枕草子
〔n1〕 春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ蛍(ほたる)飛びちがひたる。雨などの降るさへをかし。
 秋は夕暮。夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏(からす)のねどころへ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(い)り果てて、風の音(おと)、虫の音(ね)など。
冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。霜(しも)などのいと白く、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭持(も)てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひをけ)の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。
〔n2〕 ころは、正月(しやうぐわち)、三月(さんぐわち)、四五月(しごぐわち)、七八月、九(く)十一月、十二月。すべてをりにつけつつ、一年(ひととせ)ながらをかし。
〔n3a〕 正月(しやうぐわち)一日(ついたち)は、まして空のけしきうらうらとめづらしく、霞(かす)みこめたるに、世にある人は、姿かたち心ことにつくろひ、君をもわが身をもいはひなどしたる、さまことにをかし。
 七日(なぬか)、雪間(ゆきま)の若菜(わかな)摘(つ)み。青(あを)やかに、例(れい)はさしもさるもの、目近(めぢか)からぬ所にもてさわぎ、白馬(あをむま)見むとて、里人(さとびと)は車清(きよ)げにしたてて見に行(ゆ)く。中御門(なかのみかど)の戸閾(とじきみ)、引き出(い)づるほど、頭(かしら)ども一所(ひとところ)にまろびあひて、さし櫛(ぐし)も落ち、よそいりなど、わづらふもをかし。左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)などに殿上人(てんじやうびと)もあまた立ちなどして、舎人(とねり)の馬(むま)どもを取りておどろかして笑ふ。はつかに見入れたれば、立蔀(たてじとみ)などの見ゆるに、主殿司(とのもりづかさ)・女官(にようくわん)などの行きちがひたるこそをかしけれ。いかばかりなる人、九重(ここのへ)をならすらむと思ひやらるるに、うちにも、見るはいとせばきほどにて、舎人が顔のきぬもあらはれ、白きものの行きつかぬ所は、まことに黒き庭に雪のむら消(ぎ)えたる心地し、いと見苦し。馬のあがりさわぎたるもおそろしくおぼゆれば、引き入(い)られてえよくも見やられず。
 八日(やうか)、人々よろこびして走りさわぐ車の音(おと)も、常(つね)よりはことに聞(きこ)えてをかし。
 十五日(じふごにち)は餅(もち)かゆの節供(せく)まゐり。かゆの木ひき隠して、家の子の君達(きんだち)、若き女房(にようばう)のうかがふ、打たれじと用意して、常にうしろに心づかひしたるけしきもをかしきに、いかにしてけるにかあらむ、打ち当てたるは、いみじう興(きよう)ありと、うち笑ひたるも、いとはえばえし。ねたしと思ひたるも、ことわりなり。
 去年(こぞ)よりあたらしうかよふ婿(むこ)の君など内(うち)へまゐるほどを心もとなく、所につけてわれはと思ひたる女房ののぞき、奥の方(かた)にたたずまふ。御前(おまへ)にゐたる人は心得て笑ふを、「あなかま、あなかま。」とまねきかくれど、君見知らず顔(がほ)にて、おいらかにてゐたまへり。「ここなるもの取りはべらむ。」など言ひ寄り、走り打ちて逃ぐれば、ある限り笑ふ。男君(をとこぎみ)も、にくからず愛敬(あいぎやう)づきてゑみたる、ことにおどろかず顔すこし赤みてゐたるもをかし。また、かたみに打ち、男(をとこ)などをさへ打つめる、いかなる心にかあらむ。泣き腹立ち、打ちつる人をのろひ、まがまがしく言ふもをかし。内わたりなどやんごとなきも、今日はみな乱れたるかしこまりなし。
 除目(ぢもく)のほどなど、内わたりはいとをかし。雪降り氷(こほ)りなどしたるに、申文(まうしぶみ)持(も)てありく四位(しゐ)・五位、わかやかに心地よげなるは、いとたのもしげなり。老いて頭(かしら)白きなどが、人にとかく案内(あない)言ひ、女房の局(つぼね)に寄りて、おのが身のかしこきよし、心をやりて説(と)き聞かするを、若き人々はまねをして笑へど、いかでかは知らむ。「よきに奏(そう)したまへ。」など言ひても、得たるはよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。
〔n3b〕 三月(さんぐわち)三日(みか)、うらうらとのどかに照りたる、桃の花は今咲きはじむる、柳など、いとをかしくこそさらなれ。それもまた、まゆにこもりたるこそをかしけれ、ひろごりたるはにくし。花も散りたる後は、うたてぞ見ゆる。おもしろく咲きたる梅を長く折りて、大きなる花がめにさしたるこそ、わざとまことの花がめふさなどしたるよりもをかしけれ。梅の直衣(なほし)に出袿(いだしうちき)して、まらうとにもあれ、御(おほん)せうとの君達(きんだち)にもあれ、そこ近くゐて物などうち言ひたる、いとをかし。鳥・虫の額(ひたひ)つきいとうつくしうて飛びありく、いとをかし。
〔n3c〕 祭のころは、いみじうをかしき。木々の木の葉まだいとしげうはなうて、わかやかに青みたるに、霞(かすみ)も霧もへだてぬ空のけしきの、何(なに)となくそぞろにをかしきに、すこし曇りたる夕(ゆふ)つかた・夜(よる)など、しのびたる郭公(ほととぎす)の遠う空耳(そらみみ)かとおぼゆるまでたどたどしきを聞きつけたらむ、なに心地(ごこち)かはせむ。
 祭近くなりて、青朽葉(あをくちば)・二藍(ふたあゐ)などの物どもを押し巻きつつ、細櫃(ほそびつ)の蓋(ふた)に入れ、紙などにけしきばかり包みて行きちがひ持(も)てありくこそをかしけれ。裾濃(すそご)・むら濃(ご)・巻染(まきぞめ)など、常よりもをかしう見ゆ。童(わらは)べの、頭(かしら)ばかりを洗ひつくろひて、なりはみなほころび絶え、乱れかかりたるが、屐子(けいし)・沓(くつ)などの緒(を)すげさせてさわぎ、いつしかその日にならなむといそぎ走りありくもをかし。あやしくをどりてありく者どもの、装束(さうぞ)きたてつれば、いみじく定者(ぢやうざ)といふ法師(ほふし)などのやうに練(ね)りさまよふ、いかに心もとなからむ。ほどにつけて、おほやうは、女(おんな)・姉などの供人(ともびと)してつくろひありくもをかし。
〔n4〕 言(こと)ことなるもの、法師のことば、男女(をとこをんな)のことば、下衆(げす)のことばにかならず文字(もじ)あましたる。
〔n5〕 思はむ子を法師になしたらむこそは、いと心苦(こころぐる)しけれ。さるはいとたのもしきわざを、ただ木(き)の端(はし)などのやうに思ひたらむ、いといとほし。精進(さうじ)の物のあしきを食(く)ひ、いぬるをも言ふ。若きは物もゆかしからむ、女などのあり所をも、などか忌(い)みたるやうに、さしのぞかずもあらむ。それをもやすからず言ふ。まして験者(げんざ)などの方(かた)は、いと苦しげなり。御嶽(みたけ)・熊野(くまの)、かからぬ山なくありくほどに、おそろしき目も見、しるしあり、聞(きこ)え出で来(き)ぬれば、ここかしこに呼ばれ、時(とき)めくにつけてやすげもなし。いたくわづらふ人にかかりて、物(もの)の怪(け)調(てう)ずるもいと苦しければ、困(こう)じてうちねぶれば、「ねぶりなどのみして。」ととがむるも、いと所(ところ)せく、いかに思はむ、と。
 これは昔の事なり。今様(いまやう)はやすげなり。
〔n6〕 大進(だいじん)生昌(なりまさ)が家(いへ)に、宮の出(い)でさせたまふに、東(ひんがし)の門(かど)には四足(よつあし)になして、それより御輿(みこし)は入(い)らせたまふ。北の門(かど)より女房の車ども、陣屋(ぢんや)のゐねば入(い)りなむやと思ひて、頭(かしら)つきわろき人もいたくもつくろはず、寄せて下(お)るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びりやうげ)の車などは、門(かど)小さければえ入(い)らねば、例の筵道(えんだう)敷きて下るるには、いとにくく腹立たしけれどいかがはせむ。殿上人(てんじやうびと)・地下(ぢげ)立ち添(そ)ひ見るもねたし。
 御前(おまへ)にまゐりて、ありつるやう啓(けい)すれば、「ここにても人は見るまじくやは。などかはさしもうち解(と)けつる。」と笑はせたまふ。「されど、それはみな目馴(めな)れて侍(はべ)れば、よくしたてて侍らむしもぞおどろく人も侍らむ。さても、かばかりなる家に、車入(い)らぬ門(かど)やはあらむ。見えば笑はむ。」など言ふほどにしも、「これまゐらせむ。」とて、御硯(おんすずり)などさし入る。「いで、いとわろくこそおはしけれ。などてか、その門せばく造(つく)りては住みたまひけるぞ。」と言へば、笑ひて「家のほど、身のほどに合はせて侍るなり。」といらふ。「されど、門の限りを高く造りける人も聞(きこ)ゆるは。」と言へば、「あな、おそろし。」とおどろきて、「それは于公(うこう)が事にこそ侍(はべ)なれ。古き進士(しんじ)などにはべらずは、うけたまはり知るべくも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入(い)りにければ、かうだにわきまへられはべり。」など言ふ。「いで、御道(おんみち)もかしこからざんめり。筵道(えんだう)敷きたれど、みなおちいりてさわぎつるは。」と言へば、「雨の降りはべれば、げにさも侍らむ。よしよし、また仰(おほ)せられかくべき事もぞ侍る。まかり立ちはべりなむ。」とていぬ。「何事(なにごと)ぞ、生昌がいみじうおぢつるは。」と問はせたまふ。「あらず。車の入らざりつる事申(まう)しはべり。」と申して下(お)りぬ。
