民をして個人主義を實現せしめんには寧ろ短日月なりき。封建時代に訓練せられたる共同生活主義は深く日本人民の心に根ざせしを以て四十年間の法律政治も未だ全く其習癖を易ふること能はざりき。勿論日本の封建時代と雖も武士の階級以外には早くも個人主義の發生を見、一方にはスパルタ人の如き共同生活を理想とする武士あり、一方には黄金を以て自家の幸福を保護すべき堅城とする個人主義の商人あり、平和の永續と富の進歩と武士の墮落とは遂に武士の階級をして殆んど自から支ふる能はざるに至らしめたりと雖も、而も時代精神は依然として武門武士の手に在りしを以て日本人は遂に其生活に於て個人主義の完全なる實現を見るに及ばざりき。是れ蓋し日本人の短所にして而して又長所なり。歐米の論者或ひは日本人の戰鬪に長じて而して商業に短なるを怪しみ、國民としての公德に於て世界の歎美する所たるに關せず商人としての信用に於て甚だ劣等なるものあるを怪しむものあり。されど日本人に在りては是は决して矛盾の事態に非ず。日本人民は其文學に依り、其家庭の敎訓に依り、其歴史に依り、其周圍の感化に依り、自己の爲めに自己を用ふるの寧ろ卑しむべきことなるを敎へられ、身を献じて公の爲めにするは人間の應さに爲すべきことなるを敎へられたり。此の如き敎訓は勢ひ其人民をして公戰に勇にして一身の經營に疎ならしめざるを得ず。四十年前までは武士は日本人民の花なりき。日本人民の精華は軍人たり、政治家たり、敎育家たる武士にして、其商業に從事するものは國民の下層に沈澱したる滓渣に過ぎざりき。維新以後に至りて日本政府は意を日本商人の改造に用ひ今や大に舊觀を改めたりと雖も、而も數世紀間に養ひ來りたる習癖は一朝にして除くべからず。是れ日本の軍紀軍律が世間の歎美する所たるに關せず、日本商人の信用が依然として猶ほ昂らざる所以なり。孟軻曰く仁を欲すれば富まず、富を欲すれば仁ならずと。國の爲めに身を献ずることを厭はず、たとひ之を厭ふも、猶ほ忍んで其公義とする所に殉ぜんとするは日本人の長所なり。而かも之と共に一身の經營を疎にして動もすれば理財の道を過らんとするは日本人の短所なり。而して是れ實に封建制度が日本人に與へたる所なり。此の如き歴史的原因を探知するに非ずんば日本人の露國に勝ちたる所以は遂に解すべからず。夫れ月、東天に出でゝ而る後に潮の生ずるを見る。天下固より過去の勢力の能く現在を支配するものあり。日露戰爭の最中に於て日本靑年の中に生じたる非戰論懷疑論の傾向、國家を以て厄介物の如く見んとする個人主義の叫喚、他性に對する情慾の無遠慮なる發露等を一瞥したるものは、誰れか此の如くにして日本の勝ち得べきを想ふものあらんや。されど此の如きは是れ淸流の間に生じたる一派の濁波に過ぎず。國民の大部分は依然として義勇奉公の封建的精神に支配せられたり。是れ其無前の大功を博したる所以なり。若し夫れ不幸にして今日に於て既に其萠芽を現はしたる國家を輕侮するの精神、共同生活の公義を棄てゝ一個の私利をのみ主とする新思想にして日に其勢を長じ、遂に國民全體を支配するに至らば、吾人は斷言す、日本人民の勇名は遂に是より衰へんことを。日本人民は今や此恐るべき危機に立もの也。
封建と郡縣 (四)
封建政治は日本人民を驅りて或る意義に於ける共産的慣習を作らしめたり。而して郡縣政治は支那人民を驅りて極端なる個人主義に陷らしめぬ。漢の武帝の時董仲舒、武帝を説きて曰く秦は帝王の制を改め井田を除き、民をして土地を賣買するを得せしめしかば、富者は田、阡陌を連ね、貧者は立錐の地なきに至れりと。是れ實に郡縣以後の支那を論ずる千古不易の斷案なり。支那の弱點は鉅室富豪の貨財を兼幷して奢侈に長じ、其富に賴りて官吏と交通し、所謂買上買下の魔力を假りて法律と正義とを沈默せしむると共に貧者は窮、骨に徹し、父子離散し、孤獨廢疾のものは天年を終るを得ず、社會の階級は貧富の二級に分れ、所謂中等階級なるものゝ存在せざるに在り。夫れ郡縣の政治は上に治者あり、下に人民あり、之を治むるに法律を以てするに過ぎず。是れ其勢自から人民をして獨り一身一家を經營する個人主義たらしめざるを得ず。之を封建の武士が相見る父子兄弟の如くし一國を見る一家の如くするに比すれば、何ぞ大差なきことを得んや。支那と雖も人々必ずしも不仁にあらず。他人の窮困に逢へば則ち之を救恤するの法を講ずるものあり。其官設のものを擧ぐれば各省には養濟院あり、鰥寡孤獨及び親屬依倚なきの人を收めて之を養ひ又養老院、卑田院、恤婺公局等の類あり。其民間私設のものを擧ぐれば普濟堂(老人を養ふもの)、育嬰堂(貧民棄兒を乳養す)、淸節堂(寡婦の節を守り、貧にして自ら給せざるものを收養す)等の目あり。或は錢米を施捨し、飮食を給與し、夏は則ち茶水を具へ、冬は則ち棉襖を給し、病あらば藥餌を與へ、歿すれば棺衾を具ふ、其週年の費を統計するに决して少數に非ず。岡鹿門甞て杭州武林門の普濟堂を記して曰く、是れ慈善家の醵金して設くる所なり、六十歳以上妻孥なきもの千人を收養す。五人に一房を宛て用ひ、毎餐一飯一味に限ること寺院齋堂の如し。別に定日ありて葷肉を設く。剃頭、湯浴、醫藥皆之を專管するものあり。庭に佛堂を設け、進堂修行は唯其欲する所のまゝにす。立冬には綿襖を給し、立夏には蒲席團扇を給す。千人の數闕れば即ち抽籤を以て補收すと。其設備の大、眞に歎美すべきものありと謂つべし。而も細かに之を察すれば其集むるものは無耻、懶惰の民に過ぎず、其の慈善を行ふの意も多くは陰德を行つて陽報を求むるに過ぎず。天下を以て一堂とし、四海を以て兄弟とし、共同生活の大義に依り平等普及の物質的滿足を謀るの意に至つては即ち索如たりと謂はざるべからず。詩に民の父母の語あり。漢の章帝の詔に曰く、人君、民を視る父母の如し、憯憺の愛あり、忠敬の敎あり、匍匐の救ありと。漢の刑法志に又曰く、
古人言あり、滿堂酒を飮むに、一人あり隅に向て悲泣せば即ち一堂之が爲めに樂まず。王者の天下に於ける猶ほ一堂の上の如きなり。故に一人其平を得ざれば、之が爲め心悽愴たり。
是皆共同生活の大義を叫破したるものなり。吾人は之に依りて支那人と雖も猶ほ家人父子の意を以て一國を經營するの理想なきに非るを知るなり。されど郡縣政治は事實に於て支那人をして此理想に遠ざからしめたり、彼等をして天下國家を念とせずして一身一家の經營に急ならしめたり、彼等をして他人の苦痛を自家の苦痛とするの同情を失はしめたり、彼等の有力者をして兼併を逞ふし、貧富の懸隔を甚しからしめたり、彼等をして共同生活の爲めに一身を献ずるの公義を鈍からしめたり。是れ支那人の爲めに痛歎すべきものなり。
封建と郡縣 (五)
德川幕府の末年に於て日本に來訪したる米國宣敎師の或ものは日本武士の獨り其藩を思ふの心ありて、國民的觀念に至つては則ち寥々たるものあるを見て、日本の武士には殆んど日本國てふ理想なきにあらずやと疑ひたりき。是は外國旅人の觀察としては強ち理由なきものなりとは云ふべからず。蓋し日本の武士は各其藩主に分屬し、藩主の爲めに其馬前に死するを以て最後の義務としたりしが故に、其勢力の集中點は藩に在りて國に在らざりしは勿論なり。さればこそ元祿時代に於て忠名一世に高かりし大石良雄は正直に其信ずる所を語りて「我等は主君(藩主)あるを知りて公儀(幕府)あるを知らず」と云ひたるなれ。賴山陽は德川時代に於ては殆んど武士の圏外に逸したる自由の民なりき。而も彼れが一代の心血を瀝ぎ盡くしたる日本外史著述の一目的は實に水藩の大日本史あるが如く藝藩にも世間に誇稱すべき史書あらしめんとするに在りき。當時の日本武士が其事ふる所の藩を中心として其精力を此一點に集めたるの状想ふに堪へたり。されば始めて日本を訪問したる外國の旅客が日本の武士は藩てふ理想のみありて國家てふ理想なく、排他、反撥の傾向盛んにして統一、同情の念少しとしたるは必しも理由なき觀察なりとすべからず。されど是れ唯だ封建政治の一面を見て他面を見ざるの過のみ。日本の武士が愛藩の念、此の如く盛んなりしは、是れ則ち彼等が藩てふ共同生活を固執したる徴候にして彼等は他年日本國の位置を知ると同時に其共同生活の理想を日本全島に擴充したり。他の語を以て之を曰へば彼等は其藩を愛する心を移して國を愛するの心となし、其君主の馬前に死するの忠義を移して其國家に献げたり。大海は小海の集まる所なり、百里を行くものは千里を行くの地を爲すものなり。日本國民は其愛國心の師範學校として藩なるものを有したり。而して一旦必要の時期に及んでや、則ち多年養成したる忠義の念を一轉して國に献げたり。彼等にして若し藩なるものなく、藩の共同生活なるものなく、武士的素養なからん乎、吾人は决して今日の如き公戰に勇にして、愛國の念盛んなる日本人を見ること能はざるを知るなり。不幸にして支那は此の如きものなかりき。支那の社會的要素は唯家あるのみ。支那人の家に執着するは猶ほ日本武士の藩に執着するが如し。家なる語は支那に在りては日本に於て用ふるよりも重要なる意義を有す。先づ其結構の堅固にして容易に他人の闖入を許さざるを見よ。是れ一個の城廓に非ずや。更に其家廟を見よ。大事あれば家人同族此に會議し、或は紙を以て鬮を作り、祖宗に對して可非を卜問することあるに非ずや。是れ家は寺院宗敎の用を爲すべき神聖の祭壇なり。更に到る處に名家ありて其系圖の久しきこと多くは滿洲朝廷よりも舊るきものあるを見よ。孝行を以て人間至極の理想とするを見よ、祖先の祭を絶つて以て最大なる罪惡とするを見よ。支那人は實に家に執著するものなり、支那の生活の理想は家なり。父慈に、子孝に、兄弟友于なるは支那道德の根源なり。支那は家の外に共同生活の意義を解せざるものなり。是れ支那人の道德が個人的に流れ易く、殆んど一毫を拔て天下國家の爲めにせざらんとする楊朱の説に近き所以なり。諺に曰く眞理は目睫の間に在りと。日漢文明の異同を論ぜんとするもの必ずしも遠く其秘密を探るを要せず、二國の近世史は明かに彼此の殊なる所以を示せり。余、故に曰く封建政治と郡縣政治とは日漢の文明に多大の相異を來さしめたる所以なりと。非邪。
皇室論 (一)
人若し支那の史を讀まば誰れか民主々義の支那人種中に横溢しつゝあるに驚かざらん。左氏襄公十四年師曠曰く「君は神の主、民の望なり。若し民の生を困しめ神を匱くし祀を乏しくせば、百姓望を絶ち、社稷主なからんとす。將た安くんぞ之を用ひん」と。又曰く「天の民を愛するや甚し。豈其れ一人をして民の上に縱にし以て其淫を縱まにして天地の性を棄てしめんや。是れ必ず然らず」と。是れ豈最も明白なる民主々義に非ずや。孟軻に至つては更に甚しきものあり。曰く「丘民に得て天子たり。天子に得て諸侯たり」と。之を解するもの曰く丘民とは田野の民を云ふものにして至つて微賤なるものを指すなりと。彼れは茅屋の民に愛せらるゝに弗れば天子たること能はずと信じたりき。故に彼れは又革命の權利を主張せり。曰く武王の殷紂を討ちしは其君を弑したるには非ず、一夫の紂を誅せしに過ぎずと。此の如き思想は支那史の古今を貫通せり。故に陳勝は「王侯將相奚ぞ種あらんや」と云ひ、漢の文帝は「天民を生じて之が爲めに君を置き以て之を養治す」と云へり。支那に在りては革命は權利にして盜賊は往々天子たり。宋の太祖曾て節度使石守信王審琦等と酒を飮んで曰く「此位に居るは誰れか之を爲すを欲せざらん」と。支那の英雄豪傑は天子の威儀を見れば往々大丈夫應さに此の如くなるべからずやの感を懷き、山中の賊も亦其過半より大王を以て稱せらる。是れ支那は人々皆其心に於て將門純友たるなり。而して此事實は日本の人民が數千年來唯一系の皇統を奉戴し君臣の義牢乎として動かすべからざるものと全く相反す。實に日本の皇室は世界の歴史に於ける唯一個の奇特なる現象なりと謂はざるべからず。明治二十二年の天長節なりと記臆す。余は麻布の東洋英和學校に於て内村鑑三氏の演説を聽けることあり。此雄辯なる勤王論者は其演壇を飾りたる菊花を指して曰ひき、自然が特に日本を惠みたる恩惠は此菊花の如きも其一なり。菊花は實に日本の特有産物なり。諸生等窓を排して白扇倒さまに懸れる富士を見よ。是れ亦天が特に日本を惠みたるものなり。日本にのみ見るを得べき最も美しき景色なり。されど吾人は記臆せざるべからず、日本人が絶えて世界に比類なき自國特有のものとして、最も正直に誇り得べきものは是れ實に萬世一系、天壤と與に窮りなき我皇室ならざるを得ずと。余は此演説の爲めに殆んど一生拭ひ消すべからざる印象を與へられたりと感ず。實に日本の皇室は世界の不思議なり。英文ならば定冠詞Theを不思議の字の上に加へて世界に於て眞に不思議と云ふべき唯一個の不思議とすべきものなり。マコレー卿曾て羅馬法王朝を評して曰く、
地上に於て人間の作りたる事業の中、羅馬公敎會の如く研究の價値あるものは稀なり。此敎會の歴史は人間文明の大なる二大時期を繫ぐものなり。犠牲を燒くの煙が「パンセオン」より上りし時、「フラビアン」の圓形劇塲に「ジラフ」と虎とが驅け廻りし時まで人心をして溯らせ得べきものは世界唯此敎會あるのみ。世界に於て其系圖の遠きことを誇れる最も永續したる王室と雖も之を法王朝に比すれば其壽猶ほ赤子の如きのみ。法王朝は第十九世紀に於てはナポレオンに帝冠を著せ、第八世紀に於てはペピンに帝冠を著せたり。而して當時既に儼存したる法王廳の起源に溯れば更に遼遠にして吾人は茫漠たる小説的の微行に依りて其詳細なる影を失ふに終るべし。
されど法王朝に比すれば日本の皇室は更に久しく、更に確實なる歴史を有す。是豈史を讀ものゝ最も驚異すべき現象に非ずや。
皇室論 (二)
