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2021.08.26

おっぽこソフトウェア

  久方ぶりにVBAで自分用の貯金箱フォームを作ってみた。貯金箱ソフトの画像自分用なので、ウェブから適当な画像をダウンロードして簡単なフォームを作り、入金場所ごとに小計が出るようにした。単純至極な仕様なのですぐにでもできそうなものだったが、フォームから立ち上げるのは数年ぶりのことというわけでほとんどすべてのやり方を忘れかけていたことに気づき、けっきょく半日がかりの作業だったが、いちおうアイデア段階からひとまず満足できるように作るまでその日のうちにできたので、いいお浚いになった。毎回、新しい何かのアイデアを加えないといられず、今回は画像をクリックすると入金・加算・表示の動作を行うとともに、マウスカーソルをコインの形状にして入金動作が視覚的に明暸になるようにしてみた。大抵のヒントはウェブから拾えるので、ほぼ当初のイメージ通りに仕上がったときにはやはり嬉しかった。ただ、
計算が合うまでの流れがなかなかできず、足し算で意外に苦労するはめになったのは、やはり小遣い帳以上に出られない自分の経済生活をそのまま反映しているようで微苦笑ものだった。ちなみにマイナスの数字も入れられるので、出金もできる。こうなると貯金箱なのかどうか、だいぶ怪しくなってくる。

 ようやく足し算がつつがなくできるようになる以前に、画像フォームによる操作の斬新さを訴えたくて、製作途中で家人にディスプレイしてみたが、「どこかで見たような画像だね。」とか、「なんでハンバーグなの?」とか、質問はソフトの訴求ポイントとはほとんどすれ違うばかり、そのうえ計算をやってみせると残高が倍々ゲームで増えていくので、そんな都合のいい貯金箱があったら1つ欲しいものだ、というコメントで終わった。さすがに自分でも「計算、ダメだよな。」と弁護したが、一言、「おっぽこソフトだなあ。」と片付けられた。初めて聞いた言葉なので、「なに、それ?」というと、「言わない?」と逆に聞き返された。千葉の方言らしいが、「へっぽこ」とか「ダメダメ」のような意味らしい。ウェブの房州弁には登録されていないようだから、言い間違いであるかもしれない。「都心出身の己は聞いたことねえなあ。」と言うと、「豊島区のどこが都心だよ。」とやり返された。自分が生まれたのは東京の場末の三業地の近くである。池袋の丸物まで徒歩圏内だったが、場末に違いない。東京でも「怖ろしい」を「おっかねえ」などというのは甲州弁と重複するようだが、生れた街を離れて多摩の外れで学生時代を過ごした自分には「おっかない」への違和感はそういえば無かった。その日のうちにおっぽこなアルゴリズムはなんとか修正できたが、今年導入したブラウザのBraveと日本語入力ソフトのAtokとの相性の悪さは甚だしい。入力でまずつっかえ、漢字変換でほぼフリーズ状態になり、数回に一度はブラウザごと消してしまう。これほどひどくはなくとも、これまで使っていたKinzaやOperaなどでも似たような現象は何度もあった。毎日の不愉快はブラウザ上での日本語変換から始まるといってもよい状況である。Atokとは長い付き合いだが、こう不便ではたまには堪忍袋の緒も切れかかる。Google日本語入力にまた戻そうかしら、あれも変換はそれなりだし。他に注目できるIMEはないものか。昔はKatanaとかVJE(β、γ)など、いくつもFEPがあったのになあ。Atokもさることながら、Windowsとも、このままいつまで付き合っていかなくてはならないのかな。苛々はどんどん拡散して、日本語にネイティブに対応するOSが無いことへの嘆きに收斂していくのだ。HDDからSSDになり、USBからThunderboltに移って行ったって、日本語入力で使いものにならなければ、そこまでの話ではないか。Tronとか、ずっと前になんとか革命とか鳴り物入りで吹聴していたのがあったが、もともと庶民には縁の無いところから前評判が始まり、工作機械用として同じく縁の無いところへ去ってしまったらしい。ノルウェーの学生がOSを作ったというようなニュースが「日本発」で聞かれるのは近い未来にあるだろうか。それにしても、出どころは某国立大学であるよりは、一介の学生というような感じだったら、どんなにか小気味よいことであろう。いつまでおっぽこITに追従していかなくてはならないのだろうか。

 足下を眺め直す作業が、戦後の日本の歴史についても必要であるのかもしれない。自分がその中で生きてきた時代について。

2021.08.11

古典ページの表示についてひと工夫

 なし崩しのオリンピックが半分終了して、改めて少し書き始めることにした。

 一つには、あまりHPを更新しないでいると、無料ページは消されてしまうかもしれないからである。周作人の作品について一筋縄でいかないことが予想され、しばらく間をおこうと考えたが、調べが遅々として進まなかった。図書館が自由に使えないという理由もあるが、準備に集中できないうちに時間だけが経過してしまった。友人のHPまで更新を怠ってしまった。ひとまず、孟子くらいは完成させたいが、これも中休みの体たらく。要するに、逸れていた。