 同じほど、局(つぼね)に住む若き人々などして、よろづの事も知らず、ねぶたければ寝(ね)ぬ。東(ひんがし)の対(たい)の西の廂(ひさし)かけてある北の障子(さうじ)には、かけがねもなかりけるを、それもたづねず。家(いへ)ぬしなれば、よく知りてあけてけり。あやしう嗄(か)ればみたる者の声にて、「候(さぶら)はむにはいかが。候はむにはいかが。」と、あまたたび言ふ声におどろきて見れば、几帳(きちやう)のうしろに立てたる火の光はあらはなり、障子を五寸ばかりあけて言ふなりけり。いみじうをかし。さらにかやうの好(す)き好(ず)きしきわざ夢にせぬ者の、家におはしましたりとて、むげに心にまかするなめりと思ふもいとをかし。わがかたはらなる人を起(おこ)して、「かれ見たまへ。かかる見えぬものあめるを。」と言へば、頭(かしら)をもたげて、見やりていみじう笑ふ。「あれは誰(た)そ。顕証(けさう)に。」と言へば、「あらず。家ぬしと局(つぼね)あるじと定(さだ)め申すべき事の侍るなり。」と言へば、「門の事をこそ申しつれ、障子(さうじ)あけたまへとやは言ふ。」「なほその事申しはべらむ。そこに候(さぶら)はむいかに。そこに候はむいかに。」と言へば、「いと見苦しき事。ことさらにえおはせじ。」とて笑ふめれど、「若き人々おはしけり。」とて、引き立てていぬる後(のち)に笑ふ事いみじ。あけぬとならば、ただまづ入(い)りねかし。消息(せうそこ)をするに「よかなり。」とはたれかは言はむと、げにをかしきに、つとめて御前(おまへ)にまゐりて啓(けい)すれば、「さる事も聞(きこ)えざりつるを。昨夜(よべ)の事にめでて入(い)りにたりけるなめり。あはれ、あれをはしたなく言ひけむこそいとほしけれ。」と笑はせたまふ。
 姫宮(ひめみや)の御方(おんかた)の童(わらは)べの装束(さうぞく)せさすべきよし仰(おほ)せらるるに、「童の衵(あこめ)のうはおそひは何色(なにいろ)にかつかまつらすべき。」と申すをまた笑ふ、ことわりなり。また、「姫宮の御前(おまへ)の物は、例のやうにてはにくげにさぶらはむ。ちうせい折敷(をしき)、ちうせい高坏(たかつき)にてこそよくさぶらはめ。」と申すを、「さてこそはうはおそひ着たる童べもまゐりよからめ。」と言ふを、「なほ例の人のつらに、これな笑ひそ。いと生直(きすく)なるものを。いとほしげに。」と制(せい)せさせたまふもをかし。
 中間(ちゆうげん)なるをり、「大進(だいじん)、物(もの)聞えむとあり。」と人の告(つ)ぐるを聞しめして、「またなでふこと言ひて笑はれむとならむ。」と仰せらるる、いとをかし。「行(ゆ)きて聞け。」と仰せらるれば、わざと出(い)でたれば、「一夜(ひとよ)の門(かど)の事を中納言(ちゆうなごん)に語りはべりしかば、いみじう感じ申(まう)されて、『いかでさるべからむをりに対面(たいめん)して申しうけたまはらむ。』となむ申されつる。」とて、また言(こと)もなし。一夜の事や言はむと、心ときめきしつれど、「今静かに御局(みつぼね)に候(さぶら)はむ。」とていぬれば、帰りまゐりたるに、「さて何事ぞ。」とのたまはすれば、申しつる事をさなむとまねび啓(けい)して、「わざと消息(せうそこ)し、呼び出(い)づべきことにぞあらぬや。おのづから静かに局(つぼね)などにあらむにも言へかし。」とて笑へば、「おのが心地(ここち)にかしこしと思ふ人のほめたるを、うれしとや思ふとて、告げ知らするならむ。」とのたまはする御(み)けしきも、いとをかし。
〔n7〕 うへに候(さぶら)ふ御(おん)猫は、かうぶり給(たま)はりて、命婦(みやうぶ)のおとどとて、いとをかしければかしづかせたまふが、端(はし)に出でたまふを、乳母(めのと)の馬命婦(むまのみやうぶ)、「あなまさなや。入(い)りたまへ。」と呼ぶに、聞かで、日のさしあたりたるに、うちねぶりてゐたるを、おどすとて、「翁(おきな)まろ、いづら。命婦のおとど食(く)へ。」と言ふに、まことかとて、痴(し)れ者(もの)は走りかかりたれば、おびえまどひて御簾(みす)の内に入(い)りぬ。朝餉(あさがれひ)の間(ま)にうへはおはしますに、御覧(ごらん)じていみじうおどろかせたまふ。猫は御(おほん)ふところに入れさせたまひて、をのこども召(め)せば、蔵人(くらうど)忠隆(ただたか)まゐりたるに、「この翁まろ打ち調(てう)じて、犬島(いぬじま)にながしつかはせ。ただいま。」と仰(おほ)せらるれば、あつまりて狩(か)りさわぐ。馬命婦もさいなみて、「乳母(めのと)かへてむ。いとうしろめたし。」と仰せらるれば、かしこまりて御前(おまへ)にも出でず。犬は狩り出(い)でて滝口(たきぐち)などして追ひつかはしつ。
「あはれ、いみじくゆるぎありきつるものを。三月(さんぐわち)三日(みか)に、頭弁(とうのべん)、柳のかづらをせさせ、桃の花かざしにささせ、梅腰にささせなどして、ありかせたまひし、かかる目見むとは思ひかけけむや。」とあはれがる。「おもののをりは、かならず向(むか)ひさぶらふに、さうざうしくこそあれ。」など言ひて、三四日(みつかよか)になりぬ。
 昼(ひる)つかた、犬のいみじく鳴く声のすれば、何(なに)ぞの犬のかく久(ひさ)しく鳴くにかあらむと聞くに、よろづの犬ども走りさわぎ、とぶらひに行(ゆ)く。御厠人(みかはやうど)なる者走り来て、「犬を蔵人(くらうど)二人して打ちたまふ。死ぬべし。ながさせたまひけるが帰りまゐりたるとて、調(てう)じたまふ。」と言ふ。心憂(こころう)の事や。翁(おきな)まろななり。「忠隆、実房(さねふさ)なむ打つ。」と言へば、制(せい)しにやるほどに、からうじて鳴きやみぬ。「死にければ、門(かど)のほかに引き捨てつ。」と言へば、あはれがりなどする夕(ゆふ)つかた、いみじげに腫(は)れ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わななきありけば、「あはれ、翁まろか。かかる犬やはこのごろは見ゆる。」など言ふに、「翁まろ。」と呼べど、耳にも聞き入れず。「それぞ。」と言ひ、「あらず。」と言ひ、口々申せば、「右近(うこん)ぞ見知りたる。呼べ。」とて、しもなるを、「まづ。とみの事。」とて召(め)せばまゐりたり。「これは翁まろか。」と見せさせたまふに、「似てはべるめれど、これはゆゆしげにこそはべるめれ。また、『翁まろ。』と呼べば、よろこびてまうで来るものを、呼べど寄りて来(こ)ず。あらぬなめり。『それは打ち殺して捨てはべりぬ。』とこそ申(まう)しつれ。さる者どもの二人して打たむには生きなむや。」と申せば、心憂(こころう)がらせたまふ。
 暗(くら)うなりて、物食はせたれど食はねば、あらぬものに言ひなしてやみぬるつとめて、御(おほん)けづり櫛(ぐし)にまゐり、御(おほん)手水(てうづ)まゐりて、御(おほん)鏡持たせて御覧(ごらん)ずれば、候(さぶら)ふに、犬の柱のもとについゐたるを、「あはれ昨日(きのふ)翁まろをいみじう打ちしかな。死にけむこそかなしけれ。何(なに)の身にか、このたびはなりたらむ。いかにわびしき心地(ここち)しけむ。」とうち言ふほどに、この寝(ね)たる犬ふるひわななきて、涙をただ落としに落とす、いとあさまし。「さは、これ翁まろにこそありけれ。昨夜(よべ)は隠れしのびてあるなりけり。」と、あはれにくくてをかしきこと限りなし。御(おほん)鏡をもうち置きて、「さは、翁まろ。」と言ふに、ひれ伏(ふ)していみじく鳴く。
 御前(おまへ)にも落(お)ち笑はせたまふ。人々まゐりあつまりて、右近の内侍(ないし)召して、「かく」など仰せらるれば、笑ひののしるを、うへにも聞(きこ)しめして、わたらせおはしまして、「あさましう、犬などもかかる心あるものなりけり。」と笑はせたまふ。うへの女房たちなども、聞きてまゐりあつまりて、呼ぶに、ただいまぞ立ち動く。なほ顔など腫(は)れためり。「物の手をせさせばや。」と言へば、「これをついでに言ひあらはしつる。」など笑はせたまふに、忠隆聞きて、台盤所(だいばんどころ)の方(かた)より、「まことにやはべらむ。かれ見はべらむ。」と言ひたれば、「あな、ゆゆし。さるものなし。」と言はすれば、「さりとも、つひに見つくるをりはべりなむ。さのみもえ隠(かく)させたまはじ。」と言ふなり。
 さて後(のち)、かしこまり勘事(かうじ)ゆるされて、もとのやうになりにき。なほ、あはれがられてふるひ鳴き出でたりしほどこそ、世に知らずをかしくあはれなりしか。人々にも言はれて、なきなどす。
〔n8〕 正月(しやうぐわち)一日(ついたち)、三月(さんぐわち)三日(みか)は、いとうららかなる。五月(ごぐわち)五日(いつか)、曇(くも)りくらしたる。七月(しちぐわち)七日(なぬか)は、曇りて、七夕(たなばた)晴れたる空に、月いと明(あ)かく、星の姿(すがた)見えたる。九月(くぐわち)九日(ここぬか)は、暁(あかつき)がたより雨すこし降りて、菊の露(つゆ)もこちたうそぼち、おほひたる綿(わた)などもてはやされたる。つとめてはやみにたれど、曇りて、ややもすれば降り落ちぬべく見えたる、をかし。
〔n9〕 よろこび奏(そう)するこそをかしけれ。うしろをまかせて、笏(しやく)取りて、御前(おまへ)の方(かた)に向(むか)ひて立てるを。拝(はい)し、舞踏(ぶたふ)し、さわぐよ。
〔n10〕 今内裏(いまだいり)の東(ひんがし)をば、北の門とぞいふ。楢の木のはるかに高きが立てるを、常に見て、「いく尋あらむ。」など言ふに、権中将の、「もとよりうち切りて、定澄僧都の枝扇にせさせばや。」とのたまひしを、山階寺の別当になりて、よろこび申しの日、近衛司にて、この君の出でたまへるに、高き屐子をさへはきたれば、ゆゆしく高し。出でぬる後こそ、「などその枝扇は持たせたまはぬ。」と言へば、「物忘れせず。」と笑ひたまふ。
〔n11〕 山は小倉山(をぐらやま)、三笠(みかさ)山、このくれ山、わすれ山、いりたち山、かせ山、ひえの山。かさとり山こそは、いかならむとをかしけれ。いつはた山、のち瀬(せ)山、かさとり山、ひらの山。床(とこ)の山は、「わが名もらすな」と御門(みかど)のよませたまひけむ、いとをかし。
 いぶせの山。あさくら山、よそに見るがをかしき。いはた山。をひれ山も、臨時の祭の使(つかひ)など思ひ出(い)でらるべし。手向(たむけ)山。三輪(みわ)の山、いとをかし。音羽(おとは)山、まちかね山、たまさか山、耳(みみ)なし山、末(すゑ)の松山、葛城(かづらき)山、美濃(みの)のを山、柞(ははそ)山、位(くらゐ)山、吉備(きび)の中山、嵐(あらし)山、更級(さらしな)山、姨捨(をばすて)山、小塩(をしほ)山、浅間(あさま)の山、かたため山、かへる山、妹背(いもせ)山。
〔n12〕 峰(みね)はつるはの嶺(みね)、あみだの峰、いや高(たか)の峰。