吾人は此所に我皇室の光榮ある歴史を語らざるべし。何となれば、しかなさんとせば日本歴史の全般に亘りて之を評論せざるべからずして此短き論文の能くする所に非ればなり。されど唯一語の全論題を概括すべきものあり。他なし、我皇室をして世界の不思議たらしめたる所以は迷信にもあらず、勿論惰力的遺傳にも非らず、實に國民の生活と相離るべからざる關係あるが爲めなりと云ふこと是なり。他の語を以て之を曰へば日本國民の皇室あるは猶ほ人間に脊髓あるが如く之を缺けば遂に國民たる生命を維持する能はざること是なり。太古の日本人種は熱心なる宗敎信者なりき。彼等の重なる部分は拜天敎の信者にして、而して特に純粹なる敬畏の念を以て太陽を崇拜したるものなりき。彼等は戰爭の時にすら日に向つて弓を放つことを肯んぜざる程の敬虔を有したり。而して之と共に其君長たる皇室を以て日の神の子孫なりと信じたり。彼等は詐なき心を持って其君長を日の神の子なる現神なりと信じ、而して彼等の同胞を以て日本島を經營すべく天の詔命を蒙りたるものなりと信じたりき。斯の如き信仰が彼等をして勇邁ならしめ、正直ならしめ、進取に鋭からしめ、自尊の精神を養はしめ、忠義の感情を焚さしめたるや固よりなり。彼等は之に依りて四隣の異人種を威服したり、之に依りて日本帝國の基礎を堅からしめたり。此時に方りては誰れか神道の信仰を以て我皇室の存在に缺くべからざる原因なりとせざるものあらんや。されど神道は遂に衰へたり。國民の宗敎心は文明の進歩と共に多大なる變化を經たり。日本書紀の欽明天皇紀を讀むものは必ず知らん、欽明の皇女イハサノミコを以て伊勢の太神を祭らしめたることを。而して讀んで後章に至れば此皇女が皇子ムハラキと慇懃を通じたるが爲めに齋宮の職を解かれたるを見ん。是れ豈に神道に於ける人心の變遷を示すものに非ずや。更に讀んで敏達の紀に至れば悲ひ哉、此事實は一個偶然の人情話として終らざることを知る。何となれば敏達の皇女にして齋宮たりしウヂノヒメノミコも亦イケベノミコと慇懃を通じたるの故を以て其職を解かれたればなり。夫れ伊勢の天照大神は日本帝國の祖神として大和朝廷の最も愼み最も畏みて祭りし所なり。今や其祭司長たる皇女を以てして其童貞の純潔を守る能はざるものを生じたること此の如し。是れ豈に神政の時代が既に過去のものとなりたるを示すものに非ずや。然り、神政は過去のものとなりたり。神道に關する信仰は化石せり。されど神道の化石し、宗敎の衰へたるが爲めに皇室は毫も其威稜を减ぜざりき。しかりしより以來、諸種の宗敎諸種の哲學は自から國家鎭護を以て任じたり。恰も自己の宗敎と自己の哲學とに依らざれば尊皇愛國の實を擧げ難きものゝ如く唱道したり。されど彼等は草の榮へて而して又枯るゝが如く遂に枯れたり。而して皇室の威稜は依然たり。藤原氏は政權を一門に集たり、源平氏は之に代れり、將軍政治、執權政治は起れり。種々の政治組織、種々の政治學は新陳代謝せり。而して皇室の威稜は依然として此等の上に超越せり。我皇室は遂に未だ甞て或る宗敎、或る哲學、或る政治組織に執着して之と運命を同ふしたること無く、常に、其上に卓然たり。是れ實に不思議なる現象と云はざるべからず。是れ實に日本國民を解釋せんとするものゝ先づ心を潜むべき問題ならざるを得ず。
皇室論 (三)
何故に日本の皇室は此の如くにして世界唯一の不思議となりしや。吾人の見る所を以てすれば日本國民は始めより一個の共同生活體にして而して皇室は常に其中心として完全なる共同生活の實現に努力したまひたればなり。日本國民は如何なる時に在りても組織的なり、共同生活體なり。未だ曾て統制なき個人主義に還原したるの日なし。日本國民の信仰と哲學とは數ば變化せり。而も組織體たり有機體たる日本國民の生命に至つては未だ曾て一日も中斷せざるなり。他の語を以て之を曰へば日本國民としての共同生活體は殆んど不朽の生命を有す。而して此の如き共同生活體は亦必ず永遠に連續すべき中心的努力あるを要す。是れ我皇室の今日ある所以なり。源親房曾て武人の專權を論じて曰く、
およそ保元平治よりこのかたのみだりがはしさに賴朝と云人もなく、泰時と云ものなからましかば、日本國の人民いかゞなりなまし。此いはれをよく知らぬ人は故もなく皇威のおとろへ武備のかちにけると思へるはあやまりなり。神は人を安くするを本誓とす。天下の萬民は皆神物なり。君は尊くましませども、一人をたのしましめ萬民を苦しむることは天もゆるさず、神もさいはいせぬいはれなれば政の可否にしたがひて御運の通塞あるべしとぞおぼえ侍る。(神皇正統記)
彼れは日本歴史を通じて最も忠誠なる勤王家の一人なりき。されど一人を樂しましめて萬民を苦しむるは天の道に非ずと云り。彼れは日本皇室の尊榮は實に安民の德に在りと思へり。安民の德とは何ぞや。近時の語を以て之を曰へば共同生活體の理想を實現すべき努力に外ならざるなり。親房又承久の役を論じて曰く、
後白河の御時兵革起りて姦臣世をみだる。天下の民ほと〳〵塗炭におちにき。賴朝一臂をふるひて其亂をたいらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかども九重の塵もおさまり萬民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其德に伏せしかば實朝なくなりても、背く者ありとはきこえず。是にまさる程の德政なくしていかでたやすく、覆へさるべき。たとひ又うしなはれぬべきとも民やすかるまじくは上天よもくみし給はじ。(神皇正統記)
其意益々明かなるに非ずや。斯の如くにして我皇室は安民の德を以て長く日本國民てふ共同生活の中心にて在しき。而して其德化の久しきや人民をして感恩の情を深からしめ子孫相傳へて遂に尊王を以て性と爲すに至らしめたり。昔しは木曾の冠者義仲は田舍に育ちたる無學の武將なりき。彼れに從ひて京都に侵入したるものは東山北陸の野蠻人なりき。されど彼等と雖も其尊王心に至つては遂に奪ひ難きものありき。史上に名高き法住寺合戰の如きは義仲等が京都を荒れ廻はりたる亂行の最も大なるものなりしかども、而も平家物語は天皇、法皇に關して實に左の如く記したり。
法王は御輿にめして他所へ御幸なる。武士共散々に射奉る。豐後少將宗長、木蘭地の直衣に折烏帽子して供奉せられたりけるが是は院にて渡らせ給ふぞ。過仕るなと申されたりければ、武士共皆馬より下りてかしこまる。
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主上は御船に召して池に浮ばせ給ひたりけるに武士共頻に矢參らせければ、七條の侍從信淸、紀伊守範光、御船に候はれけるが是は内にて渡らせ給ふぞや。過仕るなと申されければ武士共皆馬より下りてかしこまる。
見るべし、世々感恩の情遂ひに固有の性を爲し、恰も羅馬時代のチユートン人種に比すべき亂暴なる田舍武士と雖も遂に鳳輦の前に拜伏せざるを得ざりしことを。是れ既に七百年前の事に屬す。爾來列聖の深恩厚澤、更に民心に浹合す。日本國民が今日に於て自己の生命と皇室とを連結し、其生命を愛護するが如く、其皇室を愛護せんとするもの亦宜ならずや。
皇室論 (四)
支那の書生の日本に留學せるものに就て其國勢の不振を詰れば彼等の或ものは、そは决して怪しむに足らず、我國勢の振はざるは愛親覺羅氏の朝廷が其施政の方針を過りしものにして我支那人民固有の短所に非ずと云ふを常とす。彼等の語氣を察するに恰も愛親覺羅氏の朝廷を以て異邦人の政治の如く視るものなるに似たり。是れ眞に怪しむべきが如し。而も人若し支那の官制を研究し其大學士、協辨、六部の尚書、侍郞より御史に至るまで、凡そ政府の要地には盡く皆滿韓人を併せ任じて常に漢人の動作を掣肘するのみならず、滿洲朝廷に取りては、恰も德川氏の三河武士に比すべき八旗の猶ほ干城腹心として淸廷に依賴せらるゝを見ば、支那人の中に愛親覺羅氏に對する感情の冷かなるもの多きは决して理由なきことに非るを知らん。此點に於て支那の皇室は日本の皇室よりも寧ろ德川幕府に似たるものなり。支那の皇室は日本の皇室の如く其國民の共同生活を指揮すべき眞個の中心に非ずして其祖先と共に起りたる滿州人の利益をのみ維持せんとするものなり。他の語を以て之を言へば支那の朝廷は支那全國の爲めに政を爲すものに非ずして一種族の治者たる位置を保護せんと勉めつゝあるものなり。是れ支那人民の勤王心が全く日本人の如く濃厚なること能はざる所以なり。法律の上より論ずれば支那の君主は其權甚だ重く生殺黜陟の柄一に其手に在りと雖も、而も之が爲めに全國の民心を一にし國民的生命を皷舞すること日本の如くなる能はざるは人民の之を視ること路人の如くなるが爲なり。されば支那人は日本人の如き勤王心を理會すること能はず、日本の如く皇帝の名に依つて生死すること能はず、日本人の如く其社會を維持し若くは再造する時に方りて其皇室を賴んで最も堅牢なる中心の支柱たらしむること能はず。是れ日漢文明の同日に論ずべからざる最も深く、最も大なる一理由なりとす。吾人の見る所に依れば支那に於ては日本の勤王心に比すべき中心的威權なし。僅かに之に類するものを求むれば唯孔子に對する尊敬の念是のみ。實に孔子に對する渇仰崇拜の念は支那人固有のものにして日本人の無き所なり。日本に在りては孔子は歴史上の人物に過ぎず、一個の偉人たり哲學者たるものに過ぎずと雖も支那に在りては孔子は現在の勢力なり。孔子の廟は國内到る所に散在して士人の拜跪する所なり。人種を殊にし、言語を殊にし、風俗、慣習を異にする各地の支那人民をして猶ほ且つ一國民たる觀念を失はざらしむるものは相共に孔子の遺敎を奉ずてふ唯一個の普通なる精神的紐帶を有すればなり。而も孔子崇拜は要するに宗敎的の事にして遂に政治的の事に非ず。國民をして統一あり、組織ある共同生活體たらしむべき活力として之を見れば固より日本勤王心の倫に非ず。夫れ今の時に方りて列強の間に介在して其人民の勢力を維持せんとせば堅實なる國民的生活を實現せざるべからず。而して之を爲さんとせば強固なる中心的權威なきを得ず。日本は幸にして皇室ありしが爲めに善く此危機に應じて自ら強國の列に上るを得たり。支那は之を缺きしが爲めに其蘊藏せる潜勢力を集めて之を用ふるの機會を得ず空しく今日に至れり。愛親覺羅氏の歴史と現状とより之を言へば、其遂ひに日本皇室の如くなるを得るの日あるは蓋し豫期すべからず。他年交通機關十分に發達し、民族の觸接、倍す親密なるに至らば支那の天下は或は一變して共和政治となるに至らん歟。是れ未だ其必無を斷言すべからざるに似たり。何となれば支那の思想は民主的にして、其人民は日本人の如き勤王心を有せざるものなればなり。
敎育と學問 (一)
日本は數世紀の間、學問と政治とを全然區別せり。德川氏の武家諸法度は儒者を以て巫醫僧道と同じく技藝の職にして士林の列に混ずべからざるものとせり。林氏は當時の人之を祭酒と稱し、學者の仰で宗主とする所なりき。而も其始祖道春の秩は纔かに千石に過ぎず。(儒職家系に曰く林道春慶安四年十二月十五日、大猷院殿御遺命あるを以て采地武州赤木、袋梯、沼上、奈良四邑を加賜す。舊知を併せて食祿九百二十石なり。)其増して三千石に至りしは寛政年間林衡が岩村侯松平乘溫の第三子を以つて入つて其家を嗣ぎし後に在り。新井君美は將軍家宣に値遇し、時政を參劃する所多しと稱せられ、人或は比するに菅丞相を以てす。讀書生に在つては是れ實に飛龍の天に在るが如くなりしなり。而も其秩は纔かに千石のみ。其他木下貞幹の將軍綱吉に拔擢せられて秩は僅に三百俵に過ぎず。室直淸の將軍吉宗に知られて而も二百俵の儒者を以て一世を終はりしが如き、幕府の讀書生を待つ何ぞ甚だ輕きや。之を要するに最近數世紀の日本は學問と政治とを分離し、學者と官吏とを絶縁し、學問の事を擧げて民間篤志の人に一任したるものなり。之を支那が隋唐以來科擧の制を變ぜず、專ら經藝を以て士を採りしに比すれば其差眞に天壤と謂つべきなり。されば日本の學者も昔時に在つては支那を羨むの情なき能はず。卓識の士、賴襄の如きものと雖も猶ほ支那の學者は其學問を以て實地に用うるの日あるを期するが故に見識空疎ならず、日本の學者は其學ぶ所を以て通信、達志に供せらるゝ外は殆んど當世に用なきものとして待たるゝを以て勢徒らに虚文に馳せざること能はざるを慨したりき。而かも天下の事は往々豫期に反するものなきに非ず。日本の學者が其學問を以て頭を政治界に擡ぐべき機會とすることを得ざりしは、却て學問をして政治以外に獨立せしむるの地を爲し、支那が科擧を以て士を取りしは却て學問をして政治の奴隷たらしむるに至れり。試に近頃までの支那を見よ。八股の文を以て士を取りし結果は如何。天子宰相は是を以て士を求め、儒生は是を以て人に應じ、父兄は是を以て子弟を敎ふ。其爲す所の文章を見れば眞に所謂心肝五臟皆錦繡にして、口を開きて文を成し、毫を揮つて霧を散ずるの概ありき。而も一國の人才を擧げて八股の圏套に陷らしめたるの結果は則ち如何。之と政治を語れば幹濟の能なく、之と軍事を論ずれば空疎の言多し。才華綺麗にして文字新奇なりと雖も、一たび實用を論じ、當世の急務を議するに至つては遂に雲煙の如く然り。是れ學問却て人心を殺したるものなり。此に知る、日本が學問と政治とをして無關係ならしめ、學者をして志を當世に絶たしめたるは學界の劫運なるが如くにして、而も其實は人心靈動、思想獨立の地を爲し、支那が學問を以て士を取り、官吏をして必ず讀書生たらしめたるは經藝の樂地なるが如くにして而も其實は人をして眞學問、眞智慧を失はしめたるものなることを。近時鄭陶齋の盛世危言に之を論じて曰く、