 気の散るままに、古典の異本を参照するスクリプトを2つほど作った。責め塞ぎにサンプルのみ掲載する。これも「完成」はおぼつかない感じがするが、他にこの手のページもまだ見ないから、頼りないHPの更新かたがた紹介しておきたい。CSSとJavascriptをかじっただけの表示サンプルである。(どちらもShift-JISなので、HPトップの説明にある方法でエンコードしてほしい。)

 (1) 「枕草子」諸本のテキストと注記の動的切替えのサンプル → こちら

    異本を選択し、章段番号(数字のみ)を入力して表示/非表示ボタンを押す。下部のボタンは全文のON/OFF。

 (2) 「校異源氏物語」による字句の異同表示のサンプル → こちら

    色つきの字句の上をマウスオーバーすると、異本の字句を表示する。(1)が章段単位であるのに対するもの。

2020.10.30

周作人のエッセイについて(2) 「人の文学」

  先日の『鏡花縁の話』に併せて『模糊集』の翻訳のことを書こうと思ったが、材料がまだ揃っていないので先に周作人によるエッセイのうち執筆時期の早いものとして「人の文学(『文藝論集』 現代支那文学全集12 東成社 1940.10)を採り上げる。これは堂々たる論文である。正しく『文藝論集』の周作人篇を代表する一編と言えるだろう。簡明な文章で論点を整理し、中国近代文学のあるべき始発点を定めようとしたものだが、そのまま「文学論」として一大基礎論となっている。こういう一見大上段に振りかぶったごとくに見える論題でありながら、少しの浮ついた印象も与えないのは、何と言っても明晰を極めた議論の整理にあるのだと思う。今年はウォルター・ペイターの『ルネサンス』(冨山房百科文庫)を読んで、晦渋な言い回しにちょっと戸惑いながらも結局各断章を手放すことができないで「結論」まで読み通してしまったという読書体験をした。分析の測鉛が深く下ろされていることを直感しながら、その信頼感を頼りに、全くもって初めてに近い藝術家と分野と作品との固有名詞の連続を追いかけたという体験だった。藝術論とはこういうものか、という新たな発見でもあった。併せて「ルネサンス」なるものにも多少の興味を覚えることができ、はるか昔大学の教養課程で聞きかじったヨーロッパ中世の口頭伝承の諸作品など、書名だけが無意味に近い音の羅列として記憶の片隅に残っていたものも、機会があれば読んでみようかという気持ちにもなったことだった。この周作人の「人の文学」は深さの感覚はそのままに、西洋流にソフィスティケートされた表現とは異なり、まことに伝統的な「論説」の体裁の中に、「文学」のあるべき礎石を配置しようとした正攻法の文学原論であり、ヒューマニズムの宣言として思想史的にも位置づけを要求する議論であろうと思う。不易の議論である。繰り返しになるが、いかにも堂々たる議論であり、『孟子』の印象にも近いものがあった。要約は例によって追記の中に書いていくことにする。

2020.10.25

周作人のエッセイについて(1)〔続〕松枝茂夫の『鏡花縁の話』のことⅢ

 『鏡花縁の話』の中盤は異国巡りの粗筋の紹介で、最後に著者は「鏡花縁」の小説としての評価文学史的位置づけ日本における異国巡り譚の系列について補足している。どれも充実した内容のものだが、客観的な叙述に終始しているので、初め『鏡花縁の話』に期待した周作人の紹介やエッセーに触発されての感慨などは見えず、期待ははぐらかされてしまった。とはいえ、どうしてここに『鏡花縁の話』があるのかについては、偶発的な一夏の読書体験の整理という以上のものを考えてもおかしくはないに違いない。紹介の後は自分の附会の解釈になってしまうが、どうせ気楽な筆任せであるから、あまり気にもせずに書いてみる。

2020.10.24

周作人のエッセイについて(1)〔続〕松枝茂夫の『鏡花縁の話』のことⅡ

 『鏡花縁』の最もユニークな点の一つは、作者が時代に先駆ける進歩的思想を披露していることだという。清朝のガリヴァー旅行記に登場する不思議な国の紹介を通してその具体的な表れをたどってみる。

2020.10.23

周作人のエッセイについて(1)〔続〕松枝茂夫の『鏡花縁の話』のこと

 周作人のエッセイについてブログで紹介することを今月初旬に書いてから、周辺資料を集めたり他の人の小説等に浮気していて、思わぬ時間が経ってしまった。半分方は周作人の関係書誌が調べるほどに続々と出てきて、とても一通りでは済まないことにだんだん気がついたためもあった。そのわりには一覧できる作品年譜も、少しぐらい調べただけでは分からず、要するにアクセスしづらい状態でないせいもあるかと思う。関心自体は専門家の間に少なからずあるようで、いずれまとまった翻訳全集なども日本で出版される日が来るのかもしれない。現在時点では手間がだいぶかかるように思う。部外者がちょこっと調べてみて、作品順も分かる範囲で書き留めてみるのが、気楽でよいかと思った。もともとTaijuのノートであるから、凡てはその範囲に留まる。周作人の小説を数多く日本に紹介した松枝茂夫に『鏡花縁の話』と題する資料があったので、前記エッセイの解説の類かと思って調べたら、『鏡花縁』そのものの紹介だった。啓明先生周作人のエッセイの趣旨からは離れるが、この資料の紹介もついでに行っておきたい。