〔n13〕 原(はら)はたか原、みかの原、あしたの原、その原、萩(はぎ)原、あはづの原、なし原、うなゐごが原、あべの原、篠(しの)原。
〔n14〕 市(いち)はたつの市。つば市は、やまとにあまたあるなかに、長谷(はせ)寺に詣(まう)づる人の、かならずそこにとどまりければ、観音(くわんおん)の御縁(ごえん)あるにや、心ことなり。おふの市、しかまの市、飛鳥(あすか)の市。
〔n15〕 淵(ふち)はかしこ淵、いかなる底(そこ)の心見えてさる名をつきけむとをかし。ないりその淵、たれにいかなる人の教(をし)へしならむ。青色(あをいろ)の淵こそをかしけれ。蔵人(くらうど)などの身にしつべくて。いな淵、かくれの淵、のぞきの淵、たま淵(ぶち)。
〔n16〕 海(うみ)は水(みづ)うみ、与謝(よさ)の海、かはぐちの海、伊勢(いせ)の海。
〔n17〕 みささぎはうぐひすのみささぎ、かしは原(ばら)のみささぎ、あめのみささぎ。
〔n18〕 わたりはしかすがのわたり、みづはしのわたり。
〔n19〕 家(いへ)は近衛(このゑ)の御門(みかど)。二条(にでう)、一条よし。染殿(そめどの)の宮(みや)、せかゐ、みかゐ、すが原の院(ゐん)、れぜいの院、とう院、小野宮(をののみや)、紅梅(こうばい)、あがたのゐど、東三条(とうさんでう)、小六条(ころくでう)。
〔n20〕 清涼殿の丑寅の隅の、北のへだてなる御障子には、荒海のかた、生きたる物どものおそろしげなる、手長・足長をぞかかれたる。うへの御局の戸押しあけたれば常に目に見ゆるをにくみなどして笑ふほどに、高欄のもとに青きかめの大きなるすゑて、桜のいみじくおもしろきが五尺ばかりなるを、いとおほくさしたれば、高欄のもとまでこぼれ咲きたるに、昼つかた、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、濃き紫の指貫、白き御衣ども、うへに濃き綾のいとあざやかなるを出だして、まゐりたまへり。うへのこなたにおはしませば、戸口の前なるほそき板敷にゐたまひて、物など奏したまふ。御簾の内には、女房、桜の唐衣どもくつろかにぬぎ垂れつつ、藤、山吹など、色々にこもしくて、あまた小半蔀の御簾より押し出でたるほど、昼の御座の方に、おものまゐる足音高し。けはひなど、「おし、おし。」と言ふ声聞ゆ。うらうらとのどかなる日のけしきいとをかしきに、果ての御盤持たる蔵人まゐりて、おもの奏すれば、中戸よりわたらせたまふ。
 御供に大納言殿まゐらせたまひて、ありつる花のもとにかはりゐたまへり。宮の御前の御几帳押しやりて、長押のもとに出でさせたまへるなど、ただ何事ともなく、よろづにめでたきを、候ふ人も思ふことなき心地するに、「月日もかはりゆけども久に経るみむろの山の」と、「宮高く」といふ事をゆるるかにうちよみ出だしてゐたまへる、いとをかしとおぼゆる、げにぞ千年もあらまほしげなる御ありさまなるや。
 陪膳つかまつる人の、をのこどもなど召すほどもなくわたらせたまひぬ。「御硯の墨すれ。」と仰せらるるに、目はそらにのみ、ただおはしますをのみ見たてまつれば、ほとほとつぎめもはなちつべし。白き色紙を押したたみて、「これにただいまおぼえむ古ごと書け。」と仰せらるるに、外にゐたまへるに、「これはいかに。」と申せば、「とく書きてまゐらせたまへ。をのこは言まずべきにもはべらず。」とて、さし入れたまへり。御硯取りおろして、「とくとく。ただ思ひめぐらさで、難波津の何も、ふとおぼえむを。」と責めさせたまふに、などさは臆せしにか、すべて面さへ赤みてぞ思ひ乱るる。
 春の歌、花の心など、さいふに、上臈二つ三つ書きて、「これに。」とあるに、
  年経ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし
といふことを、「君をし見れば」と書きなしたるを、御覧じて、「ただこの心ばせどものゆかしかりつるぞ。」と仰せらるるついでに、
 「円融院の御時、御前にて『草子に歌一つ書け。』と殿上人に仰せられけるを、いみじう書きにくく、すまひ申す人々ありける。『さらに手のよさ・あしさ、歌、をりに合はざらむをも知らじ。』と仰せられければ、わびてみな書きける中に、ただいまの関白殿の三位中将と聞えけるころ、
  しほの満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふやはわれ
といふ歌を、末を『たのむやはわれ』と書きたまへりけるをなむ、いみじくめでさせたまひける。」
と仰せらるるも、すずろに汗あゆる心地ぞしける。若からむ人は、さもえ書くまじき事のさまにやとぞおぼゆる。例の、ことよく書く人々も、あいなくみなつつまれて、書きけがしなどしたるもあり。
 古今の草子を御前に置かせたまひて、歌どもの本を仰せられて、「これが末はいかに。」と仰せらるるに、すべて夜昼心にかかりておぼゆる、け清くおぼえず、申し出でられぬことは、いかなる事ぞ。宰相の君ぞ十ばかり、それもおぼゆるかは。まして五つ六つ三つなど、はたおぼえぬよしをぞ啓すべけれど、「さやはけにくく、仰せ言をはえなくもてなすべき。」と言ひ、くちをしがるもをかし。知ると申す人なきをば、やがてよみつづけさせたまふを、「さてこれはみな知りたることぞかし。などかくつたなくはあるぞ。」と言ひ嘆く。中にも古今あまた書き写しなどする人は、みなおぼえぬべきことぞかし。
「村上の御時、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一条の左大臣殿の御むすめにおはしましければ、たれかは知りきこえざらむ。まだ姫君におはしけるとき、父おとどの教へきこえさせたまひけるは、『一には御手を習ひたまへ。次には琴の御琴を、いかで人に弾きまさむとおぼせ。さて古今二十巻をみな浮かべさせたまはむを御学問にはせさせたまへ。』となむ聞えさせたまひけると、聞しめしおかせたまひて、御物忌なりける日、古今を隠してわたらせたまひて、例ならず御几帳を引き立てさせたまひければ、女御、あやしとおぼしけるに、御草子をひろげさせたまひて、『その年その月、何のをり、その人のよみたる歌はいかに。』と問ひきこえさせたまふに、かうなりと心得させたまふもをかしきものの、ひが覚えもし、忘れたるなどもあらばいみじかるべきことと、わりなくおぼし乱れぬべし。その方おぼめかしからぬ人二三人ばかり召し出でて、碁石して数を置かせたまはむとて、問ひきこえさせたまひけむほど、いかにめでたくをかしかりけむ。御前に候ひけむ人さへこそうらやましけれ。せめて申させたまひければ、さかしうやがて末までなどはあらねど、すべてつゆたがふことなかりけり。あさましく、なほすこしおぼめかしく、ひが事見つけてをやまむと、ねたきまでおぼしめしける。十巻にもなりぬ。『さらに不用なりけり。』とて、御草子に夾算して、御とのごもりぬるもいとめでたしかし。いと久しうありて起きさせたまへるに、『なほ、この事左右なくてやまむ、いとわろかるべし。』とて、『下十巻、明日にもならば、ことをもぞ見たまひ合はする。今宵定めむ。』とて、御との油近くまゐりて、夜ふくるまでなむよませたまひける。されど、つひに負けきこえさせたまはずなりにけり。『うへわたらせたまひて後、かかる事なむ。』と、人々殿に申したてまつりければ、いみじうおぼしさわぎて、御誦経などあまたせさせたまひて、そなたに向ひてなむ念じくらさせたまひけるも、好き好きしくあはれなる事なり。」
など語り出でさせたまふを、うへ聞しめしてめでさせたまひ、「いかでさおほくよませたまひけむ。われは三巻四巻だにもえよみ果てじ。」と仰せらる。「昔は、えせ者もすきをかしうこそありけれ。このごろかやうなる事やは聞ゆる。」など、御前に候ふ人々、うへの女房のこなたゆるされたるなどまゐりて、口々言ひ出でなどしたるほどは、まことに思ふ事なくこそおぼゆれ。
〔n21〕 生ひさきなく、まめやかに、えせざいはひなど見てゐたらむ人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、なほ、さりぬべからむ人のむすめなどは、さしまじらはせ、世の中のありさまも見せならはさまほしう、内侍などにてもしばしあらせばやとこそおぼゆれ。
「宮仕へする人は、あはあはし。」など、わろき事に思ひ言ひたる男こそいとにくけれ、さる事ぞかし。よにかしこき御前をはじめたてまつり、上達部・殿上人・四位五位六位、女房さらにもいはず、見ぬ人はすくなくこそはあらめ。女房の従者ども、その里より来る者ども、をさめ・御厠人・たびしかはらといふまで、いつかはそれを恥ぢ隠れたりし。殿ばらなどは、いとさしもあらずやあらむ。それも、ある限りは、さぞあらむ。
 うへなどいひて、かしづきすゑたるに、心にくからずおぼえむ、ことわりなれど、内侍のすけなどいひて、をりをり内へまゐり、祭の使などに出でたるも、面立たしからずやはある。
 さて籠りゐぬる人、はたいとよし。受領の五節など出だすをり、さりともいたうひなび、見知らぬ事人に問ひ聞きなどせじかし、と心にくきものなり。
〔n22〕 すさまじきもの、昼ほゆる犬、春の網代、三四月の紅梅の衣、ちごの亡くなりたる産屋、火おこさぬ火桶・地火炉、牛死にたる牛飼、博士のうちつづき女子うませたる。方違へに行きたるにあるじせぬ所、まして節分はすさまじ。人の国よりおこせたる文の物なき。京のをもさこそ思ふらめども、されどそれはゆかしき事も書きあつめ、世にある事も聞けばよし。人のもとにわざと清げに書きたててやりつる文の返事見む、今は来ぬらむかしと、あやしくおそきと待つほどに、ありつる文を、結びたるも立て文も、いときたなげに持ちなして、ふくだめて、上に引きたりつる墨さへ消えたるを、「おはせざりけり。」もしは「物忌とて取り入れず。」など言ひて持て帰りたる、いとわびしくすさまじ。また、かならず来べき人のもとに車をやりて待つに、入り来る音すれば、「さななり。」と人々出でて見るに、車宿りざまにやり入れて、轅ほうとうちおろすを、「いかなるぞ。」と問へば、「今日はおはしまさず。わたりたまはず。」とて、牛の限り引き出でていぬる。また、家ゆすりて取りたる婿の来ずなりぬる、いとすさまじ。さるべき人の宮仕へするがりやりて、いつしかと思ふも、いとほいなし。
 ちごの乳母の「ただあからさま。」とていぬるを、もとむれば、とかく遊ばしなぐさめて、「とく来。」と言ひやりたるに、「今宵はえまゐるまじ。」とて、返しおこしたる、すさまじうのみにもあらず、にくさわりなし。女など迎ふる男、ましていかならむ。