中國の文士、專ら制藝を尚ぶ。即ち本國の風土、人情、兵刑、錢穀等の事、亦素習に非ず。功令の在る所、士の此を工にするものは第を得、此に工ならざるものは即ち第を得ず。豪傑の士と雖も、亦有用の心力を以て無用の時文に消磨せざるを得ず。
此言之を盡くせり。科擧は實に支那人の天才をして無用の化石たらしめんとしたるものなり。
敎育と學問 (二)
德川氏の時は官員は必ず門閥を限りて資格を定め無能の人にても上品のものは重任を負ひ高材逸足の徒と雖も下品のものは生涯下僚に沈淪せざるを得ざりしかば中央政府諸曹の長次官、地方の奉行代官等は大抵事を解せざる肉食者流の子弟に占められ、從つて其職分を執行すべき實力を缺き、老中の局に在りては祐筆組頭の徒威福を弄し、町奉行所、代官所等に至りては與力同心手附手傳の流、文を舞し、法を抂げて人民の畏るゝ所たりしは、我日本人に取つては全く遺忘し得べき過去の事に非ず。則ち天保度の大鹽平八郞が纔に與力の卑職を以て關西に雄視したりし事實は之を證して餘あり。同じ原因は同じ結果を生ず。德川氏の門閥を限りて人に任ずる、滿淸朝廷の八股を以て士を取る、其外形は全く同じからずと雖も其官員を無能力ならしむるに至つては則ち一なるが故に、其結果も亦一ならざるを得ず。たとへば德川氏の時に於て大官悉く木偶塑人となり、實權却て賤門寒族に歸せしが如く支那政府の實權も上朝廷に在らず、中大官に在らず、却つて胥吏刀筆の吏に屬するに至れり。夫れ適才を適所に置くは政治學の通則にして又政治歴史の趨勢なり。法律や、制度や、豪傑の威力やは時としては愚者の要地に置きて此通則を顚覆せんと試むるものなきに非ず。而も如何なる勢力も引力の法則を妨害する能はざるが如く、如何なる人爲の制度も遂に不能力者をして能力あらしむること能はず。是に於て法を作りて人才を抑へんとすれば人才は却て法を潜りて其威力を逞ふし、制度を設けて天然を殺さんとすれば天然は却て制度を呑噬して之を消化す。八股の文固より士を得るの道に非るが故に科擧に依りて官となるもの大抵有用の才に非ず。大官既に有用の才に非れば則ち小吏窃に其權を竊まざるを得ず。是れ近時の支那が書吏、差役の天下にして官員の天下に非りし所以なり。書吏とは何ぞや、猶ほ德川時代の評定所留役の如きなり。差役とは何ぞや、猶ほ德川時代の同心の如きなり。淸國近代の政治機關は内は内閣六部より外は督撫守令に至るまで所謂書吏差役なるものなきは無し。而して其數は各部の書役多きものは千人に至る。渠魁數十あり、各之を世襲の業となし、或は其職を賣るものあり。猶ほ我幕府の時に於て與力同心の徒が其所謂株なるものを賣買したるに類す。彼等は少年より吏曹の中に在り、文案の間に長じ、最も故事に暗練す。故に書生の始めて官員となりて彼等の上に蒞むものは名は官長と稱すと雖も、實は敎を彼等に仰がざるを得ず。たとへば刑部の一局を以て之を説かんに、一の判决すべき問題ありとせん。之に擬すべき律は數案あり。其判决例に至つては則ち數十百件に至る。前後枝梧し、或は甲を助くるものあり、或は乙に背くものあり。援引附比、其曲折を極めて適當なる斷案を下すことは到底書生出身の人の辨じ得る所に非るなり。尚書侍郞は名に於て刑部の長官次官たりと雖も、其家を起すや文事に在り、律例は其諳んずる所に非ず。而も法律は尊び、慣例は重ぜざるべからず。是に於て抂げて書吏の案に同意せざるを得ず。或は精力の人に勝るゝものあり、徒らに書吏の爲めに役せらるゝに忍びず、自ら奮つて問題の研究に著手するものあれば、則ち案牘案に堆く、讀んで未だ卷を終らざるに已に目眛く、意倦むを免れず、勢遂に成を書吏に仰がざるを得ず。是れ唯一例なり。而も書吏の虎威を假りて私を爲すの秘密實に此に在り。
敎育と學問 (三)
支那の諺に曰く堂官は司官に如かず、司官は書吏に如かずと。大權却て逆まに下僚に在るを云ふなり。而して此弊實に八股を以て士を取りしに基けり。八股の學は英才をして天下の實務を解する能はざらしむ。是れ書吏の其間に乘じて姦を爲せし所以なり。是故に古より支那の名君賢宰たるもの勉めて書吏の專横を防がんと欲せざるは無し。淸朝の初、張廷玉吏部侍郞たりしとき、一司員あり、外省の公文を持し來りて曰く此文元氏縣を誤りて先民縣と爲す、當に駁して省に回すべきなりと。張謂へらく、若し先氏を元民に作らんは必ず外省の誤なり。今元氏を先民に作るは安んぞ書吏の筆畫を添へ、賄賂を需索するの計を爲すに非るを知らんやと。因て詳かに其事情を査し、吏を貶けて其罪を正したり。是れ才幹あるの士、勉めて書吏に靠るの弊を除かんとしたるなり。嘉慶帝も亦甞て勅を發して書吏の弊を除かんことを欲したり。見るべし、支那の君臣必しも書吏の大害を知らざるに非るを。而も知つて遂に之を制する能はざりし所以は何ぞ。要するに科擧の法は天下の人才を殺して全く能力なきものたらしめしが爲めのみ。差役の害は書吏の甚だしきが如くならず。而も外省州縣に在りては多きもの數千に達し、少なきものも數百人に至り、其勢に倚り力を賴んで良民を魚肉にするの弊は必ずしも多くの書吏に讓らず。支那に於て國政を議するもの常に必ず書役に切齒して、而て書役の害、實に科擧に在ることに至ては則ち茫々然として解せざるもの少からず。是豈甕中に在るものは甕の輕重を知らざるものに非ずや。試みに支那の内地を旅行して其大官の道上を過ぐるを見よ。鑼を鳴し、旆を飜へして唱道し、輿馬傔從、前後に簇擁す。何ぞ其れ盛んなるや。而も飜つて其政治家たる實力を見れば徒らに虚文に束縛せられ、書役に指揮せらるる偶人たるに過ぎず。其情亦何ぞ憫れむべきや。推して之を論ずれば堂々たる滿淸の朝廷は遂に一個の木乃伊たるに了はらんとす。是豈我隣人の深憂大患に非ずや。昔しは甞て科擧の法を以て天下の人心を愚にし、智勇辯力の士を擧げて悉く虚文の圏套に墮としめ因て以て泰平を致たすの具なりとしたるものあり。是れ天下愚なる時は則ち異心を生ぜざるべきを以てなり。而も因果は環の端なきに似たり。支那の朝廷は科擧を以て民心を愚にしたり。而して其結果として朝廷自ら愚となりて天下の政治機關を擧げて小吏の飜弄する所たらしめんとす。敎化の國政に影響すること何ぞそれ太甚しきや。此の如くにして支那の人心は數世紀の間全く空文虚詞の殺す所となれり。之に比すれば日本に在りて武人の政治が學者を輕蔑したるは一見甚だ人心に害ありしが如くなれども、實は其の弊猶ほ淺きものなりと謂ひつべし。何となれば國人皆學問あるの故を以て志を政治に得ざりしが故に學問は奔競の具とならず、讀書は功名の途に落ちず、人心却て政治以外に靈動し、各思想の自由を縱にして以て其好む所に從ふことを得たればなり。たとへば數學を修むるものゝ如き、誰れか是を以て官途に出身するの具となさんや。要するに唯好む所に偏して一心の滿足を求めんと欲するに在るのみ。學問是に於て乎安飽の具に非ずして良心の業たり。乃ち澁川春海の如きあり、関孝和の如きあり、中根元珪の如きありて相輩出し、日本數學の一途、獨造深詣、西洋を凌ぐものありき。是れ英才既に學問を仕途の具とするの望を絶ち、獨立自由の研究を其好む所に恣にしたればなり。
敎育と學問 (四)
論者或は曰はん、日本に在ては學問と政治と全く絶縁したるが故に學問は獨立せり、支那に在りては科擧の制ありしが故に學問は政治の奴隷となり從て人民の智識を殺し了はれりとの説は一見甚だ理あるが如し、而も猶ほ解すべからざるの一事あり、他なし支那に在りては其累試第せず志を當世に得ざるもの、其上等なるものは則ち不平を酒色に漏らし、頽然自ら放にし、猖狂を達なりとし、放誕を豪なりとし、妄庸を賢なりとし、迂疎を高しとし、遊戯の文字を售りて錢に換へ、卑猥の小説を作りて風俗を破壞し、其中等なるものは風水、星相、命卜を假りて人民を蠢惑し、其下等なるものは即ち流れて盜賊となる。試みに支那の大都を歩して日本に於て多く見るべからざる奇怪なる人物を數へよ、漂泊して文を賣る詩人あり、潤筆料を定めて書畫を作る、是れ日本に於ても猶ほ見るべきものなり、道人、僧尼あり、是亦日本の在る所なり、乃ち風水を談じて以て業とする堪與家、神佛に託して勸善懲惡を説く陰陽家、人の生年月、日の吉凶、星宿の所在に依りて禍福を論ずる算命先生、夢を卜ふものゝ類に至つては其多きこと固より日本の比に非ず。此輩は皆な天下の所謂遊民にして而して一旦機會を得れば多くは奸雄に從つて革命の軍に加はるものなり。紅巾、長髪、捻匪の如き、其愚民を煽動するもの多くは此種の人なり。是れ日本に在りて見るべからざる事態にして獨り支那に於てのみ存する現象なり。殊に盜賊の威力に至つては支那に於て最も甚しきを覩る。高山峻嶺若くは海島の險阨なるものは多くは賊巣に變じ易きものとす。而して其首魁は自ら大王と稱し、其徒を集むるの處は僭して聚義廳と云ふ。是れ必しも獨り水滸傳時代の事に非ず。今日に在りて、朝廷に用ひられず、江湖に淪落するもの多く結聚して盜を爲す。支那に在りては人民の卑屈なるものは乞丐となり、強くして力あるものは多く盜賊となるは第廿世紀の天地猶然り。故に其盜賊の種類も亦日本人の夢想せざるものあり。流賊と云ものあり、群をなして都邑に横行し、婦女に遇へば淫し、孩子に逢へば殺す。其暴殆ど常識の外に出づ。拐匪と云ものあり、城郷市鎭の間を往來し一たび小兒を見れば之を誘拐す、或は小銃白刄を携て白日横行、妓婦を盜み去るものもあり。近時臺灣は日本の領地となりしが爲めに所謂土匪の禍を免れたりと雖も、數年前までは其害惨烈にして眞に新移住民なる日本人を驚殺せしむるに足るものありき。彼等の黨多きものは百餘人、少きものは二三十人、各銃劒を提へ暮夜炬火を擁し、驀然人家を襲ひ、門戸を壞ち、牆壁を破り、主人を捕ふ。主人在らざれば子弟を捕へ、去つて其藪窟たる深山幽谷に赴き、其捕虜を質として償金を求むと云ふ。是れ獨り臺灣のみならず支那の全部悉く此種の匪徒を以て滿つ。夫れ日本に在りては志を當世に得ざるもの却て意を學問に致し、支那に在りては志を當世に得ざるもの術士道人、盜賊となる。是れ其故何ぞや。甚だ解すべからざるが如しと。而も是れ亦故あり。支那の浪人と日本の浪人との此の如き相違を來たしたる所以のものは郡縣政治と封建政治が政治に及ぼせる勢力の疎密にも依るべく、學問と絶縁せし政治家は却て學者を敬し、科擧に依りて士を取りし政治家は科擧の門を經ざる秀才(書生を云ふ)を輕蔑するの風あるにも依るべしと雖も、更に他の大なる理由あり。他なし、日本に在りては古來平民の間に敎育の比較的に普及するものありしも支那に在りては否らざりしが故に平民、學者を敬するを知らず、從つて民間に於て學問の獨立することを得ざりしが爲めのみ。是れ其故何ぞや。請ふ吾人の下に説く所を聽け。
敎育と學問 (五)
日本の人民と支那の人民との敎育は其程度に於て全然同じからず。支那人民の無學は眞に驚くべきものあり。而して是れ獨り今日に始まれるには非ず、何れの時代に在りても日本の人民と支那の人民とは其智識の程度に於て同日に論ずべからざるものありしが如し。そはサヴエールの言之を證し、德川幕府の時代に於て日本を訪問したる和蘭人の言之を證す。彼等は常に普通の日本人民が事理を解するの鋭敏なるを驚異せざるは無し。然る所以は何ぞや。日本人は「イロハ」の如き簡單なる音字を有し、僅に四十六字を知れば以て記述の用を爲すべきに反し、支那人は多數の象形的文字を知るに非れば、其文學を解する能はざればなり。日本が漢字の渡來以前に於て今の假名の如きものを有したりや否やは史家の衆訟決せざる所にして、古語拾遺の著者は大同三年(八〇八年)を以て「上古の世未だ文字あらず。貴賤老少、口々に相傳へ、前言、往行存して忘れず」と云ひ、三善淸行は昌泰三年(九〇〇年)の革命勘文に於て「上古の事皆口傳に出づ」と云ひて、漢字渡來以前には文字なかりしことを暗指したれども釋日本紀の作者は此説に反し和字の起源は神代に在るべしと論じたり。或は嵯峨天皇の朝に或人圖書寮の藏本を見たるに梵字に似たる字あるものありきと云ひ、鹿島神社に傳へたる古字は支那苗人の書に似たりと云ひ、古社僻邑に朝鮮の諺文に似たる文字の殘存せるものありと云ひ、續博物志に倭辰餘國(倭は日本、辰は震國、餘は夫餘を指すか)は或は横書し、或は左書し、或は結繩し、或は木に刻すとあるに依るも、漢字以前に於て日本に一種の文字ありしと云ふは必しも架空の談ならざるに似たり。されど此文字は遂に其用を失ひたり。而も之と共に漢字の音を假りて日本語を寫すことを發明し、所謂萬葉假名なるものを作り、是に依りて國語の文體を其儘に保存するの道を開き(古事記、萬葉集、宣命文の如き是なり)次で片假名、平假名の發明となり、更に一轉して國文學の發達となり源氏物語の如き名作を出すに至れり。しかりしより以來日本國民は始めて象形的文字の桎梏を脱し、簡單なる音字を以て思想の交換を爲すことを得るに至れり。今日と雖も日本人民は猶ほ漢字の爲めに苦しまざるに非ず。されど幸にして假名を添ふる時は童兒走卒も猶ほ之を讀むに苦しまざるを以て文學の普及すること頗る易し。支那人は之に反す。彼等は今日に在りて其制度を解し、其歴史を讀み、其新聞紙を見んとせば必ず無數の字形を暗記せざるべからず。是れ支那人の無學多くして日本人の智識高き所以なり。我輩は曾て臺灣の少年が羅馬字を以て其父兄に通信するものを見たり。羅馬字は二十餘字に過ぎず。其綴方だに學び得ば如何なる言語も寫し得られざることなし。臺灣人甚だ之を便とす。是れ英米宣敎師の彼所に在りて敎ふる所なりと云ふ。漢字に苦しむもの獨り日本人のみに非ず、漢人自から之に苦しみ、若し音字の之に代はるものあれば喜んで之を便とすること斯の如し。日本は假名ありしが爲めに其人民は學問あり、且學問を愛す。故に民間の書を讀むもの必ずしも道士盜賊に落つるを要せず。支那は漢字のみなるが故に其人民は學問なし。從つて學者を容るゝの餘地なし。是れ日漢兩人種の敎育に霄壤の差を來たしたる所以の一なり。
