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2020.10.25
周作人のエッセイについて(1)〔続〕松枝茂夫の『鏡花縁の話』のことⅢ
『鏡花縁の話』の中盤は異国巡りの粗筋の紹介で、最後に著者は「鏡花縁」の小説としての評価と文学史的位置づけ、日本における異国巡り譚の系列について補足している。どれも充実した内容のものだが、客観的な叙述に終始しているので、初め『鏡花縁の話』に期待した周作人の紹介やエッセーに触発されての感慨などは見えず、期待ははぐらかされてしまった。とはいえ、どうしてここに『鏡花縁の話』があるのかについては、偶発的な一夏の読書体験の整理という以上のものを考えてもおかしくはないに違いない。紹介の後は自分の附会の解釈になってしまうが、どうせ気楽な筆任せであるから、あまり気にもせずに書いてみる。
「小説としての鏡花縁を見るとき、何としても困るのは作者があまりに博學多才を見せびらかしてゐることだ。」(p.26)と松枝はいう。この物語の第一の特徴は、これに尽きるのかもしれない。魯迅が「才學小説」に分類したゆえんである。
ただし、その「落ちつき拂つた餘裕ある文章は、中々云ふに云はれぬユーモアを持つてゐて惡くない。」(同)とも評しているが、文章の味わいは小説の結構や構想とは異なり、独立の鑑賞対象であろう。「どんな危險に曝された時でも決して緊張せず、悠暢極まる駄洒落が飛ぶ。全く人を小馬鹿にしたやうな所がある。さうしてしかもそれが作者としては精一杯にまじめらしいのだから愈々(いよいよ)以て珍である。」(p.27)
そして思想的な面では、「社會問題、殊に婦人問題を提唱して、男女不平等を論じた點で、これが特異な小説であること」(同)は「紅楼夢」の影響を受けたものかと指摘し、「負暄絮話」や胡適「鏡花縁引論」等にすでに言及があるという。しかし、肝腎の小説としての描写力については、知識の宣伝に重きを置きすぎて総体に同情を欠く。
ここで周作人がエッセイ「鏡花縁」で子ども時代の読み物として多九公がいるので安心して読み進めて行かれたことを述懐しているくだりを思い浮かべることができるだろう。西洋的な近代小説への開眼を語った文章ではなく、中国文学における載道的文学論の横行に対して、創作物語の本流として「虚構」への志、無償の欲求が満たされねばならぬことを説こうとした周作人の趣旨は、「鏡花縁」の近代小説としての致命的欠陥と決して両立し得ないものではなかった。少くともその時の本好きな子どもの知的欲求、「不思議」への渇望を充たすのに最も安心できる案内役であったのだ。
「鏡花縁」が国名や異人異物の典拠に活用した「山海経」は、荒唐無稽な点を持ちながらも「楚辞」天問篇や離騒、「淮南子」地形訓から漢の東方朔の「神異経」や「海内十洲記」、晋の張華の「博物志」などとの関連性が指摘されるという。「山海経」に前後する「穆天子伝」や「列子」周穆王篇などは中国の異国廻り話の発端をなした。その後、印度から伝わった目連尊者の地獄廻りなどの遍歴物や「四遊記」「西遊記」、鄭和の南海巡歴を扱った「三宝太監西洋記」など、諸外国との交流を契機に生れた諸作もありながら、「山海經穆天子傳を源流とする支那本來の異國廻り話の系統は、約二千年を隔てて淸朝中葉の鏡花縁に至り始めて繼がれた」(p.29)というのが著者による本作の文学史的位置づけである。
日本における類似の異国巡りの物語で同じく「山海経」の系統を明らかに汲むものは風来山人平賀源内の「風流志道軒伝」であると著者は指摘する。これは「鏡花縁」にも先行する荒唐無稽・猥雑奔放な独自の戯作であり、李汝珍に比べても作者の境遇は先輩スウィフトに近かった。
「志道軒伝」に続く遊谷子の「異國奇談和莊兵衞」、澤井某の「異國再見和莊兵衞後篇」、笑止亭「異國風俗笑註列子」、馬琴「夢想兵衞胡蝶物語」等、異国巡りの物語は日本の戯作にも多かったが、「和荘兵衛」なども「直接志道軒傳或ひは御曹司島渡り等につながり、莊子や列子をダシに使つて、やはり山海經の流れを汲んだものと見た方が妥當ではなからうか。」(p.31)というのが『鏡花縁の話』の末尾である。
小冊子の最初に周作人の「鏡花縁」が間接的に引用されただけで、期待していた両者の関連をたどることは叶わなかったが、どうして昭和21年4月という時点でこのテーマが出てきただろうか。もちろん小冊子に見合った内容として絞り込んだに違いはないが、時勢との関係は全く無かっただろうか。同叢書の既刊「模糊集」が周作人との関連を持つように見えることもあるが、この叢書は紙の調達や印刷事情の厳しかったであろう時代に、閑文字ばかり埋め草的に並べて済むような類のものではなかったように見える。運良く生き残った知識人たちが戦後への再出発を期して、それぞれの思いを託して臨んだにちがいないことは、全てに言えるわけではないにしても刊行の辞や標題をざっと眺めてみただけで想像されることだ。「鏡花縁」が周作人の「自己的園地」の確立を語るものであるとすれば、創作や翻訳における新たな「言志」の文学の出発を期して書いた部分がないであろうか。そこは「鏡花縁」のモチーフを受け継いでいるのではないか。細かなことを付け加えれば、「鏡花縁」の国名-「黑齒國」「白民國」「兩面國」「女兒國」「小蓬莱」-に加えて、「風流志道軒伝」の「ぶざ(四角四面)國」「いかさま國」、「和荘兵衛」の「矯飾國」や「夢想兵衛」の「貪婪國」「食言郷」等、日本がどんな国になっていくのか、何になぞらえるべき国になっていくのかという関心も感じられなくはない。どのみち遠い道程であるから、学に沈潜してもいられないにもせよ、翻訳と著述にわずかな可能性を託したのではあるまいか。周作人がその「土性骨」をいかなる方面に発揮し、何を書いてくれるかという期待もあったかもしれない。無論、これらのことは細かい事情も知らぬ者による全くの臆測に過ぎないけれども。戦後、周作人の著述は日本にどのように紹介・出版されたのだろうか。その状況もこれから調べてみたいことの一つである。
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