 待つ人のある所に、夜すこしふけて、しのびやかに門をたたけば、胸すこしつぶれて、人出だし問はするに、あらぬよしなき者の名のりして来たるも、かへすがへすすさまじといふ中にも。
 験者の物の怪調ずとて、いみじうしたり顔に、独鈷や数珠など持たせて、せみ声にしぼり出だしよみゐたれど、いささか去りげもなく、護法もつかねば、あつまりて念じゐたるに、男女「あやし。」と思ふに、時のかはるまでよみ困じて、「さらにつかず。立ちね。」とて、数珠取り返して、「あな、いと験なしや。」とうち言ひて、額より上ざまに、かしらさくりあげて、欠伸をおのれうちして寄り臥しぬる。
 除目に司得ぬ人の家。今年はかならずと聞きて、はやうありし者ども、ほかほかにありつる、片田舎に住む者どもなど、みなあつまり来て、出で入る車の轅もひまなく見え、物詣でする供にも、われもわれもとまゐりつかうまつり、物食ひ酒飲み、ののしり合へるに、果つる暁まで門たたく音もせず。「あやし。」など耳立てて聞けど、さき追ふ声々して、上達部などみな出でたまふ。物聞くに宵より寒がりわななきをりつる下衆をのこなど、いと物憂げに歩み来るを、をる者どもは問ひだにもえ問はず、ほかより来たる者などぞ、「殿は何にかならせたまへる。」など問ふ。いらへには「なの前司にこそは。」とかならずいらふる、まことにたのみける者は、いみじう嘆かしと思ひたり。つとめてになりて、ひまなくをりつる者も、やうやう一人二人づつすべりつつ出でぬ。ふる者のさもえ行き離るまじきは、来年の国々を手を折りてかぞへなどして、ゆるぎありく、いみじういとほしう、すさまじげなり。
 よろしくよみたりと思ふ歌を、人のがりやりたるに返しせぬ。懸想文はいかがせむ。それだにをりをかしうなどあるに返しせぬは心おとりす。また、さわがしう時めかしき所に、うち古めきたる人の、おのがつれづれと暇あるままに、昔おぼえてことなる事なき歌よみしておこせたる。
 物のをり、扇いみじくと思ひて、心ありと知りたる人に取らせたるに、その日になりて、思はずなる絵などかきて得たる。
 産養、馬のはなむけなどの、物の使に禄など取らせぬ。はかなき薬玉・卯槌など持てありく者も、かならず取らすべし。思ひかけぬ事に得たるをば、「いと興あり。」と思ひたる。「今日はかならずさるべき使ぞ。」と心ときめきして来たるに、ただなるはまことにすさまじ。
 婿取りして、四五年まで産屋のさわぎせぬ所。大人なる子ども、ようせずはむまごども這ひありきぬべき人の親どちの昼寝したる。おほかた、童べなるほどの心地にも、親の昼寝したるは、寄り所なくすさまじくぞありし。寝起きてあむる湯は、腹立たしくさへこそおぼゆれ。師走のつごもりの長雨、百日ばかりの精進の懈怠とやいふべからむ。八月の白襲、乳あえずなりぬる乳母。
〔n23〕 たゆまるるもの、精進の日の行ひ、日遠きいそぎ、寺に久しく籠りたる。
〔n24〕 人にあなづらるるもの、家の北面、あまりに心よきと人に知られたる人、年老いたる翁、また、あはあはしき女、築地のくづれ。
〔n25〕 にくきもの、いそぐ事あるをりに長言するまらうど。あなづらはしきほどの人ならば、「後に。」など言ひても追ひやりつべけれども、さすがに心はづかしき人、いとにくし。
 硯に髪の入りて磨られたる、また墨の中に石のこもりてきしきしときしみたる。
 にはかにわづらふ人のあるに、験者もとむるに、例ある所にはあらでほかにある、たづねありくほどに、待ち遠に久しきを、からうじて待ちつけて、よろこびながら加持せさするに、このごろ物の怪に困じにけるにや、ゐるすなはちねぶり声になりたる、いとにくし。
 なでふことなき人の、すずろにゑがちに物いたく言ひたる。火桶・炭櫃などに手のうらうち返しうち返し、皺押しのべなどしてあぶる者。いつかは若やかなる人などの、さはしたりし。老いばみてうたてある者こそ、火桶のはたに足さへうちかけて、物言ふままに押しすりなどもすらめ。さやうの者は、人のもとに来て、ゐむとする所、扇して塵払ひ掃き捨てて、ゐも定まらずひろめきて、狩衣の前、した様にまくり入れてもゐるかし。かかる事は、いふかひなききはにやと思へど、すこしよろしき者の、式部大夫、駿河の前司などいひしが、させしなり。
 また、酒飲みてあめきて、口をさぐり、髯あるはそれを撫でて、杯人に取らするほどのけしき、いみじくにくし。なやみ、口わきさへ引き垂れ、「また飲め。」など言ふなるべし。身ぶるひをし、童べの「こほ殿にまゐりて」などうたふやうにする。それはしも、まことによき人のさしたまひしより、心づきなしと思ふなり。
 物うらやみし、身の上嘆き、人の上言ひ、つゆばかりの事もゆかしがり聞かまほしがりて、言ひ知らせぬをば怨じそしり、またわづかに聞きわたる事をば、われもとより知りたる事のやうに、ことごと人に語りしらべ言ふもいとにくし。
 物聞かむと思ふほどに泣くちご。烏のあつまりて飛びちがひ鳴きたる。しのびて来る人見知りてほゆる犬は、打ちも殺しつべし。
 さるまじう、あながちなる所に隠し伏せたる人のいびきしたる。また、みそかにしのびて来る所に、長烏帽子さすがに人に見えじとまどひ出づるほどに、物に突きさはりてそよろといはせたる、いみじうにくし。伊予簾などかけたるをうちかづきてさらさらと鳴らしたるも、いとにくし。帽額の簾はましてこはきもののうち置かるる、いとしるし。そばをやをら引き上げて出で入りするはさらに鳴かず。
 また、遣戸など荒くあくるもいとにくし。すこしもたぐるやうにてあくるは、鳴りやはする。あしうあくれば、障子などもほめかしこほめくこそしるけれ。
 ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声に名のりて、顔のもとに飛びありくは、風さへさる身のほどにあるこそいとにくけれ。
 きしめく車に乗りてありく者、耳も聞かぬにやあらむといとにくし。わが乗りたるは、その車のぬしさへにくし。
 物語などするに、さし出でて、われ一人さいまんぐるる者。さしいらへはすべて童も大人もいとにくし。
 昔物語などするに、われ知りたりけるは、ふと出でて言ひくたしなどする、いとにくし。鼠の走りありく、いとにくし。
 あからさまに来たる子ども・童べをらうたがりて、をかしき物どもなど取らするにならひて、常に来てゐ入り、しやうちうしぬる、にくし。
 家にても、宮仕へ所にても、会はでありなむと思ふ人の来たるに、空寝をしたるに、わがもとにある者どもの起しに寄り来て、いぎたなしと思ひ顔に引きゆるがしたる、いとにくし。
 今まゐりのさし越えて物知り顔に教へやうなる事言ひ、うしろ見たる、いとにくし。
 わが知る人にてあるほどの、はやう見し女のことほめ言ひ出だしなどするも、過ぎてほど経にたれど、なほにくし。まして、さし当たりたらむこそ思ひやらるれ。されど、それはさしもあらぬやうもありかし。
 鼻ひて誦文する人。おほかたの、家の男主ならで鼻高くひたる者、いとにくし。
 蚤もいとにくし。衣の下にをどりありきて、もたぐるやうにするも。また、犬のもろ声に長々と鳴きあげたる、まがまがしくにくし。
〔n26〕 にくきもの、乳母の男こそあれ。女子は、されど近く寄らねばよし、をのこ子はただわが物に領じて、立ち添ひうしろ見、いささかもこの御事にたがふ者をば詰め讒し、人にも思ひたらず。あしけれど、これがとがをば心にまかせ言ふ人しなければ、所得、いみじき面持して事行ひなどするよ。
〔n27〕 文ことばなめき人こそいとどにくけれ。世をなのめに書きながしたることばのにくさこそ。さるまじき人のもとに、あまりかしこまりたるも、げにわろき事ぞ。されど、わが得たらむはことわり、人のもとなるさへにくくぞある。
 おほかた、さし向ひても、なめきは、「などかく言ふらむ。」とかたはらいたし。まして、よき人などをさ申す者は、さるはをこにて、いとにくし。
 男主などわろく言ふ、いとわろし。わが使ふ者など、「おはする」「のたまふ」など言ひたる、いとにくし。ここもとに「侍り」といふ文字をあらせばやと聞く事こそおほかれ。
 「愛敬な。などことばはなめき。」など言へば、言はるる人も笑ふ。かくおぼゆればにや、「あまり嘲弄する。」など言はるるまであるも、人わろきなるべし。
 殿上人・宰相などを、ただ名のる名を、いささかつつましげならず言ふは、いとかたはなるを、けぎよくさ言はず、女房の局なる人をさへ「あの御前、君」など言へば、めづらかにうれしと思ひて、ほむる事ぞいみじき。殿上人・君達を、御前よりほかにては官をのみ言ふ。また御前にて物を言ふとも、聞しめさむには、などてかは「まろが」など言はむ。さ言はざらむ、にくし。かく言はむには、などてわろかるべき事かは。
 ことなる事なき男の、ひき入れ声して、艶だちたる。墨つかぬ硯。女房の物ゆかしうする。ただなるだに、いとしも思はしからぬ人のにくげごとしたる。
 一人車に乗りて物見る男、いかなる者にかあらむ。やんごとなからずとも、若き男どもの物ゆかしう思ひたるなど、引き乗せても見よかし。透影にただ一人かがよひて、心一つにまぼりゐたらむよ。
〔n28〕 暁に帰る人の、昨夜置きし扇・ふところ紙もとむとて、暗ければ「さぐり当てむ。さぐり当てむ。」と、たたきもわたし、「あやし。あやし。」などうち言ひ、もとめ出でて、そよそよとふところにさし入れて、扇ひきひろげて、ふたふたとうち使ひて、まかり申ししたる、にくしとは世の常、いと愛敬なし。同じごと、夜ぶかく出づる人の、烏帽子の緒強く結ひたる、さしも結ひかためずともありぬべし。やをらさながらさし入れたりとも、人のとがむべき事かは。いみじうしどけなう、かたくなしく、直衣・狩衣などゆがみたりとも、たれかは見知りて笑ひそしりもせむとする。
 人は、なほ暁のありさまこそ、をかしくもあるべけれ。わりなくしぶしぶに起きがたげなるを、強ひてそそのかし、「明け過ぎぬ。あな、見苦し。」など言はれてうち嘆くけしきも、げにあかず、物憂きにしもあらむかしとおぼゆ。指貫なども、ゐながら着も敢へず、まづさし寄りて、夜一夜言ひつる事の残りを、女の耳に言ひ入れ、何わざすとなけれど、帯などをば結ふやうなりかし。格子押しあげ、妻戸ある所は、やがてもろともに率て行きて、昼のほどのおぼつかなからむ事なども、言ひ出でにすべり出でなむは、見送られて名残もをかしかりぬべし。名残も、思ひ出でどころあり。
 いときはやかに起きて、ひろめき立ちて、指貫の腰つよく引き結ひ、直衣・うへの衣・狩衣も、袖かいまくり、よろづさし入れ、帯つよく結ふ、にくし。