敎育と學問 (六)
音字を有すると有せざるとの結果は最も善く家庭敎育に現はれたり。日本に於ては德川時代より商人は其妻を以て家の大黑柱と稱し、其家業の盛衰を以て、其大半は妻の人となりと歸せり。即ち商人として成功せんとせば其婦は數學の初歩を解するものならざるべからず、帳簿を記入し、之を整理するを得るものならざるべからず。書簡を作り、其顧客及び傭人と通信するを得れば更に妙なりとす。所謂町家の女房氣質なるものは則ち是にして、遠くは西鶴、其碩、近くは京傳、京山等の描寫したる平民的女性は實に此の如き敎育を有したるなり。されど眼を一轉して支那を見よ。平民の婦にして文字を解するものありや。臺灣に旅行したる人は必ず知らん、同島に在りては凡そ土人の商家にして日用の書簡を始め家政帳簿の類一も婦人の手に成るものなく、一切男子の業とし、婦女は殆んど之に關せざるに非ずや。是れ獨り臺灣の一嶋に限らず、十八省實に皆此の如きなり。人或は支那の女子も亦詩を吟じ賦を作り、男子と唱和するものあるを見て、支那の女子と雖も、其敎育の程度必ずしも低くからずと云ふ。而も是れ皮相の見なるのみ。支那の女性にして書を讀み文を作るものは中流以上の家に止まる。富豪に非れば所謂衣冠宦族のみ、决して平民に非るなり。昔し英國に在りて國文學の未だ盛んならざるや、其女流の中には往々にして希臘、羅馬の古典を讀み、自ら筆を把て希臘文、拉丁文を作るものありき。されば同國の論者或は古の婦人が古典を知るもの多く今の婦人が之を解するもの少きを以て今人、古人に如かずと云ふものあり。殊に知らず古の女子が古典に通じたるは當時の文學として存するもの唯だ之のみなりしに依るのみ。而して其古典を解するものも亦高貴なる紳士の家にのみ限りたりき。即ち國文學の發達せざる結果として學問は唯貴族の階級に限られしなり。支那の現状、何ぞ之に殊ならんや。音字を有せざる支那の敎育は遂に平民に及ばざる也。余曾て少年の時、郷先生と東西の小説を論ず。郷先生曰く日本の小説は何ぞ夫れ卑猥なるや。曰く阿駒、才三、曰く阿染久松、曰く三勝半七、其主人公は多くは是れ市井の匹夫匹婦にして學問なきものなり。支那の小説は即ち然らず、其主人公は多くは飽學の秀才なり、其意中人と相會するや共に詩を賦し、文を論ず。少女の戀人は必ず胸中萬卷を藏するの人なり。支那が風雅あり文學あるの國にして日本が無學の國なること知るべきなりと。余當時以て至論となしたりき。されど今に至つて之を思ふに是れ顚倒の見なるのみ。日本の小説が市井の匹夫匹婦を以て其主人公とするものは是れ直ちに市井の匹夫匹婦も亦文學の趣味を解することを證するものにして、支那の小説が秀才、閨秀をのみ描寫するは則ち其國に在りて小説を讀むものは單に小數の讀書生に限ればなり。在昔日本に於て國文學の未だ盛んならざるや、其小説源氏、大和の類も記する所は多く縉紳家の内事に過ぎざりき。是れ之を讀むもの、縉紳家に限ればなり。然るに近代に及びて日本の小説が市井の事を記すに至りたるは即ち日本平民の間に敎育の普及したるを證するものにして是れ却て祝すべきなり。夫れ少數の階級にのみ敎育を限りて普通の人民は即ち一丁字を知らず。國運何ぞ盛んなることを得ん。日漢の文明、霄壤の差を爲せしもの亦宜ならずや。而して是れ實に支那の音字を有せざるに職因すとせば支那人民たるもの何ぞ深く思はざるを得んや。
敎育と學問 (七)
近時支那人も敎育の大に改革せざるべからざるを知り、北京に大學堂を設け、敎ふるに天學、地學、道學、文學、武學、農學、工學、商學、醫學を以てし、各省亦中學堂、師範學堂、蒙學堂を設くるものあり。且學堂の業を卒へたるものを仕途に就かしむるの途を開き、別に同文、方言、水師、武備の各堂あり、盛んに文明の學を輸入するを勉むるに至れり。是れ實に支那に於ける國運一轉の機なりと云はざるべからず。支那人にして若し深く意を此點に注ぎ千古の弊習を改むるに勉めば我輩は所謂眠れる獅子の遂に必ず覺るの機あるべきを信ずるなり。されど支那を改革せしむること談决して容易に非ず。敎育の事、亦遽に功を見難きに似たり。其故何ぞや。漢字が敎育上の一大妨害たるは既に畧ぼ之を論じたり。而も支那敎育の妨害たるもの獨り漢字に止まらず。其社會組織も亦學校の繁昌に利あらざるものに似たり。我輩甞て之を西人に聞けることあり、米國に於て有志の士、或は支那勞働者の状態を改良せんとするものあり。彼等の爲めに小學校を設けて之に簡易の學問を課す。而も其敎育の術に至つては乃ち大に窮することなきに非ず。支那人は學校の敎授法に慣れざるが爲めに一人の敎師を以て數十人の生徒を敎ふるが如きは彼等の解する所にあらず。若し彼等をして眞に其學ぶ所を了解せしめんとせば殆んど一人の生徒に一人の敎師を要す。是れ米國有志者の苦しむ所なりと。此言或は實に過ぐるものあらん。而も學校の事業たる、社會を反映す。社會にして公共の精神に富み、公共の事業に慣るゝ時は其敎育も亦一人の敎師を以て多數の生徒を率うるを得べし。封建時代に於ける日本武士の國は一個の共産的社會なりき。故に諸侯の學校も亦一個の共同生活なりき。苟も士分の子たるものは其學校に會して共同の敎育を受くるは當時の學校の理想なりき。乃ち平民の學校、所謂寺子屋なるものと雖も、其主義は共同にして一人の敎師あり、人民各其子を敎師に遣はし、共同の机に依り、共同の敎育を受けしめたりき。此素養あり。日本が新學制を布くに當りて恰も火の薪に麗くが如く、水の渠に流るゝが如く其業甚だ容易なりしもの亦宜ならずや。支那に在りては然らず。試みに支那を旅行して其所謂書院なるものゝ性質を見よ。是れ富豪の子弟、師を延き、其子弟に課するものにして其性質たる全く私人のものに非ずや。たとへば書院を建るもの、志は學問を公にして以て四方の士子を待つに在りと雖も、而も其來り學ぶものは大抵富豪の子弟にして平民に至つては乃ち之に與ること能はず、荒嬉頽廢、眼中一丁字なきを以て甘ずるに非ずや。夫れ書院學堂なるもの多くは大官巨姓の貲を捐てゝ建設する所にして之に學ぶものは則ち富豪の子弟なり。而して之に學ぶ所以のものは亦唯仕途の爲めなりとせば其敎育の性質亦畧ぼ察すべきなり。されど富豪の子弟相率ゐて學校に行くこと此の如くなるは、支那に在りては最近の事例にして、近時に至るまで支那人は敎育とは家塾に在つて其僱聘したる先生に學ぶものにして其敎授法は則ち一人の一人を敎ふるに外ならずとせり。米國に在る支那人が公學の敎授に慣れざるが爲めに殆んど一人の生徒に一人の敎師を要すと云ふもの亦唯本國に於ける敎授法を見るに熟し、因て以て當然の事なりとしたるが爲めならんのみ。故に支那に日本式の學制を布くは必しも難事に非ず、而も其社會の病癖たる貧富の懸隔を破壞し、其敎育を以て一人の私事とするの觀念を亡ぼすは是豈一朝一夕の能する所ならんや。
敎育と學問 (八)
世人は比較的に注意を拂はずと雖も日漢の平民敎育に於て看過すべからざるものは日本の所謂心學、軍談、落語を事とするもの、支那の所謂講古師、講善師の類なり。日本の往時に於て平民は所謂寺子屋なるものを有したりと雖も、而も其課する所は單に讀書、算數、習字の初歩に過ぎず。所謂童蒙の師にして成人の敎に非ず。壯年のものに至つては殆ど其心性を養ふべきものなかりき。此時に方りて其欠陷を補ふべきものは、宗敎、道德の修養に於ては則ち心學者あり。歴史、傳記、小説を説くものに於ては則ち軍談師、落語家の類ありき。彼等は市井の間に在りて無學の人民に伍したるが故に多く士君子の齒する所たらざりき。而も彼等が其口舌を以て平民の智識を開拓し性情を淘冶し國運の進歩を助けたるの功に至つては眞に沒すべからざるものあり。荻生徂徠曰く「善く人を敎ふるものは必ずこれを吾が術中に置く。優游の久き其耳目を易へ、其の心思を換ふ。故に吾が言を待たずして而して、彼れ自然以て之を知るあり」と。心學者、軍談師、落語家の日本平民に於ける、亦徂徠の所謂聖人の道術に比すべきものなりき。則ち其久うして自ら人心を化するの功に至つては儒者の業と雖も遠く及ばざるものあり。大隈伯甞て曰く日本人民が露西亞と戰つて大に之に克つを得たるものは、日本平民の英雄的神經甚だ猛烈なるに依れり。日本の平民は其茅屋に住むものと雖も悉く是れ愛國者なり、悉く是れ忠臣義子を理想とするものなり。是れ實に日本の長所にして其殆ど百戰百勝の概ありし所以なり。而して日本人民をして其英雄的神經此の如く盛んならしめたる所以のものは所謂軍談師、舌耕家の如きものの説く所、自然に彼等を化すること多かりしなりと。此言實に之を得たり。所謂寄席なるものゝ平民敎育に於て其影響の大なる、眞に夷の思ふ所に非ざるものあり。幸ひにして支那も亦此の如きものを有す。甞て久く臺灣に在りて其風俗に熟したるものあり。書を著して之を論ず。題して臺風紀事(*佐倉孫三『臺風雜記』原漢文)と云ふ。曰く、
坐を街路に占め、高聲古事を談ず。聽くもの堵の如し。之を講古師となす。所謂三國志、水滸傳の類、辯説誇張、抑揚波瀾あり、人をして情を起さしむ。我所謂辻講釋なるものなり。唯彼れは書を見て之を講じ、我は則ち記臆して之を談ず。其感情稍異なり。臺人士氣を激勵せんと欲す。則ち往々其方を用ふと云ふ。
是れ何ぞ日本昔時の所謂太平記讀み、軍記讀に異ならんや。彼れ又曰く、
講古の外、講善なるものあり。稠人廣坐の中に在り、諄々として彜倫、道德、慈善の理を説く。引證鄙近なりと雖も謔に流れず、辭氣高尚ならずと雖も邪を失はず。聽者をして自ら慈悲仁愛の心を發せしめて、而して己未だ曾て一錢を受けず。是れ我が所謂心學道話會の類のみ。其勸善懲惡の効、亦鮮少ならず。是を以て秀才紳董の學識あるものを除くの外其感化を受くる甚だ多しと云ふ。
日本の心學者も亦心學の講話を開くとき一錢を要せざるが故に何人も來聽せよと標示したるものありき。而して此種の講古師、講善師は獨り臺灣のみならず南淸地方に多く存在することは我輩の曾て聞る所なり。南淸の人民、習尚強悍にして動もすれば一村を擧げて他の一村と相戰ふ。死生を賭して悔いず、人の爲めに身を殺して以て快とす。往々水滸傳中の英雄を以て自ら居るものありと云ふ。是豈講古師の化與りて力あるに非ずや。人心は虚なること能はず。文字を讀まざるの平民と雖も智識に饑渇す。是に於て乎、別に此種の敎育機關あり。是れ日漢の同じく有する所なり。
敎育と學問 (九)
ベンヂヤミン、キツド甞て社會進化論を著はす。其大意に曰く一個人の智能は古今東西必しも大差なし。文明諸國の學者と雖も濠洲の土人と雖も、若し其社會が彼れに與ふる恩惠を剥ぎ去り、單に之を天地間に存在する一個の人間として放在せば其力量の差决して甚しからざらん。唯夫れ文明國は人類相助け相長ずるの社會機關發達しつつあるが故に學校あり、書籍あり、交遊あり、人物養成の途、全く備はれり。是れ其人才の彬々たる所以なり。野蠻人に至つては其社會の機關發達せず。從つて人物を敎ふるの途なし。其智見の進まざる、之が爲めのみ。此に知る、文明の進歩なるものは一個人の進歩と云はんよりは寧ろ社會機關の發達に在りと云ふべきものなるをと。是れ實に移して以て日本支那の文明を論ずべきものなり。交通機關の未だ發達せず、科學の應用未だ廣からざるの世に在りては、領土の大なるはたま〳〵以て其社會機關の發達を害するの傾なきに非ず。波斯の如き、印度の如き上古の大國が其政治組織の確立せらるゝことなく、其人民の國民的感情甚だ薄かりしものは主として之に依れり。されば當時に在りて國家社會の良心鋭敏にして、社會が其の全體の力を揮つて一個人の發達を助け、一個人が其の身を以て社會共同の進歩に供し、二者の相待つこと甚はだ殷んなるものあるは唯天然が自から小邦を劃するものに在り。希臘羅馬の如きは即はち是れなり。此の理は日漢二國に於ても亦た同じ。支那は其領域の極めて廣かりしが故に其人民の最大多數は自國を以て一世界となすのみ。其見て以て一個の國家とし、國家機關の組織が直ちに自己の生活に相關するものなりとするの感に至つては甚だ乏し。支那の平民が契丹來れば契丹に服し、蒙古來れば蒙古に服し、滿洲來れば滿洲に服し、絶へて日本の歴史に見るが如き國家を愛護するの情を表はさゞりし所以のものは彼等の社會が深く國家機關の恩惠を感ずるほどに發達し居らざればなり。一言にして曰へば支那平民の胸中には天下(即ち世界)ありて國家なく、個人の利害ありて公共の利害なし。即ち社會なくして唯一個人あるのみ。其文明の進歩意外に遲鈍なること亦宜ならずや。今日と雖も支那人にして國家的觀念を有するものは唯學問ある少數の階級のみ。此階級のみ獨り國家にして其他は即ち散漫なる無意義の人群なり。日本の國情は之に反す。日本は小國なり、島國なり。其社會的良心は始めより甚だ鋭敏なり。日本人民が其國家を愛護して一身の利害を省みざりし事例に至つては古今其多きに苦しむ。西人或は支那を以て日本の師なりと云ふ。則ち日本は其文物制度を支那に擬し以て今日に至れりと云ふなり。然も是れ一を知つて二を知らざるの論のみ。日本は實に法律制度文學に於て支那の弟子たりき。されど其社會的良心の鋭敏なるに至ては始より支那の及ばざる所にして日本の獨り卓越せる所なりき。日本は此鋭敏なる社會的良心に依りて其先進國たる支那の政敎を消化し、移して自己の物とするの後に至つては其應用の廣くして、其民心を支配するの深きこと支那の及ぶ所に非りき。たとへば兵制の如き、地方政治の如き、支那に在りて久しく紙上の空文たるに過ぎざりしものも、之を日本に採用するに及んでは比較的に長期間の彈力を有したりき。是れ近江朝令以後數百年の日本歴史を研究するものゝ看過する能はざる所なり。夫れ日本に社會的良心盛んにして支那に闕如す。二國の文明に大差あるもの之れに因れりとせば、キツドの論吾を欺かずと謂つべきなり。