2020.10.05

周作人のエッセイについて(1)-「鏡花縁」

 もともとは「参考資料」の中に周作人の『文藝随筆抄』その他を翻刻するつもりだった。ところが、原著者はクリアでも翻訳者の著作権に抵触する虞のあることが分かり、気楽を旨とする個人のホームページのこととてブログ記事にまとめてしまうことにした。原文と訳文のもつ固有の味わいをほとんどまったく伝えられないであろうことがいかにも残念だが、人の権利であるから仕方がない。訳者について何も知らないので、著作権一般の議論として見ると、つまるところは利害関係の整理が難しいということだろう。無論快く転載を許可していただける場合だってありえなくはないが、元來が権利関係を確認するほど徹底した作業でもない。要は、人にも見せてやりたい好い文章だなあと肝銘を受けたということが動機なのである。著作権にしろ他の諸権益にしろ、人間万事金の世の中が極まった現代にあっては当たり障りの比較的無さそうな方法をとるしかない。尤も、自分の感想も織り交ぜていくと、どうもやはり別物に化けてしまうのも避けられないが、紹介を旨として何とかまとめてみよう。これは仕方の無い選択ではないかと思う。ついでに名文章に学んで、拙いブログ記事のブラッシュアップができればあながち不平ばかりもたず、自己満足にひたることもできようというものだ。(すでに文末からして伝染しているのが末流の哀しさか。)
 そういうわけで、初めは『周作人文芸随筆抄』から「鏡花縁」を取り上げて紹介する。もっとも、これは『周作人随筆』にも載っているものだ。

2020.06.07

引用数章 (1)

 コロナは社会の制度と風俗の内に潜んでいた様々なもの、専ら隠しておきたい醜悪な要因を衆目に暴露する働きをなした。このことは、最近の時事評論の類にずいぶん指摘され、記述されるに至った。心理学者のフロムに従って、前回列挙した様々なマイナス因子にその時取り零してしたものは《差別》である。貧富の差別、人種・民族の差別、南北の差別、弱者の差別、これらが「人が本来有する攻撃本能」(ネットの時論から)が赤裸々に表れたものとする指摘であるが、これもまた《暴力》そのものの剥き出しの発現であり、アメリカの市民と警察の乱闘などを見ると、あさましいまでに露出している。「暴行」という言葉もまた『孟子』の中には出ており、又しても引用したくなったが、外にも引き合いに出したい文章が若干あり、だらだら議論するより取りあえず書き留めておきたく思ったので、引伸延言は後日に回し、箚記その1、その2という感じで記録だけしておくことにする。

2020.05.31

人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。(『孟子』滕文公上)

 「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。(『孟子』滕文公上)とは、言うまでもなく「煖衣飽食」の典拠だが、後半がこんなに厳しい物言いになっていることは知らなかった。令和二年は正月の末以来、世の中の言動がすっかり「禽獣」に近くなってしまったと思う。政治とは、さまざまな思惑が複雑な過程を通って、世の中のバランスをとっているもの、という漠然とした依頼心が消え、この四ヶ月ほど毎日のように苛々しながら新聞・雑誌・ネットのニュースを追ううち、どうも各種の事象がまとめて禽獣の振る舞いに近づいているように思えてならない。人間の誇りを取り戻すことが、これほど大事な時代もないと思う。元はエテ公であれ、霊長としての人は「独立」を奪われてはならない。そして、富や権力を手中にしても「勘違い」を起こしてはならない。古今の「知言」の人は、動態的な人間の無様を明鏡止水のように見せつけてくれる。一人一人が「独立の気概」「浩然の気」を養って、話し始めなければならない。どんなに素朴な議論からであれ、出立点を誤った美辞麗句に比べれば霄壌の差があるものだ。私はともかくも教員であったから、「無教」の状態に置かれることの悲惨について多少は考えを巡らすことができると思う。

2020.05.12

「曰、難言也。」「何謂知言?」(『孟子』公孫丑章句上篇)

 「曰く言ひ難し。」という熟語は何かの説明に窮したときの逃げ口上のように捉えられているが、元来は『孟子』に由来する。孟子の言動は一見居丈高な調子を感じてしまうが、その言葉と態度の由来するところを孟子自身が説き聞かせようとしたものと考えることができるくだりだ。孟子の弟子に連なる公孫丑(こうそんちゅう)が孟子に「敢へて問ふ、夫子は惡(いづ)くにか長ぜる。(敢問夫子惡乎長。)(『孟子』公孫丑上)と尋ねた。本当にずいぶん思い切った問いかけである。孟子がこれに答えていわく、「我は言を知る。我は善く吾が浩然の気を養ふ。(我知言。我善養吾浩然之氣。)」と答えた。答えは二つあるが議論は一つである。これの説明に難解なところがあり、初めは考えたが、ある時点で「スッと」心に入ってきた。

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