〔n29〕 心ときめきするもの、雀の子。ちご遊ばする所の前わたりたる。唐鏡のすこし暗き、見たる。よき男の、車とどめて物の案内せさせたる。よき薫物たきて一人臥したる。頭洗ひ化粧じて、香にしみたる衣着たる、ことに見る人なき所にても、心のうちはなほをかし。待つ人などある夜、雨のあし、風の吹きゆるがすも、ふとぞおどろかるる。
〔n30〕 過ぎにし方恋しきもの、雛遊びの調度、をりかうし。二藍・葡萄染などのさいでの押しへされて草子の中にありけるを見つけたる。あはれなりし人の文、雨などの降りてつれづれなる日、さがし出でたる。枯れたる葵、去年の蝙蝠、月の明かき夜。
〔n31〕 心ゆくもの、ようかきたる女絵の、ことばをかしうつづけておほかる。物見のかへさに、乗りこぼれて、をのこどもいとおほく、牛よくやる者の車走らせたる。白く清げなるみちのくに紙に、いと細くかかへてはあらぬ筆して、文かきたる。調半に調おほくうちたる。河舟のくだりざま。歯黒めのよくつきたる。うるはしき糸のあはせぐりしたる。物よく言ふ陰陽師して、河原に出でて呪詛の祓したる。夜寝起きて飲む水。つれづれなるをりに、いとあまりむつましくはあらず、うとくあらぬまらうどの来て、世の中の物語、このごろある事の、をかしきもにくきもあやしきも、これにかかりかれにかかり、おほやけわたくしおぼつかなからず、聞きよく、ほこりかに語る、いと心行く心地す。神・寺などに詣でて物申さするに、寺には法師、神は禰宜などやうの者の、思ふほどよりも過ぎて、とどこほりなく聞きよく申したる。
〔n32〕 檳榔毛は、のどやかにやりたる。走らせたるはかろがろしく見ゆ。網代は走らせたる。人の門よりわたるを、ふと見るほどもなく過ぎて、供の人ばかり走るを、「たれならむ。」と思ふこそをかしけれ。ゆるゆると行くは、いとわろし。
〔n33〕 牛は、額いと小さく白みたるが、腹の下白き、足のしも・尾のすそ白き。
〔n34〕 馬は、紫のまだらつきたる。葦毛、いみじく黒きが、足・肩のわたりなどに白き所。薄紅梅の毛にて、髪・尾などはいと白き、げに木綿髪といひつべし。
〔n35〕 牛飼は、大きにて、髪あかしらがにて、顔赤みて、かどかどしげなる。
〔n36〕 雑色・随身は、やせてほそやかなる。よき男も、なほ若きほどは、さる方なるぞよき。いたく肥えたるは、ねぶたからむ人とおぼゆ。
〔n37〕 小舎人は、小さくて、髪うるはしきが、裾さはらかに、すこし色なるが、声をかしうて、かしこまりて物など言ひたるぞ、りやうりやうじき。
〔n38〕 猫は、上のかぎり黒くて、ことはみな白き。
〔n39〕 説経師は、顔よき、つとまもらへたるこそ、説くことのたふとさもおぼゆれ。ほか目しつれば、忘るるに、にくげなるは「罪や得らむ。」とおぼゆ。このことはとどむべし。すこし年などのよろしきほどこそ、かやうの罪得方の事も書きけめ、今はいとおそろし。
 また、「たふとき事。道心おほかり。」とて、説経すといふ所に、さいそにいにゐる人こそ、なほこの罪の心地には、さしもあらで見ゆれ。
〔n40〕 蔵人おりたる人、昔は御前などいふ事もせず、その年ばかり、内わたりにはまして影も見せざりける。今はさしもあらざめる。「蔵人の五位」とて、それをしもぞいそがしくもてつかへど、なほ名残つれづれにて、心一つは暇ある心地すべかめれば、さやうの所にいそぎ行くを、一度二度聞きそめつれば、常に詣でまほしくなりて、夏などのいと暑きにも帷子いとあざやかに、薄二藍・青鈍の指貫など踏み散らしてゐためり。烏帽子に物忌つけたるは、今日さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらず見えむとにや、いそぎ来て、その事する聖と物語して、車立つるをさへぞ見入れ、ことにつきたるけしきなる。久しく会はざりける人などの、詣で会ひたる、めづらしがりて、近くゐ寄り、物語し、うなづき、をかしき事など語り出でて、扇広うひろげて、口にあてて笑ひ、装束したる数珠かいまさぐりて、手まさぐりにうちし、すがりを物言ふ拍子にこなたに打ちやりなどして、車のよしあしほめそしりなにかして、その人のせし経供養・八講と言ひくらべゐたるほどに、この説経の事も聞き入れず。何かは、常に聞く事なれば、耳馴れて、めづらしうおぼえぬにこそはあらめ。
 さはあらで、講師ゐてしばしあるほどに、さきすこしおはする車とどめておるる人、蝉の羽よりもかろげなる直衣、指貫、生絹の単衣など着たるも、狩衣姿にても、さやうにては若くほそやかなる三四人ばかり、侍の者、またさばかりして入れば、もとゐたりつる人も、すこしうち身じろきくつろぎて、高座のもと近き柱のもとなどにすゑたれば、さすがに数珠押しもみ、きうに伏し拝みて聞きゐたるを、講師もはえばえしく思ふなるべし、いかで語り伝ふばかりと説き出でたり。聴聞すると立ちさわぎ額づくほどにもなく、よきほどにて立ち出づとて、車どもの方見おこせて、われどちうち言ふも、「何事ならむ。」とおぼゆ。見知りたる人をば「をかし。」と思ひ、見知らぬは「たれならむ。それにや、かれにや。」など、目をつけて思ひやらるるこそをかしけれ。「説経し、八講しけり。」など、人の言ひ伝ふるに、「その人はありつや。」「いかがは。」など、定まりて言はれたる、あまりなり。などかはむげにさしのぞかではあらむ、あやしき女だにいみじく聞くめるものをば。されど、この草子など出で来はじめつ方は、かちありきする人はなかりき。たまさかには、壺装束などばかりして、なまめき化粧じてこそありしか、それも物詣でをぞせし。説経などは、ことにおほくも聞かざりき。このごろ、その書き出でたる人の、命長くて見ましかば、いかばかりそしり誹謗せまし。
〔n41〕 菩提といふ寺に結縁講するが聞きに詣でたるに、人のもとより、「とく帰りたまへ。いとさうざうし。」と言ひたれば、蓮の花びらに、
  もとめてもかかる蓮の露をおきて憂き世にまたは帰るものかは
と書きてやりつ。まことに、いとたふとくあはれなれば、やがてとまりぬべくぞおぼゆる。つねたうが家の人のもどかしさも忘るべし。
〔n42〕 小白川といふ所は、小一条の大将殿の御家、それにて上達部、結縁の八講したまふに、いみじくめでたき事にて、世の中の人のあつまり行きて聞く。
「おそからむ車は、寄るべきやうもなし。」と言へば、露とともにいそぎ起きて、げにぞひまなかりける。轅の上に、またさし重ねて三つばかりまではすこし物も聞えぬべし。六月十余日にて、暑き事世に知らぬほどなり。池の蓮を見やるのみぞ、すこし涼しき心地する。
 左右のおとどたちをおきたてまつりては、おはせぬ上達部なし。二藍の直衣、指貫、あさぎの帷子をぞ透かしたまへる。すこし大人びたまへるは、青鈍の指貫、白き帷子も涼しげなり。安親の宰相なども、わかやぎだちて、すべてたふとき事の限りにもあらず、をかしき物見なり。廂の御簾高くまき上げて、長押の上に上達部、奥に向ひてながながとゐたまへり。そのしもには殿上人、若き君達、狩装束・直衣などもいとをかしくて、ゐも定まらず、ここかしこに立ちさまよひ遊びたるもいとをかし。実方の兵衛佐・ながあきらの侍従など、家の子にて、いますこし出で入りたり。まだ童なる君達など、いとをかしうておはす。
 すこし日たけたるほどに、三位中将とは関白殿をぞ聞えし、からの薄物の二藍の直衣、同じ指貫、濃き蘇芳の御袴に、はえたる白き単衣のいとあざやかなるを着たまひて、歩み入りたまへる、さばかりかろび涼しげなる中に、暑かはしげなるべけれど、いみじうめでたしとぞ見えたまふ。細塗骨など、骨はかはれど、ただ赤き紙を同じなみにうち使ひ持ちたまへるは、なでしこのいみじう咲きたるにぞいとよう似たる。
 まだ講師ものぼらぬほどに、懸盤どもして、何にかあらむ、物まゐるべし。義懐の中納言の御ありさまの常よりもまさりて清げにおはするさまぞ限りなき。上達部の御名などは書くべきにもあらぬを、「たれなりけむ。」と、すこしほど経ればなるによりなむ。色合ひはなばなと、いみじくにほひあざやかなるに、いづれともなきなかの帷子を、これはまことにすべてただ直衣一つを着たるにて、常に車の方を見おこせつつ、物など言ひおこせたまふ、をかしと見ぬ人はなかりけむを、後に来たる車の、ひまもなかりければ池に引き寄せて立てたるを見たまひて、実方の君に、「人の消息びびしく言ひつべからむ者一人。」と召せば、いかなる人にかあらむ、選りてゐておはしたるに、「いかが言ひやるべき。」と、近くゐたまへるばかり言ひ合はせて、やりたまはむことは聞えず、いみじく用意して車のもとに歩み来るを、かつは笑ひたまふ。しりの方に寄りて言ふめり。久しく立てれば、「歌などよむにやあらむ。兵衛佐、返し思ひまうけよ。」など笑ひて、いつしか返事聞かむと、大人・上達部まで、みなそなたざまに見やりたまへり。げに顕証の人は見るもをかしうありしを、返事聞きたるにや、すこし歩み来るほどに、扇をさし出でて呼び返せば、「歌などの文字を言ひあやまちてばかりこそ呼び返さめ、久しかりつるほどに、あるべきことかは。なほすべきにもあらじものを。」とぞおぼえたる。近くまゐりつくも心もとなく、「いかに、いかに。」と、たれも問ひたまへど、ふとも言はず。権中納言見たまへば、そこに寄りてけしきばめ申す。三位中将、「とく言へ。あまり有心過ぎて、しそこなふな。」とのたまふに、「これもただ同じ事になむ侍る。」と言ふは聞ゆ。藤大納言は、人よりもけにさしのぞきて、「いかが言ひつる。」とのたまふめれば、三位中将、「いとなほき木をなむ押し折りためる。」と聞えたまふに、うち笑ひたまへば、みな何となくさとうち笑ふ声聞えやすらむ。中納言、「さて呼び返されつるさきには、いかが言ひつる。これやなほしたる言。」と問ひたまへば、「久しく立ちて侍りつれど、ともかくも侍らざりつれば、『さはまゐりなむ。』とて帰りはべるを、呼びて」などぞ申す。「たれが車ならむ。見知りたりや。」などのたまふほどに、講師のぼりぬれば、みなゐしづまり、そなたをのみ見るほどに、この車はかい消つやうに失せぬ。下簾など、ただ今日はじめたりと見えて、濃き単襲に、二藍の織物、蘇芳の薄物のうは着などにて、しりに、摺りたる裳、やがてひろげながらうちかけなどしたるは、何人ならむ。「何かは、人のかたほならむことよりは、げにと聞えて、なかなかいとよし。」とぞおぼゆる。