文武輕重 (一)
世人多く曰く日本の雄を東亞に稱するものは尚武の氣象に富むに在り、支那の振はざる所以は其世々文官を尊んで武人を賤みたるに在りと。此言必しも然らずと云ふべからず。されど語りて未だ詳かならざるものあるに似たり。請ふ吾人をして更に二國の歴史を點檢して其文武輕重の因て出づる所を論ぜしめよ。支那は嘗て唐の太宗の時を以て一種の徴兵制度を布きたりき。所謂府兵の制なるもの是なり。此制度たる其精神は實に全國皆兵たるに在り。國民皆其力を出して國の治安を防衞するに在り。理想に於ては固より間然すべき所なかりき。されど壤地の廣大にして、國民的感情の未だ十分に發熱せざりし當時の支那に對しては此制度は寧ろ餘り多く進み過ぎたるものなりしかば、纔かに七八十年にして全く破壞し之に代るに傭兵の制を以てするに至れり。日本の一俳人の句に曰く「さみだれや或夜ひそかに松の月」と。唐の府兵制度は恰も此一句に似たり。支那人民に全國皆兵なりてふ理想を與へたりし完美なる制度は連日の霖雨が一夜忽ち霽れて纔かに月影を現し、更に又忽ち雲の覆ふ所となりしが如くにして亡びたり。然りしより以來千幾百年、支那の兵制は遂に傭兵の範圍を出づる能はざりき。則ち其人民をして國の爲めに戰ふの義務ありと感ぜしめずして、兵となることを以て一種の營業の如く思惟せしむる惡原則を採用し、未だ嘗て一たびも此原則を易うることをせざりき。唐以後の漢人種が契丹に輕蔑せられ、蒙古、滿洲に併呑せられて數ば其獨立を失ひ、久しく外國の覊絆に苦みたるもの、未だ曾て此の如き傭兵制度の弊を蒙りたるに非んばあらず。而して外蕃より來りて漢人種を征服したるものも、其始に於ては一家固有の兵制を維持し、之に依つて漢人を威服すと雖も、其久しきに及んでは全く漢人と同化し、其祖宗の遺制も無用の長物たるに終るを常とす。蒙古の末路の如き、滿洲八旗の現状の如き即ち是なり。夫れ滿洲八旗の支那朝廷に於けるや恰も三河武士の德川氏に於けるが如し。德川氏の末路を知るものは其所謂旗本八萬騎が全く有名無實にして柔弱と貧乏との群衆となり了りしことを知らん。されど德川氏旗下の士は幸にして他の日本武士と、健全なる日本人民の間に存在したるを以て、國家一旦事あるや、忽ち其位置を取つて之に代るものあり、日本の國家は須臾にして其健康を恢復したりき。支那は然らず。其三河武士たる滿洲八旗は貧にして文を好み、全く昔日の勇氣を失ひたる空殻となりしと共に其周圍は則ち無賴の惡少、人と齒すること能はざるものを集めたる傭兵に過ぎず。八旗既に用を爲さず而も取つて之に代るべきものなし、猶ほ何ぞ其自ら奮ふことを望むべけんや。是れ支那の頽然として日に危亡に瀕する所以なり。一朝にして千數百年間の弊習を除かんとす。神と雖も能はじ。人民の耳目は容易に易へ得べからず。吾復た支那の今日あるを怪まず。
文武輕重 (二)
マキアベリは甞て傭兵を以て天下最惡の制度となし以太利諸國の衰亡は其源實に此に在りと爲したりき。支那の傭兵制度に苦む、其由來甚だ久しきものあり。豐太閤征韓の役に明將李如松の我將小西行長等を平壤に攻めんとするや、其兵に約するに先づ進むものは銀萬兩を給すべきを以てせり。而して行長戰つて克たず、平壤拔けたりと雖も如松遂に約を果さゞりき。是に於て如松に從つて平壤攻圍軍たりし南兵は其賞の約の如くならざるを怒りて皷動叫噪するに至る。總兵王保乃ち彼等を誘ひて其千餘人を殺し因て以て之を鎭す。是に於て天下の人心、此處置の殘忍不信なるに憤怒し、爾後復た募に應じて兵となるものなきに至れり。是れ兩朝平攘録の記す所なり。現時の支那に於て袁氏の新建軍の如きは暫らく論ぜず、從來の兵籍中に在りて最も勁旅と稱するものは所謂湘淮練勇に過ぎず。而も之を取る亦傭兵主義に基くものなるが故に、其弊も亦明の時に殊ならざるなり。此輩餉足り報重ければ則ち猶ほ勇を奮ふべし、給養一たび意の如くならざれば遂に死戰の心なし。其護國の重任に堪へざるや知るべきのみ。而して是れ獨り兵士の性情のみにあらず、則ち其文人學士の兵を見る亦實に傭兵の見のみ。試に李杜以下諸家の詩集を取つて其行軍遠征を賦するものを讀め。大抵皆兵士たるの苦痛と家郷遠征を憶ふの情と一將功成りて萬骨枯るゝの悲慘とを説くものに非るは無し。七尺の屛風は越ゆべからず、時代の陋習は哲人君子と雖も之を脱するを得ず。彼等は夢にだも國家の爲めに一身を犠牲にするの武士的精神なるものあるを想ふこと能はざりしなり。昔しは寛政の政治家白川侯松平定信、甞て曰く、人或は醉臥二沙上一君勿レ笑、古來征戰幾人還の詩を以て千古の絶調とするものあり、而も是れ終に漢人の詩にして日本士人の情に非ず、日本士人は應に須らく君主の馬前に戰死するを喜ぶべきのみ、决して征戰を厭ふの念あるべからずと。此言蓋し兩國兵制の差を説き得て肯綮に中れりと謂ふべし。日本に在りても大寳令の兵制は實に唐の府兵に擬したるものなり。而も其兵制の破るゝに至りては之に代るものは傭兵制度に非ずして所謂家子郞等の制なりき。則ち殷富の大地主なるもの各、自ら軍人となり、其子弟門生を率ゐて公戰に赴きしものなりき。平安朝の中葉より鎌倉時代まで連續したる大番役なるものは即ち是にして要するに一郷の豪傑は即ち將校たり、其家人、從者は則ち兵士たるものなりき。彼等の兵を擁して一郷に在るや往々私鬪を事とするの弊を免れざりしと雖も、而も武人が一郷の望族たり、將校兵士の間に親族的關係あるは即ち支那の兵士が全く無賴の徒を以て組織し、其將校が往々文員より出でゝ徒らに紙上に兵を談ずるものなるに同じからざりき。されど吾人は此所に二國兵制の因て分るゝ所以を論ぜんとするに在らず、唯二國の兵制は此の如くにして數百年間全く相似ざりしことを言へば足れり。斯の如くにして日本に在りては武士たることは單に職業に非ずして士人の品位に缺べからざる資格となりにき。他の語を以て之を曰へば日本武士と云ふ語は即ち泰西紳士と云ふが如きものとなりにき。所謂日本固有の武士道なるものは此の如き制度の間に胚胎したるものにして兵士に對する觀念が兩國の間に於て霄壤の差を生じたるものは實に此に職因す。
文武輕重 (三)
兵を以て無賴惡少の事となし、將は多く戰陣に臨んで退避す。武道の支那に尊ばれざる眞に故あり。近世左宗裳は武名あり、淸佛の役主戰論者の魁たりき。されど彼れは其年九月七日を以て欽差大臣督辨福建軍務となりたるに關せず、十月に至りて南京に達し、逗留旬餘日、十一月に至りて福州に著し、全く戰機を失ひ、外人の嗤笑する所となりしに非ずや。彼は是より先き甞てカシユガル地方の叛酋を討平したることに依りて始めて驍名を得たるものなり。而も彼れがカシユガル戰爭の日に於て其大將として在陣したる所は實に戰地を去る五百里の所にありしものなりと云ふ。一事は萬事なり、支那の武道なるもの唯此一事以て概見するに足れり。日本に在りては然らず。古來兵を以て體面ある紳士の業とす。一國の中流以上は悉く武士なり。荻生徂徠甞て曰く、日本に在りては士は悉く兵なりと。此言之を盡くせり。それ既に兵を以て士流の業とす、武士道何ぞ興らざるを得んや。萬葉集に信濃防人の歌を載す、曰く、
オホキミノ、ミコトカシコミ、靑雲ノタナビクヤベヲ、越ヘテ來ヌカモ。
是れ今を去る千數百年前の歌なり。地方の豪族、兵となつて國の爲めに千山萬岳を踏破して辭せず。其意氣何ぞ烈しきや。此の如き素養は自然に日本武士をして勤王に專志ならしめ、怯懦を忌ましめ、死を厭はざらしめ、君主と國家の爲めに死を甘んぜしめ、功名の竹帛に垂れんことを希望せしめ、敵に臨んで先陣を競はしめ、直往邁進して後を顧ること無からしめ、面目を貴重すること生命よりも甚しからしめたり。此の如き素養は日本武士をして海賊となりて外國を襲ひし時すらも猶ほ徒らに人命を損じて生靈を苦しむることなからしめ、
(註)高麗の時、倭寇數ば其邊郡を侵す。勢頗る猛烈なりき。而も高麗人の間に猶ほ寧ろ倭寇に逢ふも元帥に逢ふ勿れの諺を生じたり。是れ倭兵は猶ほ爲さゞる所あり。高麗の兵は却て其民を虐したるを誹れるなり。(東國通鑑に因る)
或は征戰息んで後、塔婆を作りて彼此の軍亡を弔ふこと同じからしめたり。此の如き素養は又武士をして征戰の間に在りても猶ほ書を讀み歌を詠じ、詩を作らしめたり。支那は自ら右文の國を以て誇れるものなり。而も其武官の無學眞に驚くべきものあり、現時に至りても彼等は猶ほ銃砲の用は刀劍に如かずと信ずるものあり、洋人は陸上を行くこと能はずと爲すものあり、人をして絶倒せしむ。日本の武將は乃ち其所謂戰國の時代と雖も猶ほ心を有用の學に潛むるもの多く、たま〳〵葡萄牙人の渡來に逢へば直ちに其説を聽きて新式の文物を輸入するに勉めたりき。是れ日本武人は日本士人の總體にして支那の武人は支那人民中の滓渣たるに過ぎざればなり。支那の兵士は流賊と殊ならず、規律少しく弛むときは婦女を見れば則ち之を淫せんと欲し、財物を見れば則ち之を盜まんと欲す。故に官賊共に人民の恐るゝ所にして一旦征戰あるときは過ぐる所の都邑之が爲めに殘破を蒙り、二十年三十年を隔てゝ猶ほ再興すべからざるを見る。此に知る、支那に在りては兵士は官服を著たる土匪にして土匪は山中に埋伏する兵士なることを。此の如くにして所謂武士道の興起を望む、轅を南にして北に行かんとするよりも甚し。
文武輕重 (四)
日人が武を重んじ漢人が武を輕んずるより生じたる最も著るしき結果は日人の間に奉公の念盛んにして漢人の間に隱居獨棲の操を長じたること是れなり。夫れ兵は凶器にして戰は則ち殺人の業たるに外ならずと雖も、而も苟も戰つて克たんとせば則ち一軍の號令必ず嚴明ならざるを得ず。文人の事業は個人的の業なり、一人の讀書作文は遂に他人の事に關らずと雖も、武士に至つては則ち必ず衆志を合し、衆力を一にせざるを得ず。文人の科塲に登るに當つては一人の精思苦慮以て功名を博すべしと雖も、兵士の陣に上るや、獨り進み、獨り退くことを得ず。是れ尚武を以て其國風とする日人に奉公の念盛んなりし所以なり。漢人に在つては戰塲は光榮の地に非ず、其名を爲し功を立る所以は一に文字に在り。文字の業は一人の業なり。是れ其士君子と雖も素養する所、唯一人の修練に在りて奉公の念に至りては乃ち却て疎ならざるを得ざる所以なり。人或は曰く支那人は平和の人民なり、日人は好戰的の人民なりと。されど是れ必しも然らず。若人民の性格を論ぜば所謂好戰的なるもの吾人は其果して孰れに在るを知るに苦しむ。試みに晁錯の兵を論ずるを見よ。曰く勁弩長戟、疏を射て遠きに及ぼすは匈奴の弓、漢人の弓に及ぶ能はざるなり、堅甲利刄、長短相雜はり、遊弩往來して什伍倶に進むは匈奴の兵、漢人の兵に當ること能はざるなり、材官騶發して矢道の的を同ふするは匈奴の革笥木薦も漢人を支ふること能はざるなり、馬より下りて地鬪し、劍戟相接し、去就相薄るは匈奴の足も漢人に及ばざるなりと。是れ漢人の武、必ずしも匈奴に劣らざりしを證すべきものなり。更に武帝が猛將勇卒を驅りて匈奴と戰ひし迹を見よ。吾人は漢人種を以て平和の人民にして戰に堪へざるものなりとするの頗る理由なきを知るなり。且それ支那の人民たる、今日に於ては眞に公戰に怯なりと雖も、而も私鬪に方りては則ち生命を愛惜せざるものあり、偶々睚眦の怨あれば輙ち拳を揮ひ臂を攘つて起つ。始めに口角相爭ひ繼で則ち兵刄相鬪ふ。血を流し命を棄つるに至つて顧みざるものあり。之を目して無智と云ふは即ち可なり、之を目して怯懦なりと云ふは不可なり。夫れ林々總々たる地上の人、何ぞ始めより必しも勇怯の別ありとせん。一人の勇士たると懦夫たると、其三分は固より天性に在りと雖も、其七分は實は習癖に在り。吾人甞て韓國現朝の太祖李成桂の事を按じ、而して後此理の古今東西に通じて過なきを知る。高麗の末路北に胡あり、南に倭あり、滿朝の士大夫、怯懦能く爲すことなし。成桂此間に生れて獨り膽氣あり、其倭寇と戰ふを見るに殆んど暴虎馮河の概あり、直前勇往、進むを知つて退くを知らず。敵に逢へば必ず馳突して未だ甞て死生を以て念とせず。故を以て日人亦其武を稱し、李萬戸の名を聞けば則ち之を畏るゝに至る。韓人の懦弱を以つてするも一たび自ら揮へば即ち斯の如きものあり、况んや李廣を生じ、關羽を生じ、岳飛を生じたる漢人種たるもの、若し其習ふ所を變ぜば何ぞ必しも金皷一たび鳴れば直ちに散じ去るものゝみにして止まんや。惜むらくは數世紀の間、養兵の術其道を得ず、積んで今日の弊を爲したることを。而も兵の振はざるは猶ほ忍ぶべし、兵の振はざるが爲めに士氣振はず、士氣の振はざるが爲めに一國を擧げて奉公の念なく、讀書、窮經、唯一人の業となり、經國濟民の公心に至つては、即ち之を雲煙に歸す。是れ吾人の我隣人の爲めに最も忍ぶ能はざる所なり。
西學論 (一)