 朝座の講師清範、高座の上も光り満ちたる心地して、いみじくぞあるや。暑さのわびしさに、しさすまじき事の、今日過ぐすまじきをうちのきて、ただすこし聞きて帰りなむとしつるを、しきなみにつどひたる車の奥になりたれば、出づべき方もなし。朝の講果てなばいかで出でなむとて、前なる車どもに消息すれば、近く立たむがうれしさにや、「はや。」と引き出で、あけて出だすを見たまひて、いとかしがましきまでひとごといひに老上達部さへ笑ひにくむ、聞きも入れでいらへもせで、せばがり出づれば、権中納言、「やや、まかりぬるもよし。」とてうち笑ひたまへるぞめでたき。それも耳にもとまらず、暑きにまどひ出でて、人して「五千の中には入らせたまはぬやうもあらじ。」と聞えかけて帰り出でにき。
 そのはじめより、やがて果つる日まで立てる車のありけるが、人寄り来とも見えず、すべてただあさましう、絵などのやうにて過ごしければ、ありがたくめでたく心にくく、「いかなる人ならむ。いかで知らむ。」と問ひたづねけるを聞きたまひて、藤大納言、「何かめでたからむ。いとにくし。ゆゆしき者にこそあなれ。」とのたまひけるこそをかしけれ。
 さてその二十日あまり、中納言の法師になりたまひにしこそあはれなりしか。桜などの散りぬるも、なほ世の常なりや。「老いを待つ間の」とだに言ふべくもあらぬ御ありさまにぞ。
〔n43〕 七月ばかり、いみじく暑ければ、よろづの所あけながら夜も明かすに、月のころは、寝起きて見いだすもいとをかし。闇もまたをかし。有明はた言ふにもあまりたり。
 いとつややかなる板の端近く、あざやかなる畳一枚、かりそめにうち敷きて、三尺の几帳奥の方に押しやりたるぞあぢきなき。人は出でにけるなるべし。薄色の裏いと濃くて、上は所々すこしかへりたるならずは、濃き綾のいとつややかなる、いたくは萎えぬを、頭こめて、引き着てぞ寝ためる。香染の単衣、紅のこまやかなる生絹の袴の、腰いと長く、衣の下より引かれたるも、まだ解けながらなめり。そばの方に髪のうちたたなはりて、ゆるるかなるほど、長さおしはかられたるに、またいづこよりにかあらむ、あさぼらけのいみじう霧り立ちたるに、二藍の指貫、あるかなきかの香染の狩衣、白き生絹、紅のとほすにこそあらめ、つややかなるが、霧にいたくしめりたるをぬぎ垂れて、鬢のすこしふくだみたれば、烏帽子の押し入れられたるけしきも、しどけなく見ゆ。朝顔の露落ちぬ先に文書かむとて、道のほどもなく、「麻生の下草」など口ずさみて、わが方へ行くに、格子の上がりたれば、簾のそばをいささかあけて見るに、起きていぬらむ人もをかし。露をあはれと思ふにや、しばし見たれば、枕がみの方に、朴に紫の紙はりたる扇ひろげながらあり。みちのくに紙の畳紙のほそやかなるが、花くれなゐにすこしにほひうつりたるも、几帳のもとに散りぼひたり。
 人のけはひのあれば、衣の中より見るに、うちゑみて、長押に押しかかりてゐぬれば、恥ぢなどする人にはあらねど、うちとくべき心ばへにもあらぬに、「ねたうも見えぬるかな。」と思ふ。「こよなき名残の御あさいかな。」とて、簾の内になからばかり入りたれば、「露より先なる人のもどかしさに。」といらふ。をかしき事取り立てて書くべきにあらねど、かく言ひかはすけしきどもにくからず。枕がみなる扇を、わが持ちたるして、およびてかき寄するが、「あまり近く寄り来るにや。」と、心ときめきせられて、引きぞくだらるる。取りて見などして、「うとくおぼしたること。」など、うちかすめうらみなどするに、明かうなりて、人の声々し、日もさし出でぬべし。「霧の絶え間見えぬほどにといそぎつる文もたゆみぬる。」とこそうしろめたけれ。出でぬる人も、いつのほどにかと見えて、萩の露ながらあるにつけてあれど、えさし出でず。香のいみじうしめたる匂ひ、いとをかし。あまりはしたなきほどになれば、立ち出でて、「わが来つる所もかくや。」と思ひやらるるもをかしかりぬべし。
〔n44〕 木の花は、梅の、濃くも薄くも紅梅、桜の、花びら大きに色よきが、枝はほそうかれはれに咲きたる。
 藤の花、しなひ長く、色よく咲きたる、いとめでたし。
 卯の花は、品おとりて、何となけれど、咲くころのをかしう、郭公の陰に隠るらむ思ふにいとをかし。祭のかへさに、紫野のわたり近きあやしの家ども、おどろなる垣根などにいと白う咲きたるこそをかしけれ。青色の上に白き単襲かづきたる、青朽葉などにかよひてなほいとをかし。四月のつごもり、五月ついたちなどのころほひ、橘の濃く青きに、花のいと白く咲きたるに雨の降りたるつとめてなどは、世になく心あるさまにをかし。花の中より黄金の玉かと見えて、いみじくきはやかに見えたるなどは、朝露に濡れたる桜におとらず。郭公の寄るとさへ思へばにや、なほさらに言ふべきにもあらず。梨の花、世にすさまじくあやしきものにして、目に近く、はかなき文つけなどだにせず。愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げにその色よりしてあいなく見ゆるを、唐土には限りなき物にて、文にも作るなるを、「さりともあるやうあらむ。」とて、せめて見れば、花びらの端にをかしきにほひこそ、こころもとなくつきためれ。楊貴妃、御門の御使にあひて泣きける顔に似せて、「梨花一枝春雨を帯びたり。」など言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたき事はたぐひあらじとおぼえたり。
 桐の花、紫に咲きたるはなほをかしきを、葉のひろごりざまうたてあれども、また、こと木どもとひとしう言ふべきにあらず。唐土にはことごとしき名つきたる鳥の、選りてこれにしもゐるらむ、いみじう心ことなり。まして琴に作りて、さまざまに鳴る音(ね)の出で来るなど、をかしなど世の常に言ふべくやはある。いみじうこそはめでたけれ。
 木のさまぞにくけれど、楝の花いとをかし。かれ、われにさまことに咲きて、かならず五月五日にあふもをかし。
〔n45〕 池は、勝間田、磐余の池。贄野の池、初瀬にまゐりしに、水鳥のひまなく立ちさわぎしが、いとをかしく見えしなり。水なしの池、「あやしう、などてつけるならむ。」と問ひしかば、「五月など、すべて雨いたく降らむとする年は、この池に水といふ物なくなむある。また、日のいみじく照る年は、春のはじめに水なむおほく出づる。」と言ひしなり。「げになべてかわきてあらばこそさもつけめ、出づるをりもあるなるを、一すぢにつけけるかな。」といらへまほしかりし。猿沢の池、采女の投げけるを聞しめして、行幸(ぎやうがう)などありけむこそいみじうめでたけれ。「寝くたれ髪を」と人麻呂がよみけむほど、言ふもおろかなり。たまへの池、また何の心につけけるならむとをかし。鏡の池。狭山の池、三稜草(みくり)といふ歌のをかしくおぼゆるにやあらむ。こひぬまの池。はらの池、「玉藻はな刈りそ」と言ひけむもをかし。益田の池。
〔n46〕 節(せち)は、五月にしくはなし。菖蒲(さうぶ)・蓬などのかをりあひたるもいみじうをかし。九重の内をはじめて、言ひ知らぬたみしかはらの住みかまで、いかでわがもとにしげく葺かむと葺きわたしたる、なほいとめづらしく、いつかことをりはさはしたりし。空のけしきの曇りわたりたるに、后の宮などには、縫殿より御薬玉とて色々の糸を組みさげてまゐらせたれば、御帳立てたる母屋の柱に左右につけたり。九月九日の菊を綾と生絹のきぬに包みてまゐらせたる、同じ柱に結ひつけて月ごろある、薬玉に取りかへて捨つめる。また薬玉は菊のをりまであるべきにやあらむ。されど、それはみな糸を引き取りて物結ひなどして、しばしもなし。
 御節供まゐり、若き人々は、菖蒲のさし櫛さし、物忌つけなどして、さまざま唐衣・汗衫、長き根・をかしき折り枝ども、むら濃の組して結びつけなどしたる、めづらしう言ふべき事ならねどいとをかし。さて春ごとに咲くとて、桜をよろしう思ふ人やはある。つちありく童べなどの、ほどほどにつけては、いみじきわざしたりと、常に袂まもり、人に見くらべ、えもいはず興ありと思ひたるを、そばへたる小舎人童などに引きはられて泣くもをかし。紫の紙に楝の花、青き髪に菖蒲の葉ほそうまきてひき結ひ、また白き紙を根にしてゆひたるもをかし。いと長き根などを文の中に入れたる人どもなどもいと艶なり。返事書かむと言ひ合はせ語らふどちは見せ合はせなどする、をかし。人のむすめ、やんごとなき所々に御文聞えたまふ人も、今日は心ことにぞなまめかしうをかしき。夕暮のほどに、郭公の名のりしたるも、すべてをかしういみじ。
〔n47〕 木は、かつら、五葉、柳、橘。そばの木、はしたなき心地すれども、花の木どもの散り果てておしなべたる緑になりたる中に、時もわかず、濃き紅葉のつやめきて、思ひかけぬ青葉の中よりさし出でたる、めづらし。まゆみ、さらにも言はず。その物ともなけれど、宿り木といふ名、いとあはれなり。榊、臨時の祭・御神楽のをりなどいとをかし。世に木どもこそあれ、神の御前の物と言ひはじめけむもとりわきをかし。楠の木は、木立おほかる所にも、ことにまじらひ立てらず。おどろおどろしき思ひやりうとましきを、千枝にわかれて、恋する人のためしに言はれたるぞ、たれかは数を知りて言ひはじめけむと思ふにをかし。檜(ひ)の木、人近からぬ物なれど、「みつばよつばの殿づくり」もをかし。五月に雨の声まねぶらむもいとをかし。かへでの木、ささやかなるにももえ出でたる木末の赤みて、同じ方にさしひろごりたる葉のさま、花もいと物はかなげにて、虫などの枯れたるやうにてをかし。この世近くも見え聞えず、御嶽に詣でて帰る人など、しか持てありくめる、枝さしなどの、いと手触れにくげに荒々しけれど、「何の心ありてあすは檜の木とつけけむ、あぢきなきかねごとなりや。たれにたのめたるにかあらむ。」と思ふに、知らまほしうをかし。ねずもちの木、人のなみなみなるべきさまにもあらねど、葉のいみじうこまかに小さきがをかしきなり。楝(あふち)の木、山橘、山梨の木。椎(しひ)の木は、常磐にいづれもあるを、それしも葉がへせぬためしに言はれたるもをかし。
 白樫などいふもの、まして深山木の中にもいとけどほくて、三位・二位のうへの衣染むるをりばかりぞ、葉をだに人の見るめる、めでたき事・をかしき事に申(ま)すべくもあらねど、いつとなく雪の降りたるに見まがへられて、須佐之男命の出雲の国におはしける御供にて、人麻呂よみたる歌などを見るに、いみじうあはれなり。いひ事にても、をりにつけても、一ふしあはれともをかしとも聞きおきつる物は、草も木も鳥虫も、おろかにこそおぼえね。