日漢の文明に大差を生じたる大原因の一にして、猶ほ吾人の未だ指摘せざるものあり。他なし、西學に關する日漢兩國民の態度是なり。蓋し支那に於て始めて直接に西洋文明と相觸れたるは實に蒙古の時に在り。大學衍義補に曰く、元の西域の人亦思馬因、善く礮を造る。世祖の時阿老瓦丁と同く京師に到り、從つて襄陽を攻む。未だ下らず。亦思馬因地勢を相し、礮を城の東南の隅に置く。重さ一百五十斤あり。機發して聲、天地に震ふ。擊つ所摧陷せざるはなし。地に入る七尺。宋の呂文煥遂に城を以て降る。元人江を渡る。宋の兵南岸に陳し、舟師を擁して迎戰す。元人北岸に於て礮を陣して以て之を擊つ。舟悉く沈沒す。戰ふ毎に之を用ひて皆功ありと。意ふに西蕃より礮を造るの術を傳へたるならん。されど製礮の一事歐洲人より始まりしや若くは亞細亞人より始まりしやは吾人の未だ詳にせざる所なるを以て暫らく之を論ぜずとするも、元の授時暦がトレミイの天文學に據りたるものなるは則ち疑ふべからず。元代版圖の闊きこと亘古未だ聞かず。武威遠く西洋に及びしを以て此に始めて東西文明の融會すべき端緒を開きたるものなり。是れ實に第十三世紀の事に屬す。爾後三百年東西の往來必しも繁からずと雖も、而も其觸接は一斷、一續遂に全く絶つに至らざりき。既にして第十六世紀に於て歐洲は所謂近代文明の時期に入り遠洋航海の業、漸く盛なるに及んで南洋諸島次第に佛蘭西、葡萄牙の占領する所となり、明の萬暦年間に至りて西士利瑪竇・利艾等始めて京師に至り其士大夫と交り、西洋天文地理の學、漸く明人の注意する所となれり。西學凡の著者西洋人艾儒略の職方外記出るに及んで明人は始めて眼を世界の状態に開きたり。曰く、歐羅巴洲中七十餘國あり、其大なる者は則ち十一國、就中佛郞察、意太利、法蘭得斯、倚西把尼、厄勒祭、布路亞、莫哥斯未亞、意而蘭、大諳厄利亞等を以て顯著なるものなりとすと。されど明史を修むるものゝ西洋諸國を記すこと詳ならず、其語る所猶ほ雲霧の中に墮つるが如きものあるを見れば彼等猶ほ西洋の説く所に對して半信半疑の惑あるを免れざりしならん歟。而も此時より漢人始めて實に西洋あるを知り、其暦法の改正の如きも全く葡萄牙人の手を待つて之を成したり。降つて淸の時に及んでは康熙・乾隆の諸帝皆彼の長を取つて之を用ふるに意あり。康熙帝の如きは其三藩を征する時西洋人南懷仁を用ひて紅夷大礮を鑄せしめ、乾隆帝も亦金川を征する時禁軍をして香山に於て西洋の兵技を學ばしめたり。露人某甞て曰く、康熙帝は耶蘇敎宣敎師の其國に侵入することを拒まずして却て之を優遇し、之に命ずるに天文、地理、科學の書を表はすべきことを以てして其利己心を利用し、自國の用を爲さしめたりと。此言之を得たり。何となれば康熙・乾隆時代に編纂せられたる天文數學の書は大抵外國宣敎師の手に成りしものにして、當時の西洋智識を集めて數卷の書となしたるものなればなり。それ支那の西洋文明に關係ある、此の如くにして五百年を經たり。支那の西學に於ける由來、眞に遠きものありと謂つべし。惜むらくは今日に至るまで其人民が西學の恩惠に浴すること甚だ薄く遂に文明國中に列する能はざることを。是れ其故何ぞや。他なし、漢人は善く西學の利益を知れりと雖も、而も自ら之を爲さず、唯西人を傭ふて自家の用に供するのみなりければなり。
西學論 (二)
天保年間日本に於て卓識の聞へありし古賀侗菴、曾て海防臆測の一篇を作り、支那人の病を以て驕慢に在りとなし、日本も亦支那の惡感化を免れずとせり。其言に曰く、
支那は宇内最大の邦たり。然も其驕矜なるはまことに之れ大疵なり。其外國を痛斥し齒して人と爲さゞること、本邦の政俗を評し、其驕誣を極むるに觀て灼然たり。本邦風習の懿なるは支那に卓越す。惟中古以還支那と交通するが故に驕の一失未だ少しく汚染する所たるを改めず。痛悛せざるべからざるなり。
是眞に支那の短所を道破したるものなり。支那人の自ら足れりとして他人の長所に無感覺なるは實に驚くべきものあり。頃者日本に於て支那人敎育に意を用るものあり、支那學生の日本に來り學ぶもの多く、其學生の東京に在るもの數千人に及ぶ。人或は是を以て支那人も亦好んで他人の長所を取らんとするものなりと云はんとす。されど吾人の見る所に依れば支那人にして文明に對する神經鋭敏ならんには何ぞ必ずしも遠く日本に來るを要せん。夫れ上海は長江を上下する貨物の大集散地にして、其英米佛祖界は純乎たる泰西的の都府に非ずや。南淸の人若し一たび足を上海に著けば彼等は直ちに泰西の文明に觸接したるものならずや。况や、耶蘇敎宣敎師等は始より意を支那人の歐化に用ひ、多く歴史、傳記、科學、宗敎等の書を飜譯して之を公行しつゝあるに非ずや。吾人曾て此等の書中にマケンジー第十九世紀史の譯本あるを知り購ふて之を讀むに筆路條暢、遙に日本人の譯に勝れり。是れ皆上海廣學會の譯著なり。泰西文明が支那人の門を叩くこと此の如く切なるものあり。支那人にして若し鋭敏なる感受の機能を有せば坐らにして以て世界と同化するの道あらん。何ぞ故らに海を超へて日本を訪ふの要あらんや。されば支那人が自ら其慢心を去りて日本に遊學するに至りたるは甚だ祝すべきが如しと雖も、一面より觀察すればたま〳〵其外國文明を消化するの能力に乏きことを證するものと謂はざるべからず。思ふに支那人をして此の如く外國の文明に無頓着ならしめたる所以は一にして足らざらん。たとへば人種固有の特質の如きも亦其重なる一源因ならん。そは世界には天性遲鈍にして容易に他國の風俗に化せられざる人種の支那と同じきものあればなり。たとへば英國人の如き、昔の羅馬人の如き是なり。彼等は保守的なり、内長的なり、他人を自己に同化せしめて、而も自己は則ち他人に染まず、昂々然として四隣を睥睨して殆ど傍若無人の觀あり。支那人は蓋し其類例なり。されど支那人をして此に至らしめたるものは單に之を固有の人種的性癖にのみ歸すべからず。吾人は更に他の理由ありと思へり。他なし、泰西諸國が支那を敎ふるに眞個の國際的關係を以てせざりしこと是なり。此點に於ては吾人は日本人として米國水師提督ペリーに感謝せざるべからず。何となれば彼は日本を訪問したる始より、吾人を待つに敵國對等の禮を以てし、一毫も權略を用ひず、一毫も讓歩せず、正々堂々の陣を張り以て日本に莅みたればなり。支那は不幸にして斯の如き益友的の交誼を外國人より受くる能はざりき。外國人は近時に至るまで支那政府の驕心を利用し、心にもなき諛辭を以て支那政府を愚弄したりき。是れ支那が久く自足自尊の惡習を脱すること能はざりし最大なる源因ならん歟。
西學論 (三)
今日に於てこそ支那は世界の愚弄する所となり、恰も列國の好餌たるが如き觀なきに非ずと雖も、日淸戰爭の前までは世界は支那に對して一種の恐怖心を懷きつゝありしなり。勿論支那は日淸戰爭以前に於ても、外國の兵を蒙らざるに非りき。即ち道光年間に於ける鴉片戰爭の如き咸豐年間に於ける所謂北支那戰爭の如き、共に支那兵力の弱きことを世界の眼前に證して餘あるものなり。されど其國は巨大なり、其人口は無數なり。數と量とに於ては支那は依然として大國民なり。此大國民にして一旦覺醒せんか、是れ實に極東の大威力たるべしとは泰西人の自からしか感ぜざるを得ざる處なりき。されば交通機關の不完全にして兵船の輸送不十分なる昔日に在りては泰西人の支那を訪問するものは勉めて支那官吏の歡心を買ひ、たとへば自から多少國民としての品位を傷けられたりと感ずるも、毫も其聲色を動さず、單に貿易の利を得ることを主としたり。是れ支那に在る外國官吏が卑々屈々として支那大官の前に蹲踞して而も憤るの色なかりし所以なり。日本の諺に曰く、旅にて蒙りたる耻辱は之を水の如くに流し去らんのみと。支那に於ける外國人は殆ど此諺を以て其心法としたりしなり。此の如き心法は獨り支那人の進歩を害したるのみならず、又實に支那を訪問せる外人の道德をも害せり。英國の商人が鴉片の貿易に從事し、支那幾萬の生靈をして其害を蒙らしむるが如きは英國の國民的品位を重からしむるものに非るは英人と雖も固より之を知らざるにあらず。されど支那に在りては各國の國民的品位は既に論題にあらず、支那と外國との交際は數世紀に亘れりと雖も、其駐京使臣が皇帝に謁見するの禮を行ひしは僅かに同治年間に始まれるに非ずや。加
レ之當時日本の使臣たりし故副島伯の抗議あるに非ずんば各國使臣は蒙古、滿王が支那帝に謁する禮にだも如かざる卑屈の儀を取らんとしたるに非ずや。外國人の支那國民を欺き敵國對等の禮を以て之を待たず、數百年來依然として昔の所謂四夷來貢の態度を以て自ら甘んぜしこと此の如し。さなきだに有史以來、未だ曾て一回も自國の文明に優れる國民に接したることなき支那人民が泰西人より此の如き待遇を蒙り日に其驕心を長じて全く謙德を失ひしもの亦宜なりと謂つべし。夫れ學問の道は飛耳長目、己の懷を虚ふして人の益を受くるに在り。國民にして謙德を缺くもの何ぞ其文明の人後に落つるを怪まんや。幸にして日本は其歴史の始より、他人の長所を取りて之を用ひざるを得ざる位置に在りき。三韓と雖も其物質的文明に於ては日本の嚮導者たりしものなきに非りき。乃ち武人の時代に至りても外國の文明に對しては常に之を侮るの態度なくして寧ろ其善に服するの情を示したり。
東國通鑑に洪武十一年(一三七八年)を以て朝鮮の使節として日本を訪問したりし鄭夢周の事を記して曰く、
倭僧、有二求レ詩者一、援レ筆立就。緇徒坌集、日擔二肩輿一、請レ觀二奇勝一。
日本人の外國人を待つに敬意あること常に此の如し。
西學論 (四)
日本人の外國に於けるや、毫も傲慢に陷るべき誘惑を有せざりき。支那は始めより日本を待つに
東夷を以てせり。乃ち朝鮮と雖も
倭、
野人を並べ稱し日本を待つに女眞以上を以てせざりき。斯の如き世界の待遇は日本に取つては必しも快心の事態に非りしと共に日本をして他國の文明を蔑視し獨り自らが其固陋に甘んずるが如き危險の状態に陷らしめざる保障なりき。維新の時我至尊の天地神明に誓はせたまひし語に曰く、智識を世界に求むべしと。論者、是れを以て單に一時の發憤に出づるとせば是れ日本の歴史を知らざるものなり。日本人種は極東の花彩島に占居したりし當時より此の如き謙遜にして而も偉大なる精神を養成すべき位置に在りき。總ての新しきもの、總ての事實、總ての不思議は日本人の常に解釋せんと欲して已まざる所なりき。日本人は何時にても外國の學問、外國の文明に對して最も鋭敏なる感受機能を有したりき。勿論德川時代の鎖港政略は此の如き國民性に對して頗る其發動を妨害せざるには非りき。されど柳は遂に緑ならざること能はず、此の如き孤立の時代にも日本人は猶ほ世界の文明を咀嚼し、自ら之を消化して未だ曾て多く思想の潮流に後れざりき。例へば天文學の如きは支那に在りては康熙・乾隆の朝と雖も、其欽天監は多く澳門の西洋人を用ひたりしに、日本に在りては自國の學者を用ひて毫も學力の不足を感ぜざりき。元の授時暦はトレミーの天文學に淵源し、明の崇統暦は西洋近代の天文學に根底す。而して日本の天文學者は善く自ら之を解釋して更に其遺漏を補ひき。彼等は面小手を著けて劍術を學び、澤庵と梅干にて麥飯に滿足し、其足未だ曾て一歩も外國の地を蹈まざりし當時より、トレミーの心を解し、ニウトンの思ふ所を思ひ得たりしなり。而して此の如き敏捷は獨り天文學の事に止まらず智識の總ての系統に及びたりき。細川潤次郎氏の「名なし草」に曰く、
西玄圃といへるは西洋の外科術を世に傳へたる元祖なり。此人は長崎にて通事の役を勤めたるが貞享の頃同處在留の蘭人某に就て西洋の外科術を學び、卒業して治療にも巧なりければ、其の名遠近に隱なく、遂には將軍家の聽に達し、綱吉公の御醫師に召出され、江戸にすまひして子孫箕裘を繼ぎ來りしが次第々々に家衰へ、近來幕府も亡びて家祿さへなくなりたれば祖先傳來の品々を賣拂ひける中に横文字を書きたる一枚の紙あり。横文字は阿蘭陀語に相違なけれども文字の綴方今のと違ひて讀みがたき處も見えたり。されど大かたの意味を尋ぬれば玄圃の師蘭人某が玄圃の學業成就せしことを證明する由を載せて其頃渡來せし蘭船乘組の醫師證人となり、連署して玄圃に與へたるものにて、またく今の世の卒業證書に異ならず。貞享は今茲明治二十六年より遡りて數ふれば二百十一年ばかりなれば吾が邦人の卒業證書に此れより古きものなかるべし。此の證書は戸塚軍醫の所藏となりて余は目擊せしことありき。
西氏の如きは鎖國時代の日本人も猶ほ且世界の文明に等閑ならざりし活きたる一個の例と謂つべし。此精神は即ち足利時代に於て朝鮮の使者を包圍して詩を求めたる精神なり。戰國時代に於て小銃の製作を學ぶに鋭意したる精神なり。德川氏の初世に於て世界の地圖を屛風に畫かしめたる精神なり。支那人の神經が外國の文明に對して甚だ遲鈍なりしに反し、日本人の神經は此の如くにして常に甚だ新智識に向つて鋭敏なりき。
西學論 (五)