 譲る葉のいみじうふさやかにつやめきたるは、いと青う清げなるに、思ひかけず似るべくもあらぬ茎の赤うきらきらしう見えたるこそ、いやしけれどもをかしけれ。なべての月ごろはつゆも見えぬものの、師走のつごもりにしも時めきて、亡き人の物にも敷くしやとあはれなるに、またよはひ延ぶる歯固めの具にもして使ひためるは、いかなるにか。「紅葉せむ世や」と言ひたるもたのもしかし。柏木、いとをかし。葉守りの神のますらむもいとをかし。兵衛督・佐・尉などをいふらむもをかし。姿なけれど、すろの木、唐めきて、わろ家の物とは見えず。
〔n48〕 鳥は、こと所の物なれど、鸚鵡はいとあはれなり。郭公、水鶏、鴫、みこ鳥、ひわ、ひたき、都鳥。川千鳥は友まどはすらむこそ、雁の声は遠く聞えたる、あはれなり。鴨は、羽の霜うちはらふらむと思ふにをかし。
 鶯は、世になくさま・かたち・声もをかしきものの、夏秋の末まで老い声に鳴きたると、内裏(だいり)のうちに住まぬぞ、いとわろき。また、夜鳴かぬぞいぎたなきとおぼゆる、十年ばかり内に候ひて聞きしかど、さらに音もせざりき。さるは、竹もいと近く、通ひぬべき枝のたよりもありかし。まかでて聞けば、あやしの家の梅の中(なか)などには、はなやかにぞ鳴き出でたるや。郭公は、あさましく待たれてより、うち待ち出でられたる心ばへこそいみじうめでたけれ。六月などにはまことに音(おと)もせぬか。雀ならば、鶯もさしもおぼえざらまし。春の鳥と、立ちかへるより待たるる物なれば、なほ思はずなるはくちをし。人げなき人をばそしる人やはある。鳥の中に、烏・鳶などの声をば見聞き入るる人やはある。鶯は、文などに作りたれど、心ゆかぬ心地する。
 庭鳥のひななき、水鳥。山鳥は、友を恋ひて鳴くに、鏡を見せたればなぐさむらむ、いとわかう、あはれなり。谷へだてたるほどなど、いと心苦し。鶴は、こちたきさまなれども、鳴く声の雲居まで聞ゆらむ、いとめでたし。頭赤き雀、斑鳩の雄鳥(をとり)、たくみ鳥。鷺は、いと見目もわろし。まなこゐなども、よろづにうたてなつかしからねど、「ゆるぎの森にひとりは寝じ。」とあらそふらむこそをかしけれ。鴛鴦(をし)、いとあはれなり。かたみにゐかはりつつ、羽の上の霜をはらふらむなど、いとをかし。雁の声はるかなる、いとあはれなり。近きぞわろき。千鳥、いとをかし。はこ鳥。
〔n49〕 あてなるもの、薄色に白襲(しらがさね)の汗衫、削り氷(ひ)の甘葛(あまづら)に入りて、あたらしき鋺(かなまり)に入れたる、梅の花に雪の降りたる、いみじううつくしきちごのいちご食ひたる、かりのこ割りたるも。水晶の数珠(ずず)。
〔n50〕 虫は、鈴虫、松虫、はたおり、きりぎりす、蝶、われから、ひをむし、蛍。蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みければ、親に似て、これもおそろしき心地ぞあらむとて、親のあしき衣をひき着せて、「いま秋風吹かむをりにぞ来むずる。待てよ。」と言ひて、逃げていにけるも知らず、風の音聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ。」とはかなげに鳴く、いみじくあはれなり。蜩。額づき虫、またあはれなり。さる心に道心おこして、つきありくらむ。また、思ひかけず暗き所などにほとめきたる、聞きつけたるこそをかしけれ。
 蠅こそにくき物のうちに入れつべけれ。愛敬なくにくき物は、人々しく書き出づべき物のさまにはあらねど、よろづの物にゐ、顔などに濡れたる足してゐたるなどよ。人の名につきたるは、かならずかたし。
 夏虫、いとをかしくらうたげなり。火近く取り寄せて物語など見るに、草子の上に飛びありく、いとをかし。蟻はにくけれど、かろびいみじうて、水の上などをただ歩みありくこそをかしけれ。
〔n51〕 七月ばかりに、風のいたう吹き、雨などのさわがしき日、おほかたいと涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香すこしかかへたる衣の薄きを引きかづきて昼寝したるこそをかしけれ。
〔n52〕 にげなきもの、髪あしき人の白き綾の衣着たる、しじかみたる髪に葵つけたる、あしき手を赤き紙に書きたる。下衆の家に雪の降りたる、また月のさし入りたるもいとくちをし。月のいと明かきに、屋形なき車にあめ牛かけたる、老いたる者の、腹高くてあへぎありく、また若き男持ちたる、いと見苦しきに、こと人のもとに行くとて妬みたる。老いたる男のねこよびたる、またさやうに鬚がちなる男の椎つみたる。歯もなき女の梅食ひてすがりたる。下衆の紅の袴着たる、このごろはそれのみこそあめれ。靫負佐(ゆげひのすけ)の夜行(やかう)、狩衣姿もいといやしげなり。また、人におぢらるるうへの衣はたおどろおどろしく、立ちさまよふも、人見つけばあなづらはし。「嫌疑の者やある。」とたはぶれにもとがむ。六位の蔵人、「うへの判官(はうぐわん)」とうちいひて、世になくきらきらしき物におぼえ、里人・下衆などは、この世の人とだに思ひたらず、目をだに見合はせでおぢわななく人の、内わたりの細殿などにしのびて入り臥したるこそ、いとつきなけれ。空薫物したる几帳に、うちかけたる袴の重たげにいやしう、きらきらしからむもとおしはからるるなどよ。さかしらにうへの衣わきあけ、鼠の尾のやうにてわがねかけたらむほどぞ、にげなき夜行の人々なる。この官(つかさ)のほどは、念じてとどめてよかし。五位の蔵人も。
〔n53〕 細殿に人とあまたゐて、ありく者ども、見やすからず呼び寄せて物など言ふに、清げなるをのこ・小舎人童などの、よき包み・袋に衣ども包みて、指貫の腰などうち見えたる、袋に入れたる弓・矢・楯・細太刀など持(も)てありくを、「誰がぞ。」と問ふに、ついゐて、「なにがし殿の。」と言ひて行くはいとよし、けしきばみやさしがりて、「知らず。」とも言ひ、聞きも入れでいぬる者はいみじうぞにくきかし。
〔n54〕 月夜にむな車のありきたる、清げなる男(をとこ)のにくげなる妻(め)持ちたる、鬚黒ににくげなる人の年老いたるが、物語する人のちごもてあそびたる。
〔n55〕 主殿司(とのもりづかさ)こそなほをかしきものはあれ。下女(しもをんな)の際はさばかりうらやましきものはなし。よき人にせさせまほしきわざなり。若くてかたちよく、なりなど常によくてあらむは、ましてよからむかし。年老いて、物の例など知りて、面なきさましたるも、いとつきづきしう目やすし。主殿司の、顔愛敬づきたらむを持たりて、装束時にしたがひて、唐衣など今めかしうてありかせばやとこそおぼゆれ。
〔n56〕 をのこは、また随身こそあめれ。いみじくびびしくをかしき君達も、随身もなき、いとさうざうし。弁などをかし。よき官と思ひたれども、下襲の尻短くて随身なきぞいろわろきや。
〔n57〕 職の御曹司の立蔀のもとにて、頭弁の、人と物をいと久しく言ひ立ちたまへれば、さし出でて、「それはたれぞ。」と言へば、「弁侍ふなり。」とのたまふ。「何かはさも語らひたまふ。大弁見えば、うち捨てたてまつりていなむものを。」と言へば、いみじく笑ひて、「たれかかかる事をさへ言ひ聞かせけむ。『それ、さなせそ。』と語らふなり。」とのたまふ。
 いみじく見えて、をかしき筋など立てたる事はなくて、ただありなるやうなるを、皆人はさのみ知りたるに、なほ奥深き御心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず。」など、御前にも啓し、また、さ知ろしめしたるを、常に「『女はおのれをよろこぶ者のために顔づくりす。士はおのれを知る者のために死しぬ。』と言ひたる。」と、言ひ合はせつつ申したまふ。
 「とほたあふみの浜柳」など言ひかはしてあるに、若き人々は、ただ言ひにくみ、見苦しき事になむつくろはず言ふ。「この君こそうたて見えにくけれ。こと人のやうに読経し、歌うたひなどもせず、世間すさまじく、なにしにさらにこれかれに物言ひなどもせず。」「女は目は縦ざまにつき、眉は額に生ひかかり、鼻は横ざまにありとも、ただ口つき愛敬づき、頤(おとがひ)の下・頸などをかしげにて、声にくげならざらむ人なむ思はしかるべき。とは言ひながら、なほ顔のいとにくげなるは心憂し。」とのみのたまへば、まいて頤ほそく、愛敬おくれたらむ人は、あいなうかたきにして、御前にさへあしう啓する。
 物など啓せさせむとても、そのはじめに言ひそめし人をたづね、しもなるをも呼びのぼせ、局などにも来て言ひ、里なるには文書きても、みづからもおはして、「おそくまゐらば、『さなむ申したる。』と申しにまゐらせよ。」などのたまふ。「その人の候ふ。」など言ひゆづれど、さしもうけひかずなどぞおはする。「あるにしたがひ、定めず、何事ももてなしたるをこそ、よきにはすれ。」とうしろ見きこゆれど、「わがもとの心の本性(ほんじやう)」とのみのたまひつつ、「改まざる物は心なり。」とのたまへば、「さて、『はばかりなし。』とはいかなる事を言ふにか。」とあやしがれば、笑ひつつ、「仲よしなど人々にも言はるる。かう語らふとならば、何かは恥づる、見えなどもせよかし。」とのたまふを、「いみじくにくければ、『さあらむ人はえ思はじ。』とのたまひしによりて。」「にくくもぞなる。さらば、な見えそ。」と、おのづから見つべきをりも、顔をふたぎなどしてまことに見たまはぬも、「まごころに、そら言したまはざりけり。」と思ふに、三月つごもりころは、冬の直衣の着にくきにやあらむ、うへの衣がちにて、殿上人、宿直姿もあるつとめて、日さし出づるまで、式部のおもとと廂に寝たるに、奥の遣戸をあけさせたまひて、うへの御前・宮の御前出でさせたまへれば、起きもあへずまどふを、いみじく笑はせたまふ。唐衣を髪の上にうち着て、宿直物も何もうづもれながらあるうへにおはしまして、陣より出で入る者など御覧ず。殿上人のつゆ知らで寄り来て物言ふなどもあるを、「けしきな見せそ。」と笑はせたまふ。さて立たせたまふに、「二人ながら、いざ。」と仰せらるれば、「いま顔などつくろひてこそ。」とてまゐらず。
 入らせたまひて、なほめでたき事ども言ひ合はせてゐたるに、南の遣戸のそばに、几帳の手のさし出でたるにさはりて、簾のすこしあきたるより、黒みたる物の見ゆれば、のりたかがゐたるなめりと思ひて、見も入れで、なほことどもを言ふに、いとよくゑみたる顔のさし出でたるを、「のりたかなめり、そは。」とて見やりたれば、あらぬ顔なり。あさましと笑ひさわぎて、几帳引きなほし隠るれど、「頭弁にこそおはしけれ。見えたてまつらじとしつるものを。」と、いとくちをし。もろともにゐたる人は、こなたに向きてゐたれば、顔も見えず。立ち出でて、「いみじく名残なくも見つるかな。」とのたまへば、「のりたかと思ひはべれば、あなづりてぞかし。などかは、『見じ。』とのたまひしに、さつくづくとは。」と言ふ。「『女は寝起きたる顔なむいとよき。』となむ言へば、ある人の局に行きて、かいま見して、またもし見えやするとて来たりつるなり。まだうへのおはしつるながらあるを、え知らざりけるよ。」とて、それより後恥ぢず、局の簾うちかづきなどしたまふめりき。