論者或は曰く日本人は模倣に富んで獨創の力なし、徒らに外國の皮膚を學んで遂に其心髓に達すること能はずと。されど是れ日本の歴史を知らざるものゝみ。日本人種は總ての點に於て外國の文明に對する最も健全なる消化力を有することを示す。就中日本蘭學の歴史に於て殊に其然るを見る。杉田玄白の蘭學事始、大槻玄澤の蘭學階梯等の書に依りて最初の蘭學者が此學に力を盡したる跡を見るに、彼等は殆んど外人の敎授を待たずして獨學したるものなり。彼等は當時の長崎通詞が有したる零細の智識を基礎とし自ら蘭學を築きたるものなり。彼等の蘭學は殆んど獨創なり。自己の心を師とするの外、何物をも師とする所なく此心の松明を掲げて直ちに西學の暗黑界に躍入したるものなり。エメルソン曰はずや、天才の前には秘密もなく奧義も無しと。世界の文明は如何に秘密なるにもせよ、泰西の文學は或人種には深奧不可思議なる謎語なるにもせよ、日本人に在ては遂に明に解釋し得べき問題たるに過ざりき。故に日本を訪問せる蘭人は常に日本人種の聰明にして其提出する問題の常に必ず世界文明の鍵を得んとするものなるに驚異し、提督ペリイは其艦中に招待したる日本官吏が東洋の隱者國を代表すべき人物たるに係らず猶ほ略世界の形勢に通ずることを驚異せり。吾人は曾て寛政年間に於て眼未だABCの二十六字だも見ることなかりし和泉貝塚の一人物が和蘭の製作にだも劣らざる望遠鏡を作り得たる事實ありしことを知れり。吾人は又文化年間に於て長崎出島の蘭人も蘭人の傭ひ來れる米船の船長も引上げの術なきに窮したる沈沒船を名もなき日本の一平民が巧妙なる設計を以て浮び出でしめ彼等をして其功思に舌を捲かしめたる事實あるを知れり(閑田隨筆に據る)。此の如き日本人の天才は最近の大戰爭に於て殊に明かに世界の眼前に現はれたり。其歴史と遺傳とを誇り、文明を以て自己の人種にのみ屬すべきものなりと自負したる傲慢なる人種も今や西歐文明は日本人の爲めには解釋し能はざる難題に非りしことを知れり。西歐に在りて最も他人の知ることを欲せざる秘密として珍藏したる軍器、彈藥に關する奧儀も、日本人は之を窺ひ知ること恰も傳説に殘れる或不思議の猫が善く牆外のものを見るに類せることを驚異せり。彼等は是に於てか始めて黄顏矮身の極東人が最も恐るべき人種なるを覺りて之を忌むの情を生じたり。彼等の覺ること何ぞ遲きや。苟も善く日本の歴史を讀むものは大化新政の一時期を研究するも猶ほ日本人の實に此の如き人種なることを覺るを得ん。獨り是れのみならざるなり。始めて日本を訪問したる耶蘇徒の宣敎師も實は日本人の此の如き人種なることを知りて早く之を豫言したり。提督ペリイの紀行を見れば當時渡來したる米人も亦日本人の賴もしき將來を豫言せり。されど百の豫言は一の事實に過ぎず。日本人の畏るべきものなるは久しく豫言せられたり。而も此豫言は西歐政治家の顧る所とならず、僅に日淸戰爭に依りて少しく彼等の覺醒を促したりと雖も、一昨年來の大戰を經るに非んば彼等は遂に日本の眞相を知るに至らざりしなり。今や日本人は世界の論題となれり。日本歴史は文明の秘密を解釋すべき唯一個の鑰となれり。日本人の外國文明を解釋する力は有益にして興味ある問題となれり。而して此問題の中心には日本西學史の横はることあるは蓋し何人も疑ふ能はざる所ならん。
基督敎 (一)
吾人は最後の問題に到著せり。他なし、基督敎に對する日漢人民の感應是なり。蓋し基督敎が泰西文明を組織する最とも大なる繊緯たるは何人も異論なき所ならん。吾人は固より今日の基督敎が大なる變革の機運に立てるを知る。今や何等かの變化が基督敎會の上に來らざるべからざるは何人も之を認む。一八七〇年以來の歐米神學界は正に高等批評の勝利と云ふべきものにして敎會は漸く昔の信仰を文字のまゝに維持するの難事たるを感ぜり。乃ち其顯著なる事實の一二を擧ぐるも一八九九年より翌年に掛けて敎授ハルナツクはベルリン大學に於て基督敎の本質を講義し、基督敎に缺くべからざる純粹なる宗敎的部分は基督の神たりや若くは人たりやと云ふが如き人格の問題に在らず、寧ろ其敬天愛人の敎訓に在り、是れ實に基督敎の本質と云ふべきものにして從來學者の間にもてはやされし基督論(則ち重きを基督の神たりや、人たりやの問題に置くもの)は斷じて基督敎に非ずと道破したるが如き。一九〇一年に於てトルストイが其著「復活」等の書に於て余は神を信ず、神は愛にして萬物の源始なり、余は人なる基督の敎訓は最も明かに、最も包轄的に、神の意を解釋したるものなりと信ず、されど神として基督を待ち、神として基督を拜むは大なる瀆神の業なりと信ず、余は人間の幸福は神の意を爲すに依りて生ずるを信ず、神の意は他なし、人類の互に相愛するを欲すること是なり、余は愛心を養ふの道は唯祈禱に在るを知る、然れども此祈禱は敎會の祈禱を意味せず、公の祈禱は基督の禁ずる所なり、祈禱は私人的のものならざるべからずと主張したるが爲めに露國の正敎會より放逐せられたるが如き。一九〇二年に於いて英國のキングズ、ガレツジが其久しき慣例たりし宗敎吟味を廢したるが爲めに、熱心なる保守家ヘンリー、ウヱースが之を非として其理事會員を辭したるが如き。近時佛國の舊敎徒すら公然高等批評の結果を採用せんとするものを生じたるが如き。米國の敎會が次第に男子の出席者を减じ、安息日を嚴守するものを减じ、學生の神學校に入るものを减じ、敎會は牧師の説敎を以て人を集むること能はざるが故に音樂、美術の景物を以て聽衆を誘ふに勉むるの情を生じたるが如き、共に基督敎及び基督敎會が今や變遷の渦流に立ちつゝあることを示すものなりと謂つべし。されど吾人は信ず、此の如き變化あるが爲めに基督敎は亡ぶべきものに非ず。夫れ傳道と人民生活改良との爲めに、休むことなく、座することなく奔走したる道昭、行基の後には學問の爲めに渡唐し佛學と文章とを以て一代に鳴りし最澄空海あり。行化一變して學問となる。既にして其弊や流れて鬪諍堅固の山僧となるに非れば狂言綺語を事として風流煙霞に人間の責任を遁れ去らんとする能因、西行の類となれり。保元、平治の佛敎を見るものは誰れか其滅亡を期せざらんや。されど人民の信仰は已むべからず。人間は何時にても安心立命を要求す。是に於てか佛敎は復興せり。法然、日蓮の徒は之が爲めに起てり。新佛敎は新時代と共に生じて日本人民の精神的糧食は再び潤澤となれり。それよりのち禪學一時を風靡し、禪學衰へて宋學起り、宋學盛んにして以て明治の世に至れり。是れ日本の事なりと雖も、泰西の基督敎も亦何ぞ之に殊ならんや。吾人は其或は換骨奪胎の時あるを信ず。されど其人民の生命、信仰の基礎として永存すべきものは遂に必ず復興し來るの日あることを疑ふ能はず。
基督敎 (二)
吾人の見る所を以てするに泰西の文明は遂に基督敎と分つこと能はざるなり。國民の宗敎は衣粧の如く、時來たれば之を脱し得べきものなりや、若くは骨髓の如く其生を易るに非ざれば變ずべからざるものなるや、そは吾人の此處に論定せんとする所に非ず。されど歴史は宗敎を易ることの帽子を易るが如く容易ならざることを敎ふ。「ブリトン」人種は甞て其多神敎より、基督敎に移りたり。而れども彼等が基督敎に移りたるは即ち之れと同時に其固有の風俗習慣を變じたる時なりき。即ち國民的生命と其固有の宗敎とは殆んど相終始すと云ふも可なり。此事實にして若し疑ふべからずんば吾人は泰西の文明を基督敎と離すことの難事たるを推論せざるを得ず。而して泰西の文明と宗敎とが全く分つ可からざるものならんには、亞細亞人種たる吾人は果して泰西の文明をのみ採用し、其宗敎を拒絶し得べきや否や。是れ吾人の窃かに疑ふ所なり。今や宇内の大勢を以て之を昔日に比すれば泰西は猶ほ諸夏の如く、亞細亞は猶ほ秦楚の如し。秦楚の諸夏に接するもの苟も、依然として故態を守らんとすれば已む、必ず諸夏の列に入り相親暱して以て、文明の共同生活を樂まんとせば、勢ひ諸夏の車馬禮樂を用ひ、其祭祀に傚はざるを得ず。是れ實に國運を進むるの術として已むを得ざるなり。されば秦の祖秦仲は始めて諸夏の車馬禮樂を用ひ、戎狄の音を去りて諸夏の聲を習ひ、楚人も亦數ば上國に行きて諸夏の俗を學びたりき。吾人は當時秦楚の君臣と雖も必ずしも好んでしか爲せしに非るを知る。唯諸夏は文明を以て中原に鳴り、之に化せざれば則ち蠻夷に伍するを免れざりしが故に勉強して其風を移し、其俗を易たるのみ。吾人の基督敎に於る、亦何ぞ之に殊ならんや。吾人は固より泰西の基督敎が今や變遷の渦流に在ることを知ものなり。吾人は固より我固有の宗敎も亦一種の安心立命を敎へ必しも吾人の靈魂を餓し了るべき者に非るを知るなり。吾人は固より、東西文明の觸接したる結果として、印度敎、儒敎、日本武士道等が基督敎に影響すること大なるべきを信ずる者なり。されど如何せん、基督敎は泰西文明と分つべからざるものなり。泰西文明は今の世に於ける諸夏の文明なり。吾人若し現代に於て文明世界の共同生活に入り、其一員として世界の經營に寄與せんとする時は吾人は、之を好むも、之を好まざるも、其文明を採用せざるべからず。而して之を採用せんとせば、之れと全く相分つこと能はざる基督敎をも採用せざるべからず。少くとも其泰西文明に伴ひ來ることを拒むべからず。是れ殆んど必至の理なり、必然の勢なり。されば吾人は今日の世に於ては必ず基督敎の、何等かの形を取つて、極東の宗敎となるの日あることを信ずるものなり。吾人は此處に儒敎、武士道、佛敎、道教等の基督敎に對する優劣を論ぜんとするものに非ず。諺に曰く我佛尊しと。人各其信ずる所を尊びて、其知らざる所を卑しむの情なきに非ず。所謂入るものは之を主とし、出るものは之を奴とするものなり。吾人の基督敎が遂に極東に行はるゝの日あるべしと云ふは、其敎の獨り諸宗に超脱したるが爲なりとの故を以てには非らず。吾人は基督敎が現代文明國の共同生活に於て普通の宗敎たるが爲に之を言ふのみ。此に人あり、九人冠して一人被髪せば如何。共同生活の要求は此の如き不調和の行爲を長く容認すること能はざらん。是に於て乎、彼は被髪を廢して冠するか、否なれば交を謝し獨り居らざるを得ず。極東の基督敎を採用するに至るべきは全く此理に同じ。
基督敎 (三)
基督敎が泰西文明と相待ちて全く分つべからざるものなる事實にして若し眞ならば吾人は基督敎に對する日漢人民の觀念は、即ち直ちに彼等が泰西の文明に對する觀念を見るべきものなるを知るなり。此點に於ても日本は支那に比すれば甚だ幸福なる位置に立ちたり。何となれば基督敎の美しき半面は最も多く日本に於て發揮せられ、其醜き半面は最も多く支那に於て發揮せられたればなり。基督敎會の歴史に就て吾人の學ぶ所に依れば敎會が其敎理の純粹を保ち其道德的生命の活動を保ちたるは常に必ず壓制と迫害との太甚なりし時に在り。否なるも、敎會の勤勞が單に敎會自身の努力に止まりて政治上の權威が之に加はらざりし時に在り。日本の基督敎會は實に此好適なる位置に置かれたり。試に見よフランシス、ザビエを最初の宣敎師として甞て一たび大なる傳道を試みたりし日本天主敎會の境遇は如何。彼等と雖も勿論、或る時期に於ては日本の土地に俗權を建てんと欲したる形跡なきに非りき。即ち天正十五年(一五八七年)豐臣秀吉が九州征伐に從事する前までは長崎は外國宣敎師の領地となり、彼等は其所に敎權と政權とを併せ有したり。是れ當時の天主敎としては勿論怪しむべき行爲に非りき。何となれば殖民地の開拓を以て異敎を退治して法王の領分を廣むる神聖なる事業としたる當時に在りて此の如きは是れ固より自然の結果なればなり。されど日本國民は内亂の次第に鎭定し國内の統一が漸く鞏固となるに連れて斷じて外敎の此の如き俗權侵害を許容すること能はざりき。乃ち秀吉が長崎の政權を天主敎僧より奪ひしを始として大なる迫害、大なる威壓は天主敎會の上に加へられたり。豐臣氏の繼承者たりし德川氏の政策は必ず基督敎を根絶せずんば已まざるの意氣を以て上に臨めり。而して雲海萬里、四圍の海岸は當時の風帆船に對しては極て險惡の者たりし日本の地勢は到底天主敎僧をして本國若は東洋殖民地の物質的援助を期する能ざらしめしかば彼等が此の如き偉大なる迫害に對抗するの途は唯精神的なりしのみ。是に於てか最初に日本に渡來したる基督敎は世界の基督敎會史に於て比類少き最も美しきものとなれり。吾人は當時の日本基督敎會史を研究して殆ど泰西の歴史にすら比類少き熱心と誠實と献身的精神の發現したるを見る。泰西の基督敎會史は其傳道の初期に於ては文明なる國民の、未開なる國民に其信仰を傳へたるものにして、固より之を日本に於る最初の基督敎宣敎師が、其質問の深奧なることに依りて數ば彼等を苦しめたる怜悧にして開化せる人民に臨みたるに比すべからず。其近世史に入りてよりは數ば信仰の爲めに犠牲の血を流したることありと雖も、多くは敎派の爭にして彼是共に兵力を有し、互角の勝負を爲したるものに過ぎず。之を日本の天主敎徒が身に寸鐵を帶びず、少しも俗權の保護を假らず、赤裸々なる信仰一味を以て國家の大壓力に對抗したるに比すれば全く倫に非ず。是に於て乎日本の天主敎會史は其精神的努力の最鋭最純なるに於て羅馬諸帝時代の基督敎會に於て見るを得る外、何處にも、何の時にも見ることを得べからざる最も光輝ある現象を呈せり。見よ二十八萬の良民は單に其良心の自由を希望したると其信ずる所に忠なりしことの爲めに甘んじて殉敎者の血を流せり。淸淨無垢なる處女は總ての誘惑に克ちて、其敎祖の爲めに一生の貞操を全せり。剛健にして無邪氣なる武士は、其君侯より信仰を易ゆるか死するかの二の間を撰ぶべく迫られしとき夷然として死を撰べり。彼等の信仰が殆んど形容し難きほど猛烈にして、彼等の動機が唯天に生まるゝを望むの外、何等の濁れる所なかりしは今日に至るまで日本人民の驚異する所なり。日本の天主敎は此の如くにして血肉的に死にたり。されど之と共に精神的に生きたり。此事實が基督敎に對する日本の人心に與へたる影響は甚だ幸福なるものなりき。
基督敎 (四)
日本の維新以後に至りて再び宣敎に從事したる基督敎諸派も俗權に對しては殆んど何等の關係なかりき。若し日本政府をして現時よりも弱からしめ、日本人民の國民的感情をして現時よりも鈍からしめんか。吾人は外國宣敎師の或は今日の如くにして止まる能はざることを恐る。何となれば彼等は自ら其敎會に屬するものを愛憐し之を保庇するの情なきこと能はざるが故に國權の確立せず、政治に信任すべき典型なき國民の中に在りては、自國政府の威力を假りても其敎民を援助せんと欲するは盖し已むを得ざるの勢なればなり。吾人の學ぶ所に依れば日本に於てすら維新の當時に於ては官軍の來りて江戸を荒さんことを恐れ米國公使に依り其星旗の下に自己の安全を維持せんと欲したる學者もあり。世の中既に攘夷黨の天下となりし上は、外國と無謀の戰端を開くは必然の數ならん、外國と戰端を開くときは日本國の存在或は危く、國家にして若し印度の覆轍を履ん乎、今に於ては我子をして耶蘇敎傳道者たらしむるの外はなしなどゝ思廻らしたる人さへなきに非りき。(福翁自傳に據る。)歐洲に於て羅馬敎會が俗權を握るに至りたるは北狄侵入して四海鼎沸し「カイザル」の威力全く地に墜ちたる時に在り。政府其力を失ふときは寺院往々之に代るものあるは史上に於て例なきことに非ず。されど日本は幸にして此の如き不運を免れたり。日本國民は維新の改革と共に直ちに國民的に確立したり。其政府は其國民を統治すべき完全なる威力を有するものとなれり。日本人民の國民的感情は猛烈にして、外國人の之に一指を加ふることを許さゞりき。是に於て乎、日本に入込み來りたる外國宣敎師も自然の勢として、其活動の區域は主として精神的のものに限らざるを得ざりき。而して是れ决して外國宣敎師の意思に反したるものにも非りき。何となれば彼等の本國に於ては既に略ぼ政敎分離の主義を確立し、彼等は决して傳道者として俗權に容吻するを得ざるのみならず、天國は此世の國に非ずとは固より其敎祖の説く所なればなり。此事情は日本現時の基督敎に對する日本人民の感情をして甚だ公平ならしめたり。日本の人民と雖も固より見慣れ聞慣れざる宗敎に對しては、蜀犬雪に吠ゆるの情なきに非りき。日本の學者の中には基督敎を以て日本の國體に害あるものなりとし、之に痛擊を加へたるものなきに非りき。されど如何ほど基督敎嫌ひの日本紳士と雖も、日本の外國宣敎師に加ふるに俗權干渉の惡名を以てすること能はざりき。彼等の基督敎を批評する所は單に基督敎の宗敎たる價値に在りき。彼等は外國宣敎師の人物に對して未だ嘗て、宗敎傳道者として應に然かあるべき人格を論ずるより外の意義を以て論ずる所あること能はざりき。思ふに日本基督敎會の精神的發達に取りては蓋し是程幸福なる境遇なかりしならん。何となれば敎會は此の如くにして俗權に干渉するの誘惑を脱し、單に其宗敎の維持者、傳播者たる使命を遂ぐるを以て足れりとせざるべからざればなり。然れども支那は此の如きこと能はざりき。支那に於ける外國宣敎師と基督敎會の歴史を見れば、吾人は彼等が未だ甞て日本の昔時に於て天主敎會が蒙りたる如き迫害を蒙りしことありしを見ず。而して現時の支那は其國權を確立せざる、其刑獄の整頓せざる、頗る外國宣敎師をして俗權に關渉せしむべき誘惑多きことを知る。是れ支那の基督敎をして日本のものと大に其状况を殊にせしめたる所以なり。
基督敎 (五)
基督敎の支那に入りしは蓋し唐の時代に在り。太宗の貞觀年間(六二七年─六四九年)太秦の上德阿羅本なるもの遠く經二十七部及び三一妙身等の像を献ず。太宗詔して太秦寺を立てしめ僧二十一人を度す。當時の遺物たる景敎碑の文に依れば其基督敎たる疑ふべからず。此の如くにして基督敎は今を去ること千二百七十餘年の昔に於て既に極東に其傳道事業を始めたるものなるを以て自然の勢より之を言へば此敎は久しく既に支那を風化すべかりしなり。されど回敎の勃興は此趨勢を遮斷せり。唐の隣國にして其勢、諸夷を壓したる回紇は熱心なる摩尼敎(即ち回敎)の信者なりしと共に熱心なる基督敎排斥者なりき。折角、萬里の山河を越へて、極東の傳道を開始したる基督敎も回敎諸國の其間に介在するに至つては遂に望を東方に絶たざるを得ず。是れ回々敎の支那に行はるゝと同時に太秦敎(即ち基督敎)の衰頽して終に全く痕跡を失ふに至りし所以ならん歟。既にして明の萬暦九年(一五八一年)以太利人利瑪竇なるもの今の廣東省の地に來り、同二十年(一五九二年)始めて京師に至り中官馬堂に依りて方物を進献し、天主及び天主の母の圖を貢せしより始めて天主敎の名あり。神宗利瑪竇を以て義を慕ひ遠く來るを爲し、館を假し、餐を授け給賜優厚なりしのみならず、公卿以下其人と爲りを重んじ之と交りて相厭はず、尋で其徒前後至るもの日に多かりしを以て士大夫の間亦天主敎を信ずるものあり。西士利艾の如きは當時の學者と往返討論し職方外記を著はし、悉さに萬國の形勢を論じ、艾儒略は西學凡を著はして泰西學問の梗概を説き、龐迪我、熊三拔等は暦法に明かなるの故を以て遂に暦書の改正に從事せり。しかりしより以來明の滅亡に至るまで基督敎の支那に傳播すること殆んど火の原を燎くが如きものあり。會堂の各所に建設せらるゝもの多く、京師には則ち宣武門の内に在り、東華門の東に在り、阜城門の西に在り、山東には則ち濟南に在り、江南には則ち淮安、揚州、鎭江、蘇州、江寗、常熟、上海に在り、浙江には即ち杭州、金華、蘭溪に在り、閩には則ち福州、建寗、延平、汀州にあり、江右には則ち南昌、建昌、贛州にあり、東粤には則ち廣州に在り、西越には則ち桂林にあり、楚には則ち武昌にあり、秦には則ち西安にあり、蜀には則ち重慶、保寗に在り、晋には則ち太原、絳州にあり、豫には則ち開封に在り、凡そ十三省三十所、皆天主堂あるに至れり。是れ正に日本に在りて一時隆盛を極めたる天主敎が豐臣、德川二氏の迫害に逢ひて遂に二十八萬人の殉教者を出だし其敎化の全く根絶したると時を同ふするものにして、支那に在りては日本の如き試煉なかりしが爲めに、天主敎は殆んど何等の障碍に逢ふこと無く、日に其傳道の區域を廣めつゝありしなり。支那の天主敎會が日本に於て同協会が遭遇したるが如き迫害に逢はざりしは彼等に取りては固より至幸の事なりしと云ふべきものならん。されど人事の得失は由來相半ばす。彼等が日本に於て逢ひしが如き迫害に逢はざりしは彼等の身體をして安全ならしめたると共に彼等の信仰をして醇粹ならしむべき機會を失ひたり。異邦人に傳道する基督敎宣敎師が往々世に殘したる驚異すべき献身的忠誠の德を發揮すべき試煉は日本の如き境遇に於て多く、支那の如き境遇に於て少きは史上の通則にして此の如きは精神的事業たる基督敎に取りては必しも幸福なる状態なりと云ふべからず。何となれば支那人の眼中に在りては基督敎徒は其傳道の始めより、日本人が日本に於て目擊したるが如き誠實、熱心にして其宗敎の爲めには身命を愛惜せざる高尚なる人格として映ずることなかりしを以てなり。
基督敎 (六)
基督敎徒の明末に於て支那の全部に蔓延したる状は既に説く所の如し。則ち淸朝に至りても彼等は未だ甞て日本に於て被りたるが如き迫害に逢ふことなかりき。日漢人種の相違は此點に於て特に著しきものあり。支那人は日本人に比すれば國民的感情頗る遲鈍にして、外國の文明に對しては、寧ろ之を寛容放任するの風あり。日本人の外來物に接するや、必ず之を批評せずんば已まず。彼等は新しきものを放任して全く之と相關せざること能はず。彼等が外國の文物に接するや先づ批評的眼孔を以て仔細に之を觀察し、而る後之を同化して其國民的繊緯の一部を爲さずんば已まず。佛敎も此の如くにして日本的のものとなれり。儒敎も此の如くにして日本固有のものゝ如くなれり。日本人民は未だ甞て自己の傍に自己の理會せざるもの自己の同化し能はざるものの存在することを容忍する能はざりしなり。されど支那人は此の如くならず。彼等は異種の文明に影響せられざるが如く異種の文明に懸念せず。彼等は其周圍に集まり來れる他國の文物に對して、日本人の如き鋭敏なる觀察を爲すことなく、之を自己の傍に放置して相關せず。眞に所謂秦人の越人の肥瘠を見るが如き觀あり。基督敎が日本に於て國民的精神の壓迫を蒙り、支那に於て比較的自由を得たるものは盖し之が爲めなるのみ。されば淸朝の始に於ても外國より渡來せる基督敎宣敎師は依然として朝廷の寛容する所たりき。則ち世宗の順治二年(一六四五年)に於て西洋人湯若望、南懷仁等に命じて入つて欽天監たらしめ西人の新法に從つて暦書を作らしめしを始として淸朝の外國宣敎師を待つや頗る厚きものありき。勿論清國と雖も異敎徒に對して多少の異論なかりしに非ず。たとへば康熈年間に至りて楊光先なるもの書を著はして基督敎を難じ、基督敎會の各省に散在するもの三十所に及び、廣東省の香山、澳門の如きは其徒數萬人に滿てり、是れ大淸十三省要害の地を以て悉く彼等の藪窟とするものなり、西洋人、若し金を揮つて天下の人心を收拾せば、堂々たる我朝廷は火を積薪の上に抱くが如しと云ひ、進んで基督敎の敎義は無君無父に近きことを論じたるが如き則ち是なり。是に於て淸國の朝廷も少しく警誡せざること能はず、康熈八年に至りて直省に於て敎堂を開設すること及び敎を中國人に傳ふることを禁じたり。されど西洋人の京都に在るものゝ自ら其敎を行ふは禁例に非ざりしを以て西洋宣敎師は猶ほ依然として傳道に從事し、此禁例は空文となるに了はれり。爾後數ば傳道を禁じ、若くは之を制限するの令を發し、乾隆年間にも亦西洋人の私かに各省に赴き傳敎するものは刑部に命じて審擬し、永遠に監禁せしむることゝ定めたることあれども、是亦た殆んど具文にして、遂に外國宣敎師の内地傳道を禁絶すること能はざりき。此の如くにして支那に於ける基督敎會は、殆んど一人の殉敎者を出さずして、著々として其傳道事業を擴張せり。支那にツラジヤン帝なく、德川家光なかりしは、基督敎會の或は以て幸慶としたる所ならん。されど是れ其實は支那の傳道事業に取りて必しも祝すべきことに非りき。基督敎宣敎師は之が爲めに其信仰の純粹なるを支那人民に證すべき機會を失ひ、敎會に集まりて宣敎師の羽翼に蔽はれたる所謂敎民なるものゝ品質も之を日本の基督敎徒に比すれば甚だ劣等にして群衆の異論に對抗して新宗敎を維持すべき主義あり節操ある人民たること能はざりき。されど支那の基督敎會が日本に比して不幸の境遇に在るものは獨り此に止まらず。更に此より甚しきものあり。請ふ吾人をして更に論歩を進めしめよ。
基督敎 (七)
日本に於ても税權の未だ獨立せざる、領事裁判の未だ撤去せざる當時に在りては白人種に對して一種の偏見を有し、之れと共に白人種の信仰たる基督敎に對して公平ならざる觀察を爲すもの少きに非りき。されど日本は幸にして白人種の國より非理の待遇を蒙ること比較的に少かりき。日本に於ては白人種の道德に關し如何ほど惡樣に考へんと欲するものあるも、彼等が自ら蒙り自ら經驗したるものを以て其立論を證すること能はざるなり。是は基督敎に取りて最も幸福なる境遇なりと云はざるべからず。夫れ僧を以て法と同視し、僧惡しきが故に、直ちに法惡しとするは是れ既に非論理の業なり。况んや或宗敎に屬する寺院堂塔の多く存在する國民の外交的道德を以て直ちに其宗敎の價値を批判せんと欲するは庸人俗子の見なるのみ。されど其庸人俗子の見なるは、則はち一般の意見なる所以にして此の如き論法の實際上に於ける勢力は甚だ大なりとす。試みに身を支那人の地に置きて白人種の動靜を見よ。其領事裁判の依然たるは是れ國に入りて禁を問はず、郷に入りて俗を問はず、語言を異にし法律を同ふせざるを理由として強て自國民の利益をのみ計らんとするものに非ずや。支那の貨物が歐米諸國の港に入るや多額の關税を課せられざることなし。而して歐米諸國の貨物が支那の諸港に入るや其關税は甚だ少額なり。税權の獨立を得ざるが爲めに支那政府は遂に其額を増すことを得ず。支那人の歐米の地に在るや、其人民と共に納税の義務を課せらる。歐米人の支那に在るや全く租税の義務なく、北突南奔絶て費す所なし。是豈彼れは自ら多くの便宜を占め、吾を擠して不便の地に陷れ、我が利を網して以て彼れの腹を肥すものに非ずや。况んや甞て澳門に行はれたる勞働者賣買の如き、支那人の眼より見れば全く白人種の殘忍不情を證するものに外ならざるをや。更に之より甚しきものあり。則ち鴉片貿易の一事にして、吾人は英人の爲めに如何ほど辯疏(疎)に勉めんとするも其支那人の眼中に在りて非理無道の業たるは遂に掩ふべからず。近時米國が殆んど逐客令に均しき法律を布きて明かに支那人の渡來を防止せんとしつゝあるが如き、歐米諸國が支那の弱きに乘じ、租借地を要求し、自ら勢力範圍を定め、他人の國家を以て恰も無人の新疆を拓くが如くするものあるが如き、支那人より之を見れば何ぞ有道の擧と云ふを得んや。吾人は固より白人種の國民は獨り支那に對してのみ外交的道德なきものなりと云はず。彼等をして自己の行爲を辯護せしめば必ず相應の理由あるべしと信ず。而も支那政府にして若し自ら彊めて道理を主張せんと欲し、支那の彊吏にして必ず理に據て爭はんことを欲し、支那の人民にして必らず全力を出して以て事理の在る所を把持せんとせば外人と雖も亦何ぞ茲に至らんや。しからずして政府は事端を開くことを畏れて曲從、遷就を主とし、官吏は政府の意を迎へて勉めて無事を計り、人民は官吏の能く爲すことなきを知りて忍辱の外、道なしとなす。是れ外人の驕らざる能はざる所以なり。境遇は人を作る。支那に在る外人の此の如き國民の中に在て猶ほ稍や自ら制する所あり、其横暴の擧動として數へらるゝもの、唯此の如きの類に過ぎざるは寧ろ其素養の正しきを見るべきものなりと謂つべきのみ。されど支那人より之を視れば此の如き輕微なる(其境遇の誘惑に比して)不正も亦白人種の惡德として映ずるものなり。其宗敎の輕蔑せらるゝ亦宜ならずや。
基督敎 (八)
吾人は今や支那に住する白人宣敎師の倨傲なる態度と其俗權に干渉する暴慢なる擧動及び敎民と稱する無賴漢の事に就て多言するの要なきを信ず。何となれば是れ支那に於て何人も見遁す能はざる事實なれば也。而して外交上の難件たる所謂敎案なるものの數ば發生する所以は實に此に在り。支那人の基督敎に對して冷眼之を見ざる能はざる亦宜ならずや。彼れ既に基督敎に對して冷眼ならざる能はず。何ぞ况んや所謂基督敎文明をや。何ぞ况んや白人種の哲學、倫理學をや。夫れ多く他人の眞價を算して之に不相應なる敬禮を拂ふも固より笑ふべきことならん。されど少く他人の眞價を算して之に不相應なる輕侮を拂ふは更に深く、更に大に悲しむべきことなりとす。支那人の基督敎と基督敎文明に於ける亦何ぞ之に殊ならんや。是れ豈支那人の精神的進歩を妨碍すべき最も大なる石に非ずや。
日漢文明異同論 (終)