〔n58〕 殿上の名対面こそなほをかしけれ。御前に人候ふをりは、やがて問ふもをかし。足音どもしてくづれ出づるを、うへの御局の東面(ひんがしおもて)に耳をとなへて聞くに、知る人の名告りには、ふと胸つぶるらむかし。また、ありとも聞かぬ人をも、このをりに聞きつけたらむはいかがおぼゆらむ。名告りよしあし、聞きにくく定むるもをかし。「果てぬなり。」と聞くほどに、滝口の弓鳴らし、沓の音(おと)そそめき出づるに、蔵人のいと高く踏みこほめかして、丑寅の隅の高欄に高膝つきとかやいふゐずまひに、御前の方に向ひて、うしろざまに「たれたれか侍る。」と問ふほどこそをかしけれ。ほそう高う名告り、また、人々候はねばにや、名対面つかまつらぬよし奏するを、「いかに。」と問へば、さはる事ども申すに、さ聞きて帰るを、方弘(まさひろ)は、「聞かず。」とて君達の教へければ、いみじう腹立ちしかりて、かんがへて、滝口にさへ笑はる。
 御厨子所のおもだなといふ物に、沓置きて、はらへののしるを、いとほしがりて、「誰が沓にかあらむ。え知らず。」と、主殿司・人々の言ひけるを、「やや、方弘がきたなき物ぞや。」とりにきても、いとさわがし。
〔n59〕 若くてよろしき男の、下衆女の名言ひなれて呼びたるこそ、いとにくけれ。知りながらも、何とかや、片文字はおぼえで言ふはをかし。宮仕へ所の局などに寄りて、夜などぞ、さおぼめかむはあしかりぬべけれど、主殿寮(とのもりづかさ)・さらぬただ所にては、侍(さぶらひ)・蔵人所にある者をゐて行きて呼ばせよかし。てづからは声もしるきに。はした者・童べなどは、されどよし。
〔n60〕 若き人とちごとは、肥えたるよし。受領(ずらう)など大人だちたる人は、太きよし。あまりやせ、からめきたるは、「心いられたらむ。」とおしはからる。
〔n61〕 よろづよりは、牛飼童べのなりあしくて持たるこそあれ。こと者どもは、されど、しりに立ちてこそ行け、先につとまもられ行く者、きたなげなるは心憂し。車のしりにことなる事なきをのこどもの連れだちたる、いと見苦し。ほそらかなるをのこ・随身など見えぬべきが、黒き袴の裾濃なる、狩衣は何もうちなればみたる、走る車の方などにのどやかにてうち添ひたるこそ、わる者とは見えね。なほ、おほかたなりあしくて人使ふはわろかり。きやれなど時々うちしたれど、なればみて罪なきはさるかたなりや。使人(つかひびと)などこそはありて、童べのきたなげなるは、あるまじく見ゆれ。家にゐたる人も、そこにゐたる人とて使にても、まらうどなどの行きたるにも、をかしき童のあまた見ゆるはいとをかし。
〔n62〕 人の家の門の前をわたるに、侍(さぶらひ)めきたる者などして、ひめきたるをのこつちにをるものなどして、をのこ子の十ばかりなるが、髪をかしげなる、ひきはへてもこはきてたるも、また、五つ六つばかりなるが、髪は頸のもとにかいくくみて、つらいと赤うふくらかなる、あやしき弓・しもとだちたる物などささげたる、いとうつくし。車とどめて、抱き入れまほしくこそあれ。また、さて行くに、薫物の香のいみじくかかへたる、いとをかし。
〔n63〕 よき家の中門(ちゆうもん)あけて、檳榔毛(びらうげ)の車の白う清げなる、はじ蘇芳の下簾(したすだれ)のにほひいと清げにて、榻(しぢ)に立てたるこそめでたけれ。五位・六位などの、下襲の尻はさみて、笏(さく)いと白き、肩にうち置きなどして、とかく行きちがふに、また、装束し、壺胡籙負ひたる随身の出で入りたる、いとつきづきし。厨女(くりやめ)のいと清げなるが、さし出でて、「なにがし殿の人や候ふ。」など言ひたる、をかし。
〔n64〕 滝は、音無の滝。布留の滝は、法皇御覧じにおはしましけむこそめでたけれ。那智の滝は、熊野にあるがあはれなるなり。轟の滝。
〔n65〕 橋は、あさむつの橋、長柄の橋、あまびこの橋、浜名の橋、ひとつ橋、佐野の船橋、うたしめの橋、轟の橋、を川の橋、かけ橋、瀬田の橋、木曾路の橋、堀江の橋、かささぎの橋、ゆきあひの橋、小野の浮橋、山菅の橋。名を聞きたるをかし、うたたねの橋。
〔n66〕 里は、あさかの里、ながめの里、人妻の里、いさめの里、たのめの里、あさふの里、夕日の里、とをちの里、伏見の里、長ゐの里。つまどりの里、人に取られたるにやあらむ、わが取りたるにやあらむ、いづれもをかし。
〔n67〕 草は、菖蒲(さうぶ)、菰(こも)。葵(あふひ)、いとをかし。祭のをり、神代よりとして、さるかざしとなりけむ、いみじくめでたし。物のさまもいとをかし。おもだかも、名のをかしきなり。「心あがりしけむ。」と思ふに。三稜草(みくり)、ひろむしろ、苔(こけ)、こだに、雪間の青草、かたに。かたばみ、綾の紋にてあるも、こと物よりはをかし。あやふ草は、岸の額(ひたひ)に生ふらむも、げにたのもしげなくあはれなり。いつまで草は、生ふる所いとはかなくあはれなり。岸の額よりも、これはくづれやすげなり。「まことの石灰などにはえ生ひずやあらむ。」と思ふぞわろき。事なし草は「思ふ事なすにやあらむ。」と思ふもをかし。また、「あしき事を失ふにや。」と、いづれもをかし。しのぶ草、いとあはれなり。屋のつま、さし出でたる物のつまなどにあながちに生ひ出でたるさま、いとをかし。蓬、いとをかし。茅花(つばな)、いとをかし。浜茅(はまち)の葉は、ましてをかし。まろ小菅、浮草、こま、あられ、笹、たかせ、浅茅、あをつづら。木賊といふ物は、風に吹かれたらむ音こそ、「いかならむ。」と思ひやられてをかしけれ。なづな、ならしば、いとをかし。蓮(はす)の浮き葉のいとらうたげにて、のどかに澄める池の面に、大きなると小さきと、ひろごりただよひてありく、いとをかし。取りあげて、物おしつけなどして見るも、よもにいみじうをかし。八重葎、山菅、山藍(やまゐ)、日陰、浜木綿、葦。葛の風に吹きかへされて、裏のいと白く見ゆるもをかし。 
〔n68〕 集は、万葉集、古今集、後撰集。
〔n69〕 歌の題は、都、葛、三稜草、駒、霰、笹、つぼすみれ、日陰、菰、たかせ、鴛鴦(をし)、浅茅、しば、あをつづら、梨、なつめ、あさがほ。
〔n70〕 草の花は、なでしこ、唐のはさらなり、やまともめでたし。女郎花、ききやう、菊の所々うつろひたる、かるかや、竜胆(りうたん)、枝さしなどむつかしげなれど、こと花はみな霜枯れたれど、いと花やかなる色合ひにてさし出でたる、いとをかし。わざと取り立てて、人めかすべきにもあらぬさまなれど、かまつかの花、らうたげなり。名ぞうたてげなる。雁(かり)の来る花と、文字(もじ)には書きたる、かるひの花、色は濃からねど、藤の花にいとよく似て、春と秋と咲く、をかしきなり。つぼすみれ、同じやうの物ぞかし。老いていけばをしなど憂し。しもつけの花。
 夕顔は、あさがほに似て言ひつづけたる、をかしかりぬべき花の姿にて、にくく、実のありさまこそいとくちをしけれ。などて、さはた生ひ出でけむ。ぬかづきなどいふ物のやうにだにあれかし。されど、なほ夕顔と言ふばかりはをかし。
 葦の花、さらに見所なけれど、みてぐらなど言はれたる、心ばへあらむと思ふに、ただならず。もしも薄にはおとらねど、水のつらにてをかしうこそあらめとおぼゆ。「これに薄を入れぬ。いとあやし。」と人言ふめり。秋の野おしなべたるをかしさは薄にこそあれ。穂先の蘇芳に、いと濃きが、朝露に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞいと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花のかたもなく散りたる後、冬の末まで、頭いと白くおほきなをも知らで、昔思ひ出で顔になびきてこびろき立てるは、人にこそいみじう似ためれ。よそふる事ありて、それこそあはれとも思ふべけれ。
 萩は、いと色深く、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れて、なよなよとひろごり伏したる。さを鹿(じか)のわきて立ち馴らすらむも、心ことなり。唐葵は、取りわきて見えねど、日の影にしたがひてかたぶくらむぞ、なべての草木の心ともおぼえでをかしき。花の色は濃からねど、咲く山吹に。岩つつじも、ことなる事なけれど、「折りもてぞ見る。」とよまれたる、さすがにをかし。さうびは、ちかくて、枝のさまなどむつかしけれど、をかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木のはしなどのつらに乱れ咲きたる夕映え。
〔n71〕 おぼつかなきもの、十二年の山籠りの女親(めおや)。知らぬ所に、闇なるに行きあひたるに、あらはにもぞあるとて、火もとさで、さすがに並みゐたる。いま出で来たるものの心も知らぬに、やんごとなき物持たせて、人のがりやりたるに、おそく来る。物言はぬちごの、そりくつがへりて、人にもいだかれず泣きたる。暗きに、いちご食ひたる。人の顔知らぬ物見。
〔n72〕 たとしへなきもの、夏と冬と、夜と昼と、雨降ると日照ると、若きと老いたると、人の笑ふと腹立つと、黒と白と、思ふとにくむと、藍ときはだと、雨と霧と。同じ人ながらも心ざし失せぬるは、まことにあらぬ人とぞおぼゆるかし。
〔n73〕 常磐木おほかる所に、烏のねて、夜中ばかりにいね、さわがしく落ちまろび、木づたひて寝おびれたる片声に鳴きたるこそ、昼の見目にはたがひてをかしけれ。
〔n74〕 しのびたる所にては、夏こそをかしけれ。いみじう短き夜の、いとはかなく明けぬるに、つゆ寝ずなりぬ。やがてよろづみなあけながらなれば、涼しう見わたされたり。いますこし言ふべきことのあれば、かたみにいらへどもするほどにただゐたる前より、烏の高く鳴きて行くこそ、いと顕証なる心地してをかしけれ。
〔n75〕 また、冬のいみじく寒きに、思ふ人とうづもれ臥して聞くに、鐘の音の、ただ物の底なるやうに聞ゆるもをかし。鳥の声も、はじめは羽のうちに口をこめながら鳴けば、いみじう物深く遠きが、つぎつぎになるままに、庭近く聞ゆるもをかし。
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